カモマイルの悪魔 | ナノ


幸村は玄関を見張るつもりなのか、キッチンまでは追いかけてこなかった。
潤はもの言いたげな視線を投げる仁王の前で立ち止まった。なぜ仁王はこんな苦々しい表情をしているのだろうか。

「お嬢、その……」
「どうしたんですか?仁王さん」
「アルバイトのことなんだが」
「幸村から聞いたんですか?」
「ああ」

仁王は言いにくそうに言葉を詰まらせる。薄く開かれたその唇からは次の言葉はなかなか出てこない。だが彼の目に浮かぶ色を見て、潤は唐突に、仁王が今どんな気持ちであるかを理解した。

「もしかして、何か私に申し訳ないと思っているんですか?」
「まあ、うん、そうだ。お嬢がアルバイト始めたのは俺と河西さんの話がきっかけじゃろ?」
「ええ」
「もっときちんとお嬢の気持ちを聞くべきだったと思ってな。あの時。悪かった」
「なんで仁王さんが謝るんですか」
「お嬢が突然バイトを始めたのは、俺らの影響だ」
「それは……確かにそうですが、決めたのは私です」

仁王は頭を掻くと、腕組みをして潤を見下ろした。彼の眉はハの字を描いているというのに、その切れ長の目は迷いなく潤を見つめている。今日の仁王はその表情とは裏腹に不思議と凛々しく見えた。

「俺はお嬢が何を考えてどうしてバイトをしたがったのか知っとった。幸村がバイトに強硬に反対するだろうこともわかっていた。そうなればお嬢が内緒でバイトを始めるであろうことは予想できた。というか、そう予想していた」

潤は驚いて目を見開いた。仁王は気まずそうな顔をして、しかし潤から目をそらそうとはしなかった。仁王の長い髪をまとめる糸に付いた留め金が、窓から入り込む夕方の日差しにきらりきらりと光った。

「幸村に進言すれば良かったと思ってな。お嬢のためにもお嬢にバイトをさせろと。そうすればこの話はここまでこじれんかったろ」
「……友人とはいえ幸村が仁王さんの話を聞いてくれるとは限りません」
「はは、確かに。でもな、幸村はお嬢が思っているほどわからずやではないぜよ」
「そうでしょうか」
「ここで働き始めてから気づいたことだが、お嬢と幸村が直接対峙すると必要以上に話がこじれる。おっと、お嬢を責めてるわけではなか。むしろ幸村が妙にかたくなになるように思える。だから俺から言えばあるいは、幸村は頭ごなしに否定せずに納得したかもしれん」
「そう、かもしれません。でも、どのみち仁王さんには私と幸村のことでそこまでする義務はないんですよ。だからそんな顔しないでください」

仁王は一瞬無言になった後、ふと苦笑した。その彼の瞳にははっきりとした後悔が浮かんでおり、同時に、潤を見守るかのような慈愛の優しさが込められていた。仁王には今回のことに関する責任などひとかけらもないというのに。その目の暖かさに、潤は不意に胸が詰まった。

「お嬢、俺は確かにただの料理バイトなり。だがな、同時に幸村の古い友人でありおまんの大学の先輩であり……友人でもある。少なくとも俺はそう思っとる。それなのに何もせんというのは、いかにも間違ってたと思うぜよ。幸村とお嬢の付き合いは俺が思っとるよりも長いし、おまけに執事とお嬢様の関係だ。だから何も知らん俺が幸村とお嬢の問題にしゃしゃり出るのはおかしいし、今でもそう思うとる。だが、それでも少しくらいは……なっ、お嬢!」

気が付けば、ぼろぼろと涙が目からこぼれていた。しゃくりあげるような激しい泣き方ではない、だが熱い大粒の涙が次々とあふれ出して、目の前の仁王がゆらゆらと歪んで見えた。
ずっと、一人で耐えねばならないものだと思っていた。幸村との軋轢から生じる、この重圧と数え切れない生傷には。潤と幸村が衝突していることに気が付く人はいた、たとえば美波はよく潤の愚痴を聞いてくれたし千石は以前幸村と会ったときに正面から幸村に言い返して助けてくれた。だけれども彼らは二人とも完全なる「部外者」で、潤と幸村の関係を間近で見てきたわけでもなければましてや家の中にいるわけでもない。両親や姉には何も相談できない、河西や綾希にも言えない、自分が悪いのかもしれないしそうでないのかもしれない、正解が何かもよくわからない。
けれどもこんなに身近に、幸村と過去と現実に振り回される潤を黙って見守ってくれている人がいたのだ。

「すっ、みまっ、せん」
「ああ、いや、謝ることでは」
「なんか……嬉しくて、ほっとしちゃって」
「……そうか。あー、今日はどうするつもりだ?バイトは」
「休む、しかないと思います。ドタキャンになっちゃうし本当は嫌なんですけど、玄関は幸村が見張ってるし」

仁王は真顔になって一瞬宙を見つめ、考えるそぶりをした。それから潤に目を戻すと、今度はいつもの仁王とは全く違う、何かをたくらんでいるかのような薄い笑みを浮かべて目を細めた。

「その通りだな。だが、逆に考えてみんしゃい」
「逆?」
「幸村が見張っとるのは玄関だけじゃ。なら、そこから出ればいい」

仁王は手のひらを返してひょいとキッチンの勝手口を指さした。
潤は息を呑んで仁王を見つめた。勝手口から外へ出ることができることはもちろんわかっていた。だが、幸村が勝手口を見張っていないのは、まさにキッチンに仁王がいるからではないのか。

