カモマイルの悪魔 | ナノ


柳蓮二の言うとおり、時間の問題だということはわかっていた。迷惑をかけないようにできるだけのことはした。けれどもその日が来るのを止めることはできない。それも#よくわかっている。

「っ、はあ」

潤がグラスに注いだ麦茶をあおると、ガラスの表面についた結露がむき出しになった右腕をつうっと伝って服の裾にぽつりと濃い染みを付けた。布巾で拭えばいいものを、そんな簡単なことさえするのが億劫な気分だった。秋に入ってしばらく経ったとはいえ今年は残暑が厳しい。キッチンの窓の外に小さく見える河西は夕方の日差しの中、暑そうに庭の手入れをしていた。
あまりのんびりはしていられない、そろそろバイトの準備をする時間だ。潤はキッチンから出ると重い足取りで自室に向かった。部屋に入って着替えるときは、いつもならアルバイトが楽しみでわくわくしているというのに、このところはそんな気にもなれない。柳に幸村のことを伝えられたあの日から気分はずっと重かった。もう二週間になるというのに。クイーンビーでのアルバイトは幸村にばれる前に辞めるのが正解なのだろう。けれども短い期間とはいえ一生懸命勤めてきた場所だ、簡単に辞めたくない。しかし万が一クラブに幸村が乗り込んできたりしたら迷惑がかかる。
こうやって潤の頭の中では延々と二つの考えが渦巻いて、答えを出る兆候は全く見られなかった。

「お嬢様」
「……えっ!?な、幸村?」

玄関で靴を履こうと足を伸ばした、その時だった。ぼんやりとした頭に突然幸村の声が響いて全身の毛が逆立った。振り返れば幸村が腕を組んで壁にもたれ、こちらを見ている。
普段の彼なら背筋を伸ばして真っ直ぐ立つというのに、執事にしては妙に不遜で普通の青年のように振る舞う今日の幸村の様子に、潤は思いがけず動揺した。一体どういうつもりだろう。いつもならこの時間は家にはいないのに、いつの間に帰ってきたのだろう。病気になってから勤務時間を変えたのだろうか。しかも様子がいつもとは違う。普段はしっかりと後ろに撫でつけている髪は今日は無造作に頬にかかり、まるで彼が大学生のころにしていたような髪型になっている。
じっと潤を注視していた幸村の眉間にふと皺がよった。潤は自分でもわかるくらい狼狽が隠せなかった。顔がぎこちなくこわばっていつものように笑えない。もしかしてもうアルバイトのことがばれたのだろうか。思っていたよりも早かった、いやしかし桑原と幸村が友人であることを鑑みれば相応なのかもしれなかった。
ところが、壁から身を起こした幸村はつかつかとこちらへ歩み寄ってきたかと思うと、真っ直ぐに腰を折った。

「先日はお嬢様にご迷惑をお掛けし大変申し訳ありませんでした」
「え」
「ありがとうございました」

アルバイトの話ではなかったのか。潤は少し安堵して、まだドキドキと鳴り続ける心臓を静まらせようと深呼吸した。

「……いいえ。自分の家の使用人の面倒を見るくらい、当たり前のことでしょう」

低く下げられた幸村のウェーブのかかった髪を見ながら、ゆっくりと言葉を連ねる。お嬢様らしく振る舞えという幸村の要求通り、お嬢様らしく鷹揚に返事をした。いつものように。
けれども言葉が口から出るにつれ不思議と舌は重くなって、最後のころになると潤は噛みしめるようにして用意した台詞をなんとか言い切った。のどの奥がじわり、苦くなっていく。昔の自分だったらどう答えただろうか、そんな考えが頭に浮かんでは渦巻いて心に小さなひっかき傷を残していく。熱にうなされて幸村とまだ仲が良かったころの夢を見たせいなのか、体調不良で倒れるという執事になってからはついぞ見なかった幸村の隙を目の当たりにしたせいなのか、あるいは今の幸村にかつての面影を見たからか。不毛とわかっているのに心の中で問答を繰り返してしまう。すべてはとうに過ぎ去った過去の話だというのに。

「今後はこのようなことはなきよう気を付けます」
「気にしないでいいわ。人間なのだから病気になることくらいある。お父さんもそう言うでしょう」
「ありがとうございます。……ところでお嬢様、ひとつ伺いたいのですが。私が倒れたときどのような状態でしたか?泉が帰宅したときは私は廊下に寝かされていたと聞いたのですが」

