カモマイルの悪魔 | ナノ


十分すぎるほど時間に余裕を持って出発する癖が今回ばかりは役に立った。
仕事開始まであと1分。
脱げそうになるサンダルで必死に駆けて、潤はクイーンビーの裏口に体当たりをするように飛び込んだ。勢いよく中に入ると、ちょうどこちらに背を向けてなにやら話していたマスターと亜久津が一斉に振り返った。ファイルを片手にペンを指先でくるくる回していたマスターは眉を上げるとニヤリと笑い、他方の亜久津は驚いたように目を見開いてから眉間に皺を寄せた。

「す、みません!ぎりぎりになってしまって」
「ほら、な?言った通りだろ、ジン。やっぱり言った通りじゃねえか」
「ハッ、ちったあマシになったってことかよ」
「隠れてたモンが表出ただけだろうぜ。それより約束は守れよ」
「チッ」
「え、あの?」

何の話をしているのかさっぱり分からない。マスターはニヤニヤ笑いながら亜久津に向かって車のキーを放り投げ、亜久津は嫌そうな顔でそれを受け取って身を翻した。そして険しい顔のまま潤の目の前にそびえ立つ。
亜久津はしばし潤を睨みつけるように見下ろした後、口を開いた。

「テメエ、バイト辞めんのか」
「えっ!?な……んで、まだ言ってないのに」

臭わせるようなことも言っていないはずなのに、遅刻しかけただけだというのになぜ気が付いたのか。潤が言葉に詰まると亜久津は鼻を鳴らしてキーを握り直し、潤の横を通り過ぎて裏口のドアを肩で押した。

「せいぜいあがいてみることだな」
「亜久津さん」

亜久津は言うだけ言うと振り返りもせずに黒い扉の向こうに消えていってしまった。潤は話の前後につながりが全くないその言葉に唖然として彼が消えた方を眺めていた。なにを言わんとしているかははっきり分からなかったというのに、亜久津らしいぶっきらぼうな言い方だったというのに、それは不思議と亜久津からのエールに聞こえた。
マスターはファイルを脇に抱え、喉を鳴らして笑った。

「ジンは今日は他店の応援だ。嫌がってたんだが、潤が来たおかげで行かせることができたぜ」
「私ですか」
「ああ。掛けたんだよ。潤が今日来るかどうかってな。俺は当然潤が来る方に掛けた。それでジンに勝ったってわけだ」
「掛け?あの、私、辞めるとも今日は休むとも言ってませんでしたよね。確かに今日ドタキャン寸前になっちゃいそうだったんですけれど、それに、辞めさせて下さいって話も確かにするつもりでしたけれど。なんで分かったんですか?」

マスターは笑いを収めると、珍しくまじまじと潤を見た。潤もつられて真顔になる。こうやって真剣な空気を纏って彼と対峙したのははじめてかもしれない。
マスターの、茶というには薄い色をした瞳が細められた瞼の間できらりと輝いたように見えた。

「そうかよ、なるほどナァ」
「……あの」
「最近沈んでる様子だったからな。それに、この前潤に話しかけてた色黒のやつと細目のやつ、潤んとこの執事のダチなんだろ?」
「あ。もしかして亜久津さんから聞いたんですか」
「ああ。お嬢がこんなとこにいるって使用人にバレたらヤバいっていうのはさすがにわかるからな」

全くその通りだった。潤は自分のロッカーに荷物を押し込むと、マスターに深々と頭を下げた。

「突然で申し訳ありません、マスター。アルバイト、辞めさせて下さい」
「おう。そりゃ残念だけどな、もともと短期でもいいくれえだったから気にすんな」
「ご迷惑おかけして、ごめんなさい」
「大丈夫だって。今日だってジンを他店に行かせられるくれえ余裕あんだからよ」
「……せっかく、役に立てるようになってきたのに」

潤は腰にエプロンを巻いて、うなだれた。ようやく仕事に慣れて要領よくこなせるようになってきたのに。せっかくここまで指導してもらったのに辞めなければならないなんて。

「だーから、気にすんな!潤は十分役に立った」
「ほんとですか?」
「ああ。潤みてえな若い女の子がジンと仲良くしてたおかげで、新入社員どももジンに接しやすくなってたんだぜ?」
「えっ」
「ジンは態度が悪りーから怖がられんだよ」

ゲラゲラ笑うマスターにつられて潤もついクスッと笑った。潤は亜久津に助けられたという経緯があるから亜久津を怖いと思ったことはなかったが、確かに、普通に出会っていたら怖くてビクビクしてしまっていたかもしれない。