「でも、そしたら仁王さんが幸村から責められませんか」
「俺は幸村から何も頼まれとらん。お嬢を家から出すなとも言われとらん。ま、幸村は俺がお嬢を勝手口から逃がすとは思うとらんかったからわざわざ頼まんかっただけだろうが。バイトの件についても幸村から詳細を聞いたわけでもなか。だから……何も知らんかったことにするぜよ」
「え!?」

ニヤリと笑った仁王はいつもの穏やかで少し優しすぎるとさえ思える彼とは全くの別人に見えて、潤は絶句した。仁王は幸村の紹介でこの家に来た当初は寡黙で何を考えているのかよくわからぬ風があった。けれど徐々に仲良くなるうちに仁王という人間の正直さや人格の丸さが見えて、それが彼の素なのだと思っていた。
今の仁王は、今まで見てきた仁王のどれとも違う。

「仁王さん!嫌じゃないんですか、そんなこと」
「ピヨ。俺はもともとこういう性格じゃ。年くって丸くなったがな。お嬢、俺の昔のあだ名は知ってるか」
「あだ名?いいえ」
「『コート上のペテン師』なり」
「……ペテン師?」

あの仁王が?仁王は確かに派手な銀髪で後ろを長く伸ばし、整った顔にニヒルな笑みがよく似合うかっこよくてクールな先輩だ。見た目は。

「『そういえばお嬢様にはこの声も聞かせたことはありませんでしたね』」
「なっ」

突然幸村の声がして潤は飛び上がった。幸村がどこかにいたのだろうかと思わずあたりを見回すが、仁王以外には誰もそこにはいなかった。まさか、仁王が?でも口調も声もそっくりだった。
仁王はククッと喉で笑うと愉快そうに目を三日月型にした。

「得意は、声真似。これ一回しか見逃してやれんが今回はなんとかしておくぜよ。さあ、早う行け。さっさとせんとバイトに遅れる」
「っ、そうですね!ありがとうございます」

驚きの連続で心臓が飛び跳ねたままだったが、気分はほんのりと明るくなった。潤はテーブルの脇に置いていた鞄をひっつかむと音を立てないように静かに、しかし素早く勝手口から外へ出た。黒いサンダルしかないが仕方がない。潤は仁王に感謝しつつ、木の陰に隠れながら正門を目指した。


***


幸村はまだ家にいるかもしれない。でももう潤が家にいないことに気が付いたかもしれない。気が付いたとして、追いかけてくるのか、それとも店で待ちかまえているか、あるいは諦めて家で待っているか。
駅までの道はそう遠くないはずなのに、今日ばかりは遠く感じた。必死で足を動かしているばかりなのに気持ちが空回りするばかりでちっとも先へ進んでいないように感じた。そんなに急がずとも遅刻はしないだろうことは分かっている。でも早く、早く店に着きたい。

「よう、お嬢!」
「うわああっ!あ……ああ、丸井さんですか」

幸村に見つかったかと思って焦って顔を上げてみると、そこにはママチャリに乗った丸井がいた。前籠には黒いリュックが乗っており、そこからは白いビニール袋の耳とネギとダイコンの頭が覗いていた。

「な、なんだよぃ、誰かにストーカーでもされてんのか?」
「あの、そのー……まあ、そんなところです」

ぜんぜん違うけど、誰かから逃げているという意味ではまあ似たようなものだ。丸井の様子からすると潤のバイトの話は何も聞いていないはずだが、まさか幸村から逃げてるんですなんて言えるはずはない。

「マジかよ。そりゃ大変だ。どこまで行くんだ?」
「駅までです」
「んなら乗ってくか?」
「いいんですか?丸井さんも何か用事があるんじゃ」
「俺は急ぎじゃねえし。後ろ乗れよぃ」
「ありがとうございます!失礼します」

潤が遠慮なく後ろの荷台に乗り込むと、丸井はふう、と息を吐いてグリップを握り直し、ゆっくりと自転車をこぎ始めた。

「逃げてるってことは急いでるってことだよな?」
「ええ、そうです」
「じゃ、ちょっと飛ばすぜ。しっかりつかまってろよぃ!あと口はしっかり閉じてろよな」
「へ」

一瞬、嫌な予感がする。丸井は徐々にスピードを上げながら予想外の道を走っていく。

「の、あの!丸井さん、駅まで行きたいんですけど!」
「ん?駅までの最短はこの道であってるだろぃ」
「こっち、駅までいけますけど、長くて急な階段が──」
「だから口閉じとけよ!」
「え、えええっ!」

緩やかに曲がりながら下っていく細い道を丸井はすいすいと自転車を進めていく。そして、この先には。

「さ、いくぜ!」

丸井の言葉に従って反射的に口を閉じたのは正解だった。潤は心の中で言葉にならない悲鳴上げた。自転車はガッタンガッタンと激しく上下しながら長い石階段を転がり降りていく。必死で丸井の背中にしがみつく。視界が回って何も見えない。

「階段下りって楽しくねえ?」
「……う」

階段を下りきった丸井はピュウと口笛を服と、平然と平坦な道を進んでいく。潤は丸井から何かを言われているのはわかっていたが、目が回ってそれどころでなかった。確かに、急いでいるとは言ったけど。こんな近道を通るとは予想だにしなかった。


(20160409)

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