カモマイルの悪魔 | ナノ


あれから数日経過したものの白岩社長はおろか幸村でさえも家には帰ってくる気配がない。さらに、あれほどマメに連絡が来ていた跡部からも詫びの言葉を最後にぱったりと連絡が途絶えた。
弁当をつまむ手をとめてふと教室から外を見ると、校舎の側に植えられた銀杏の葉がやや黄色がかってきているのに気がついた。普段なら美しく感じるであろう季節の移り変わりも、今はただ憂鬱なだけだ。

「ふうん、跡部先輩も今忙しいんだ。やっぱりね。むね……樺地さんも今は時間がなかなか取れないって連絡来て」
「そっか、それは寂しいね」

隣の席で相も変わらずおにぎりをかじる美波の存在が今はとても有り難かった。原因は違えどこのネガティブな気分を共有することができる。
──これから白岩カンパニーはどうなるのだろう。
胸にぽつりと染みついた不安が潤を落ち着かない気分にさせた。モイラ社の詳細な情報はネットにも載っておらず、ただ、新聞の経済面や経済誌には白岩カンパニーが敵対的買収されるかもしれないとのニュースが踊っている。大学へ行けば経済通の友人たちに心配されたり現状はどうなっているのかと質問されたりしたけれど、何も具体的な返事ができるわけでもなく、ただ潤は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
ぐるぐるめぐる思いの、気持ちの置き所が、ない。

「潤こそ寂しいんじゃない?あれだけ跡部先輩にグイグイ来られてたのに急にそれがなくなるって……え、まさか反応が鈍い潤にじれて駆け引きに出たとか!?」
「あはは、違う違う。うちの会社が買収されると業界の勢力図が変わるから対策を検討してるんだと思うよ。たぶんね」

苦笑してひらひら手を振って見せると、美波はおにぎりから口を離してぽかんとした顔になった。そしてまじまじと見つめてくる。一体どうしたというんだろう。何か変なことでも言っただろうか。潤は困惑して美波を見返したが彼女は固まったままだった。

「美波?どうしたの?」
「え、と……もしかして、潤」
「うん」
「跡部先輩に、冷めた?」

思わず吹きそうになる。お茶を飲んでいるタイミングではなくて本当に良かった。跡部に気がないことにようやく気がついたらしい。
潤は、なんとも言えない顔でのぞき込んでくる美波に両手を合わせてみせた。

「美波、ごめん。最初に騙した私が悪かった」
「騙した?」
「その、私、もともと跡部先輩のこと別に好きじゃない」

美波は目を大きく見開いた。そして一拍ののち、ほうっと大きくため息をついた。

「ダブルデートのときに跡部先輩のこと好きだって言ってたのも、私と樺地さんをくっつけるためだったってこと?」
「うん。ごめん」
「謝らないで、そこには感謝してるから!潤が跡部先輩のこと好きじゃないって言うのは照れてるんだと思いこんでたけど、……ずっと潤の態度に違和感はあって。でも気がつかないふりしてたのかも」
「……ふふ、何より最近の美波はずっと樺地さんに夢中だったしね?」
「な、ちょっと、潤!」

とたんに真っ赤になった美波に潤は微笑んだ。あの鋭い美波が親友のあからさまな感情を読めなかったぐらいだ、それだけ恋に夢中だったということだ。やれ合コンだのなんだのに積極的に参加する割には恋愛をするでもなかった美波がこんなに乙女になるとは、いったい恋とはなんなのだろう。恋愛事は好きじゃない、できるだけ避けたいと思っていた、でも恋をする美波を見ていると今の暗い気分でさえも軽くなる。

「いいじゃない。とっても素敵だと思うよ、美波と樺地さん」
「ちょっと、やめて……からかわないで……」
「本気だってば。ねえ、恋するってどんな感じ?」

美波は赤くなったままうろうろと視線をさまよわせていたが、やがて熱いため息をついて語り始めた。

「最初は、唐突に、樺地さんしか目に入らなくなって。誠実そうに見えるなと思って、話してみたら本当に誠実で優しくて、気がついたら樺地さんのことしか考えられなくなってた。ほんとに寝ても冷めてもっていう状態でね、おいしそうなケーキみてもこれ樺地さん好きかなあとか、一緒に食べたいなあとかそんな風に考えちゃって。頭の中が樺地さん中心になったっていうか」
「……中心に」

何気なく言われた言葉にどきりとして、潤は真顔になった。中心に。つい最近言われた言葉だ。
突然声色が変わったことに気がついたのか、美波が眉をひそめた。

「大丈夫?」
「あのね、千石さんて覚えてる?」
「えーと、前に合コンで会った人?亜久津さんの友人だったとかいう」
「そうそう。彼が、私の中心は幸村だって言ってたみたいで」

説明しながら、なんでこんなこと言っちゃったのだろうと潤は思った。桑原からちらっと聞いただけの話だ、真意は千石に問いただせばいいことだというのに。

「千石さんからはなんでそう見えたんだろうね。ごめん、それだけなんだ。ふと思い出しただけ」

潤はごまかすように首を横に振って笑って見せたが、美波は全く笑いもせずに真剣な表情になった。

「潤、今、幸村さんとどんな状態なの?」
「……。なんて言えばいいのかな」

言いよどんでいると、弁当箱を片づけた美波がぎゅっと抱きついてきた。頬にあたる美波の髪の感触が以前の記憶を呼び覚ます。そういえば幸村をスパイみたいだと言ったのは美波だったっけ。彼女がはじめて白岩家に遊びに来たときの話だ。あのときの美波は怯えたように潤に抱きついてきたのだ。
潤は目をつぶって美波を抱き返した。事態は、あのころよりもずっと複雑になってしまっている。