「潤。バイト辞めたら、今度はまた客として遊びに来いよ。さ、今日も開店前の準備からだ!最後の仕事、頼んだぜ」
「っ、はい!」

潤はもう一度深く頭を下げると、深呼吸をしてからホールへ続く扉を押した。人のいないホールを見るのももう最後だろう。


***


辞めたくはなかった。明るい気分とはとても言えない。心の奥底は鉛を飲んだように重い。けれどもマスターのおかげなのか亜久津のおかげなのか、潤は不思議と穏やかな気持ちで最後の仕事を終えて、裏口から外へ出た。クイーンビーの裏口に面した裏道は細く、ときどきパチッと明滅する街灯がそこらに散らばったごみ屑を弱々しく照らし出している。
丁寧に扉を閉めた潤が振り返ると、少し離れたところで桑原がこちらを伺うようにして立っているのが見えた。潤は驚かなかった。今日も飲みに来ていた桑原はいつもとは違って潤に声を掛けてくることがなく、しかし何かを言いたそうにちらちらと潤を見ていたのだ。

「な、なあ」
「はい。話があるんですよね?」
「ああ。……実は、その。幸村に頼まれてな」
「え」
「もし今日白岩潤がここに来ることがあったら、家まで送ってきてほしいってな。いいか?」
「なるほど、わかりました。お願いします」

素直に頷くと桑原は拍子抜けしたようにちょっと黙って、ぎこちなく頷いた。潤は鞄を肩にかけ直して桑原の隣に並んだ。そのまま二人で黙って、裏道にころがるゴミをよけるようにして歩く。まもなく大通りに抜けたところで、桑原はようやく口を開いた。

「前にカウンターで柳が言ったこと覚えてるか?」
「幸村にバレるのは時間の問題だってやつですか?」
「ああ、それ。全くその通りだったんだ。柳の言うことだから正しいとは思っちゃあいたけどな」

桑原はまるで独り言を呟くかのように言うと、ちらりと横目で潤を見て眉をハの字にした。

「悪い。嘘、つけなくてな。おまえのことしゃべったのは俺だ。もうわかってるだろうけどよ」
「あら、お気になさらず。仕方ないですし。怒ってるわけじゃないですよ、本心です」
「だが」
「いいんです。もともと無理があったから。幸村はよく気がつきますし、いつかはばれるだろうとは思っていました」
「そうか」

桑原は剃った頭をつるりと撫でると、深々とため息をついた。潤は疲れたような桑原の表情を見て少し同情的な気分になった。この人はどうやら幸村の言動に全面的に賛成しているというわけではないらしい。人がよさそうだとは思っていたが、それだけではなく苦労人っぽい雰囲気がある。幸村に何かを頼まれたら性格的に断れなさそうだ。

「久しぶりに会ったっつうのに目は笑ってねえし、そのくせ口でだけ笑っていて、あんな恐ろしい幸村見たのは久しぶりだったぜ。ずいぶん幸村に大事にされてるんだな」
「よく言われます。でも、どうなんでしょうね。白岩家のお嬢様は大切でも、私の人格なんてどうでもいいんじゃないですか」
「何。実の妹みたいに可愛がられてたじゃねえか」
「ええ。昔は、ね」

潤の様子に思うところがあったのか、桑原は口を閉じた。潤と桑原はまた黙ったまま、ネオンの輝く繁華街の中を歩いていく。そのまま駅へ向かう人の波に乗って、二人は電車に乗り込んだ。少し込んでいる車内で桑原に誘導されて、潤は人の少ない電車の隅にすべりこんだ。壁に取り付けられている銀色の金属板に自分の無表情が写って、潤はさりげなく顔を反らした。カタンカタンと電車は大きく揺れる。
隣に立って吊革に掴まった桑原はあやすような優しい口調で再び話し始めた。

「あそこの店に千石を連れてったの、白岩なんだってな」
「ええ、そうです。亜久津さんから聞いたんですか?」
「いや、千石本人から。一昨日たまたま店で会ったんだ。あいつ、おまえのこと心配してたぜ」
「……千石さん、前に、うちまで送って下さったことあるんですよ。幸村と」
「幸村と?幸村と千石が一緒におまえを家まで送ったって意味か?」
「そうです。そのときに私と幸村が犬猿の仲なのを見て、ずっと心配してくださってるんです。優しいですよね」

桑原ははっと息をのむと黙り込んだ。電車の窓に写り込んでいる桑原はややうつむき加減で難しい顔をしている。桑原は幸村と久しぶりに会ったと言っていた。ということは、桑原は仁王や丸井ほどには白岩家の事情や今の幸村の姿を知らないのだろう。
再び電車が大きく揺れた。それにつられて潤も桑原も左右に揺さぶられる。

「何かおかしいとは思ってたんだ。幸村の態度も潤の態度も、前に比べて妙にかてえように見えるっつーか、仲違いしてるみてえだなってな」
「そう、でしょうね」
「千石がおまえらはお互いにお互いが中心にいるっつってたから、俺の勘違いかと思ってたんだけどそうじゃなかったってことだな」
「えっ?何ですって?」

