カモマイルの悪魔 | ナノ


遊んでやろうか、だなんて、あんな台詞。冗談でも言って欲しくなかった。思い出すたびに、耳に残された甘美な猛毒が心を蝕んでいく。



***



新学期はいつも忙しい。長い休みがあけて授業を選び、履修登録をして、これまでとは異なる新たな生活がやってくる。初秋も過ぎたころの朝は夏の残り香もほとんど消えて、すがすがしい空気があたりに漂っている。ダイニングルームの窓から見える草木はやや黄色がかってきていて夏の頃に見せた勢いは衰えつつある。
白岩社長は新聞を片手にコーヒーを飲みつつ、のんびりと尋ねた。

「それで、最近跡部くんとはどんな状態なんだね」
「んっ!?」

唐突な質問に潤は飲んでいたカフェラテを吹き出しそうになって、慌てて喉に力を入れた。口を押さえつつ、こちらに布巾を持ってこようとしている綾希にジェスチャーで大丈夫だと伝える。潤は斜め向かいの席に腰掛ける白岩社長を睨んだが、彼は新聞に夢中でこちらの様子には一向に気が付かない。白岩社長の後ろに控えた幸村もぴくりとも表情を動かさない。
前にもこんな質問をされた気がするが、何度されても慣れないものだ。

「どんな状態って……普通?」
「跡部くんには気に入られているんだろう?おまえはどうなんだ」
「そんなこと言われても」
「まあ、時間をかけて関係を構築するのも悪くないがね」

ようやく新聞から目を離してにっこりと笑顔を向けてくる父親に、潤は曖昧な笑みを返した。白岩社長は具体的なことは何も言わないが確実に期待していることが見てとれた。それも、以前よりももっと強く。
潤は父親から目をそらして仁王特製のセサミベーグルを口に運んだ。一口噛むごとに胡麻の香ばしさが口腔に広がるけれども、それは以前とは違ってあまり幸福感を運んでこなかった。
客観的に見れば、贅沢以外のなにものでもないと分かっている。財閥の御曹司、眉目秀麗、聡明でスポーツもできてビジネス上の実力もある、おまけに優しい、そんな青年にアプローチされて不満を言う方がおかしいのだ。この世界では未だに政略結婚などよくある話なのだから、潤にとっても跡部の件は申し分ない話なはずだった。だけれどもどうだろう、跡部とは親密になればなるほど跡部との関係に違和感が増すばかりなのだ。どう表現すればよいのかわからない、だが跡部が潤ではなくどこか別の場所を見ているような、何か歯車が噛み合っていないような気がしてならなかった。

「しかし、景吾くんは……──おっと、失礼」

スマホが鳴り出して、白岩社長は席についたまま電話を受けた。潤はこれ幸いとばかりに急いでベーグルを咀嚼し始めた。今のうちに食事を終えて席を立ってしまおう。

「ああ、鈴木か。今食事中なんだが……なに?」

白岩社長が乱暴に椅子から立ち上がった。潤は驚いて白岩社長を見、ぎょっとする。緊急事態にもまるで動じたことがない彼の顔は、青ざめていた。白岩社長はたたきつけるようにコーヒーカップをテーブルに置くと、怒鳴るように叫ぶ。

「相手は?モイラ・アンド・ゴブ?もしかして、件のか!?それで具体的にどうなったんだ」

スマホの奥からは鈴木副社長の慌てたような声が次々と漏れ聞こえたが何を言っているかまでは聞こえなかった。幸村は一瞬眉間に皺を寄せたがその場から動かず黙って白岩社長の背中を見つめ、しかし彼の顔は強ばっている。ただ事ではないということが潤にもわかる。
しばらく黙ってスマホに耳を傾けていた白岩社長はかすれたような声で言った。

「M&A……」

白岩社長は唇を微かに震わせて、盗蜜者が、と呻く。ぎょっとしたように目を見開いた幸村は、険しい顔をして白岩社長に詰め寄った。

「社長!まさか」
「ああ。幸村、急いで支度しろ。会社に行く」
「かしこまりました。泉さん、後はお願いします」
「承知いたしました」

白岩社長と幸村は連れだって慌ただしくダイニングから出て行ってしまった。潤はしばらく固まっていたが、耳にした単語が脳に浸透するにつれ、ようやく何が起きたのかぼんやりとわかってきていた。後ろを振り返ってそこで控える綾希に話しかける。

「今の、聞いた?」
「はい」
「M&Aって敵対的買収のことよね」
「ええ」
「うちが買収されそうになってるってこと?」
「おそらくは」

つまり、白岩カンパニーが他の企業に乗っ取られるかもしれない、ということだ。
潤はごくりと唾を飲み込んだ。ある会社が敵対的買収をする──すなわち別の会社を無理矢理にしかし合法的に乗っ取り吸収するというのは海外ではよくある話だと聞く。だが日本ではそれほどよくあることではない。
買収されれば、たいていそれまでの経営者は経営を辞めさせられる。つまり、白岩社長が社長でなくなるかもしれないということだ。

「綾希さん、モイラ・アンド・ゴブって聞いたことある?」
「いいえ、全く。社長の反応からすると有名なのでしょうか」
「少なくとも一般人は知らないわね」
「ええ。それに、とうみつしゃ?と社長は仰いましたが、何のことでしょう。潤様はご存じですか」