「前は、幸村は私に」

愛してるって言ってきていて、それを言わなくなって、それで。
正直に話そうとしたものの、言葉は喉の奥で詰まってそのまま溶けてしまった。潤は消えゆく言葉を必死で喉から押し出そうとした。

「……前は、嫌みや戯れ言を言うことが多くて。でもそんなこと言われるのは嫌だってハッキリ断ったら、幸村に何か言われることは減って。代わりに新しいメイドの泉さんが私の世話をするようになって、幸村は泉さんと……たぶん相思相愛で、……でも要所要所で幸村が釘を刺したりしてくることは続いてて。アルバイトの話もそうだけど」
「幸村さんとの距離が前よりも離れていってるっていうのは事実なのね?」

潤は頷いた。胸の内が苦しい。息苦しい。そうだ、幸村との距離が離れた、そのはずなのに。なんだろうこの胸に渦巻く思いは。結局幸村という鎖で縛り付けられたまま、とらわれたままで未だに逃れることができていないのだ。それとも自分で勝手にとらわれているだけとでもいうのだろうか、幸村に。距離が離れれば楽になるのだろうと思った、でも結局苦しいのは変わらなかった。

「幸村って、私の、なんなんだろう」

吐き出すように言ったつもりが掠れた小さな声がでる。
昔のような優しいお兄さんでもない、家庭教師でもない、ただの父親の会社の社員でもなければただの使用人でもない。ならば、幸村にとらわれているのはなぜなのか。

「私にとっての幸村精市も、会社にとっての幸村精市も、わからない」

かつて跡部が言ったことを思い出す。なぜ俺たちの邪魔をするのか、本当に白岩社長に忠実なのかと問うてきた。あのころは幸村の忠実さは疑いもしなかった、だがどうだろう、幸村は白岩社長の書斎で何かをしており、それを潤に隠していた。綾希を以前から知っていたことについても黙っていた。それは、何故?

「潤は、幸村さんのこと──」
「幸せな気分になるわけでもないのに、幸村のことばっかり考えたってネガティブな気分になるだけなのに」

それでもなお、脳裏に浮かぶのが幸村なのは何故なのか。
幸村に望み通り目の前から消えると宣言したのはつい最近だ。だけど。果たして幸村の目の前から消えたところで、この気持ちは楽になるのだろうか。


***


しばし沈黙していた白岩社長は、間をおいてから静かに問うた。

「今、なんと?」

社長の隣に座っていた鈴木は唾を飲んで鳩尾に力を込めた。これから交わされる言葉の成り行きによっては、白岩カンパニーの命運がまた変わるかもしれない。少し離れたところに座っていた幸村は目を見開いて「彼」を見つめている。
鈴木が目の前にいる彼──跡部景吾に目をやると、彼は自信に満ちた笑みを浮かべて顎を上げた。

「俺が、俺の会社が白岩の『白馬の騎士<ホワイトナイト>』になってやる、と提案しているのです」

ホワイトナイトとは敵対的買収の対象となっている企業を先に友好的に買収することを指す。つまり今回であれば、白岩カンパニーがモイラ社に無理矢理買収される前に、先手を打って跡部の会社が白岩カンパニーを買収するということだ。
語り続ける跡部の目は爛々と輝いているように見えて、鈴木はさりげなく目をそらした。

「……自分から跡部財閥に身売りをしろということかね?」
「そうだ。モイラ社に買収されりゃ白岩社長はほぼ間違いなくクビ、白岩カンパニーも出涸らしになるまで吸い尽くされて終わりだ。だがうちが買収すれば話は変わってくる。白岩カンパニーは跡部財閥のグループ会社として生まれ変わることができる。従業員をリストラすることもねえ」
「うちを買収することで、跡部にはどんな利益があると?」
「外食部門および食品宅配部門が強化される。知っての通り、そのあたりはうちは弱いからな。悪い話じゃねえだろ、アーン?俺も親父も白岩社長の手腕は認めているんだ、首を切るつもりはねえ……信じられねえなら書面に残してもいいぜ」

再び沈黙が落ちた。余裕の笑みを浮かべる跡部とは反対に、白岩社長は無表情で手を組んだ。鈴木はその仕草が白岩社長が重要なことを尋ねるときの癖だということを知っている。

「それで、言いたいことはまだあるんじゃないか?景吾くん。この騒動の渦中に、わざわざ私に直接提案しに来たくらいなのだから」
「ハッ」

跡部は鼻を鳴らして、実に可笑しそうに笑い出した。重苦しく静かな室内に、冷笑にも似た跡部の笑いだけが響く。幸村がぎゅっと眉間に皺を寄せるのが鈴木の目の端にとまった。

「ハッハッハ、ククッ、わかってんじゃねーの。だから白岩は興味深い、年くってるだけの経済界のジジイどもに爪の垢でも飲ませたいぜ。……端的に言う。俺様はまだホワイトナイトになると決めたわけじゃねえ。跡部の部門強化は他の方法でもできるからな」
「敵対的買収を防ぐホワイトナイトになってもいいが条件がある、ということかな」
「そうだ」
「内容は?」

跡部は目を細めて薄い笑いと浮かべるとテーブル越しに身を乗り出し、低い声ではっきりと告げた。

「俺と潤との結婚だ」


(20160618)

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