何、なんだって。桑原から出てきた予想外の台詞に潤は小さく飛び上がった。だが答えを聞く前に電車はスピードをゆるめて、家から最寄りの駅に静かに滑り込んでいった。
桑原は開き掛けた口を閉じて潤を腕を優しく取ると、先だって人の波をかきわけ外へエスコートしてくれた。そのまま潤と桑原は一緒に改札から出て、冷んやりした夜の空気の中を歩いていく。

「家、こっちで合ってるよな?」
「はい」

静かな住宅街の中で二人分の足音だけが響く。さきほどの質問を重ねて尋ねるタイミングはもう逃してしまった。
──私の中心に幸村がいる?そんなばかな。
潤は小さく頭を振った。千石さんはなぜそんなことを言ったのだろう。わからない。千石はキミ可愛いねだのデートしないだのと常日頃から口説き文句を気軽に口にする男だけれども、その実、人の重要な問題については考えなしにものを言うタイプではない。つまり、千石からは本当にそう見えているということだ。幸村の中心は潤で、潤の中心は幸村であるかのように。
……確かに、潤の生活は幸村によってかなり制約を受けている。立ち振る舞いといい、今回のようなアルバイトの話といい。しかしそれは幸村が白岩家の使用人で、白岩社長の信頼を得ていて、潤のことについて管理をする立場にいるからだ。
確かに、ある意味幸村が生活の中心なのかもしれないけれど。
でも、それは、そういうことだ。それだけの意味なのだ。



***



「悪いな、ジャッカル」
「おい、幸村──」
「お礼は必ずさせてもらうよ。後で連絡する」

幸村は張り付けたような笑顔でそう言うと、潤を腕を強くつかんで玄関の中へ引きずり込むとすばやく扉をしめた。
そういえば前もこんなことあったっけ、とわずかに残った冷静な頭で考える。店を出たときの穏やかな気分なぞとうに消え失せて、残るのは苦々しさと、苛々と心の中で熱を発する火種だけだった。服の袖越しに感じる幸村の体温が、痛い。
潤は思わず皮肉な物言いをした。

「お嬢様らしくしろという割には乱暴なのね。あなたこそお嬢様らしく扱えば?」
「お嬢様らしからぬことをしでかしたのはそちらの方でしょう」
「はん、何のことやら」

幸村は潤を玄関の扉に押しつけてうなるように低い声で言った。

「まだ白を切りますか。こっちを見て下さい」
「お断り」
「こっちを見て下さい」
「なんで使用人に指図されなきゃなら──っつ」

突然指が視界に入ったと思えば、幸村は強引に潤のあごをつかんで前を向かせた。目と目が合う。細められた幸村の目ははっきりと怒りに燃えていた。その視線が潤に刺さって火傷をしたかのように心をひりつかせる。

「そんなに良かったですか、飲み屋が」
「っ、バカにしないでくれる。政治家のパーティーなんかよりも遙かにすばらしい場所だったわよ!」
「ほう、そんなに危険な場所がお好きですか」
「別に、危険だから好きだってわけじゃ」
「では何ですか、クラブで身元もわからない男にちやほやされるのが楽しかったですか?」

ふんだんに嫌みを含んだように笑う幸村に、潤は思わずカッとして叫ぶように言った。

「そんな場所じゃない!亜久津さんだって──」
「亜久津以外の男はどうです。ナンパされたと聞きましたけれど?」
「なっ、なんで」
「クラブでそういうことがないわけがない。わかっているでしょう。わかっていても楽しかったんでしょう?」
「違う!」
「ちやほやされることが?それとも危険な男に求められることが?」
「違っ」
「そんなに遊びたいなら私が遊んであげましょうか?」

軽薄な笑みを浮かべて幸村は言う。
荒れ狂う感情が生きたまま裂かれるように叫ぶ。なんで。どうして。どうしてここまで言われなければならない?幸村は、なぜここまで言う?どうして?
潤はとっさに腕をふりほどいた。
パシン、と乾いた音がして、遅れて手のひらがじんじんと痛む。幸村は左頬を押さえて珍しくも驚いたような顔をしている。
──子羊に反抗されると思ってなかったって?バカみたい。

「いいかげんにして!黙っていれば好き勝手言って、なんでそこまで馬鹿にするの?そこまで私が嫌い?そんなに気にくわない!?そんなに許せない!?あなたの、あなたの恋人を傷つけた私が!?」

一度あふれ出した言葉は堰を切ったように流れ出ていく。食ってかかるように言ってしまう、ずっと何年も胸の底でくすぶっていた思いは止まることなく叫ぶように口から出て行ってしまう。

「そんなに、そんなに私が──……もういい、望み通りあなたの前から消えるわよ。どうせ、そういう年頃なんだから。今すぐじゃないけどね。それで満足なんでしょ?」

何も言わない幸村を強く押せば、彼はあっさりと身を引いた。そのまま潤は逃げるように玄関からあがって階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込む。そう、どうせ、そう遠くないうちに見合いでもして嫁ぐことになるんだろう。
心が焼け焦げるように、悲鳴を上げていた。


(20160522)

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