脳裏に白岩社長の台詞が蘇ってくる。
──盗蜜者に気をつけなさい。
政治家のパーティーに出席するときに父親から唐突に言われたこの言葉。あれが何を指しているのかは結局潤にはわからず、同じように幸村にもわからないようだった。だが、もし、あの言葉が今回のようなことを予期した上での台詞だったとしたら?蜜は人間にとっては単なる甘味の一つだが蜂にとっては生命線だ。白岩社長の言う盗蜜者が狙っている蜜というのがもし、白岩家の生命線である白岩カンパニーのことだったとしたら。盗蜜者というのがもし、モイラ・アンド・ゴブのことだったとしたら。会社経営には一切関与していない潤に社長がわざわざそんな注意をするくらいだ、もし、もし──白岩社長が恐れていたのが、モイラ社の手先が潤に接触してくることだとしたら?

「……いいえ。何のことだか私にも」

仮にスパイがいるのだとして、誰がスパイなのかなどわかったものではない。


***


鈴木副社長は落ち着かない気分で、白岩社長と幸村が自家用車で会社に乗り付けるのを待っていた。彼は隣で同じく控えていたドアマンが動くのも待たずに車の扉をあけた。

「白岩社長!」
「他の役員は」
「召集中です」
「資料を」
「どうぞ。モイラ社の意向についてはまだ詳しいことは」

早足で建物の中へ入る白岩社長に続いて、鈴木は幸村とともに会議室へ向かう。早朝の会議室はいつも少し冷んやりとしたさわやかな空気が流れているが、それさえも今の鈴木にとっては重苦しい。
白岩社長どさりと椅子に座り込み渋い顔で渡された紙束を見つめている。鈴木が幸村にも資料を渡すと、彼は会釈をして無表情に近い顔でそれをゆっくりとめくった。
恐ろしい沈黙が落ちる。呼吸音さえも消失してしまっているように思われた。
数分ののち、白岩社長は苦々しい様子で口を開いた。

「……オーストラリア出身の新興IT企業か。最近その名を耳にしたばかりだよ」
「向こうでは話題になりつつありましたしね。モイラ社は経営拡張のために買収することもあれば、単に利ざや目当ての買収も行うそうで」
「今回の意図は?」
「少なくともモイラ社の経営陣はまだ発表しておりません」
「このタイミングで……」

白岩社長は呻いた。そして再び沈黙が落ちる。他の役員たちはまだ来る気配がない。
鈴木は横目で幸村を見た。彼は妙に落ち着いているように見えて、鈴木は少し目を細めた。白岩カンパニーの経営陣が負けると決まったわけではない。そもそもモイラ社に買収されると決まったわけでもない。むしろ戦いの幕は落ちたばかりだ。だがそれでも、この窮地において幸村のこの冷静さ。幸村は社長秘書のような役割を担ってはいるものの、会社役員ではない。ただの一社員だ。だからこそ冷静でいられるのか、あるいは──……もっと別の理由があるのか。
心に止めておこうと内心で呟いて鈴木が白岩社長に目を戻すと、白岩社長もまた、資料を読み続ける幸村をじっと観察していた。

***


バスローブを羽織って雑に髪をかき上げると水滴が手から垂れて肩を濡らした。朝のジョギングを終えて、ちょうどシャワーを浴び終えたところだった。
シャワールームから出た跡部景吾は、スマホが部屋の空気を振動させていることに気がついた。彼はゆっくりと窓辺に歩み寄ると傍らのテーブルに置いてあったスマホに手を伸ばした。

「よお、樺地か。どうだ、動きはあったか」
「ウス。今朝、です」

跡部は目を見開いて一瞬言葉に詰まった。ここ最近、毎朝樺地から電話を受けていた。そのたびに跡部は同じ質問をし、しかし返ってくる言葉は常に否定を意味するものだった。だが今日は違う。
突き上げるような衝動が胸の奥底からこみ上げてきて脳天まで貫くように駆け上がる。跡部はぶるりと身震いをした。ずっと、この時を待っていた。舞台の準備が整うときを、ずっと。
窓の外を見れば、上ったばかりの朝日が庭に輝きを添え始めている。自室から見える大型のオベリスクには絡みつくようにしてキングローズが茂っていた。秋になった今、それは「あのころ」とは違い一つも花を咲かせていない。けれどもその葉はきらきらと白い光を宿していた。

「どうだ、向こうの様子は」
「想定通り……です」
「フッ、そうか……ククッ……、ハッハッハッハ!」

こみ上げてくる衝動が喉を震わせ、それは共鳴してどんどん膨れ上がり、ついに跡部は声を上げて笑い始めた。
この日をどれだけ待ち望んだことか!予定通りとはいえ予定を確実に実現させる方法など跡部家にもありはしない、その予定が今やこの目の前に現実となって鎮座しているのだから、なんということだろう!

「──さあて、せいぜい踊ってもらおうか。お手並み拝見だ」
「ウス」

跡部は歪んだ笑みを浮かべたままスマホを切り、再び窓に向き直った。ガラスに写る跡部の目には笑いは含まれていなかった。


(20160603)

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会社名が某洋ゲーネタ。

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