びくっと胸のあたりが震えるのがわかった。潤は思い出すようなそぶりをしてわざと顔を伏せた。心の奥底に隠していた不安定な黒いざわめきが形作って姿を表す。アルバイトの件に気を取られて忘れていた、というよりも、わざと考えないようにしていた記憶が脳裏に浮かぶ。開いていた書斎の扉。幸村の鍵束。黒い手帳。その中に収められていた写真、そして跡部家の制服を着た泉綾希。この件についてはただ今まで蓋をしていた。潤には真実を調べる手段も相談する相手もなく、考えるだけではどうしようもなかったからだ。それに、知ることが怖かったというのもある。単なる直感だが、知れば信じてきた大切なものが崩壊するのではないかという気がした。脳裏によぎるのは、今年の春、白岩家へ面接に来た泉に対して自然な柔らかい笑顔を向けていた幸村のこと。もしかしたらあの笑顔には何か意味があって──。
潤はぐっと奥歯を噛みしめて平静を装った。隠さなければ。幸村には特に、心の内は見せられない。

「……廊下の壁にもたれるように崩れ落ちてたのよ。熱が高くて息も荒くて。だからその場に寝かせて、ブランケットをかぶせたってわけ」
「場所は白岩社長の書斎の前あたりですか」
「ええ」
「それ以外に何かしてくださったことはありますか?」
「泉さんに電話で連絡したわ」
「他には?」
「何も。何かなくしたりでもしたの?」
「……いいえ、そういうわけでは」
「そう。ならよかった」

潤は声が上擦りそうになるのを押さえて幸村に背を向けた。早くバイトに行ってしまおう。家を出るのが最善の策だ。それが、幸村だけではなく真実から目を背けることになるかもしれないけれど。

「お嬢様」
「っ、なっ、ちょっと!」

サンダルにつま先を入れて玄関から出ようとした瞬間、今度は後ろから覆い被さるように幸村に抱きしめられた。そのまま囁くように呼ばれて耳に熱い息がかかる。背筋がぞくりとして心臓が跳ね上がり、体がこわばる。幸村と密着した背中が熱い。とっさに抗議するが押しのけようとしても幸村の腕の拘束は堅い。幸村はそのまま後ろから潤を押すようにして玄関の扉に近づき、潤の肩越しに右手を伸ばしてガシャンと扉のロックを下ろした。

「ゆ、幸村!何なの!?」
「今夜は私と一緒にいて下さい」
「えっ」
「家に居て下さるだけでも結構です」
「……なぜ。時間がないんだけど」
「それなら尚更です」

当初妙な熱を帯びて聞こえた幸村の声はしかし優しいものではなく、むしろ灼熱の溶岩が何かを焼け爛れさせるようなものに思えた。普段から嫌な物言いをする男だったが今日のそれは一層恐ろしく、潤はぞっとして身震いした。耳から脳髄に直接杭を打たれたような気分になってますます体は思うように動かなくなる。
──熱に、焦がされて死んでしまう。
潤は両手を必死で抵抗させて幸村の腕にかけて力を込めるが、彼はびくともしない。そのまま幸村に抱えられるようにして玄関の三和から床へ上げられ、ぐっと廊下の壁に押しつけられた。無惨に転がる茶色のサンダルが目の端に写ったが、それもすぐに幸村の腕で遮られて見えなくなった。正面の幸村は軍人かスパイかとでも間違えそうなほどきつい目つきをしている。
潤は息を大きく吸い込んだ。負けるもんか。

「離しなさい、幸村」
「それはできません」
「離しなさい!あなたにこんなことする権利はない」
「権利はなくとも義務はあります。そもそもどこへ行くおつもりですか」
「いつもと同じよ。大学で自主ゼミをしてるって言ったの、覚えてない?」
「最近はずいぶん回数が多いようですが?」

潤は腹に力を込めてあえて幸村を睨み返した。目を逸らしはしない。

「休みだからね、その分学業に精が入っているだけよ」
「ほう、酒を出して給料をもらう学業ですか」
「何の話?」

幸村は潤の肩をつかむ手に力を込めた。
──きた。やっぱり、もうバレたんだ。

「まだ白を切るおつもりで?」
「何のことやら」
「アルバイトのことですよ。飲み屋での」
「もしアルバイトだったとして、何なの?」
「辞めて頂きます。お嬢様がそんな──」
「言ったでしょう、あなたにそんなことを命令する権利はない!」

腹が立って叫ぶように言い返すと、幸村はゆっくりと目を細めて潤をさらに壁に押しつけた。もう身じろぎ一つできる状態ではない。幸村の指が、潤の柔らかい肌に食い込んでくる。直に触れた彼の手のひらは熱かった。
皮肉なものだ、と潤は思った。壁際にいる自分と迫ってくる幸村、これじゃあまるで。

「まるでメイドに迫っていた時みたいね?」
「まさか、主人とメイドに同じ態度をとることはございません」

口をゆがめて薄笑いを浮かべる幸村は、メイドに迫っていたことは否定はしなかった。なぜ否定しないのか、悪びれない幸村にますます腹が立つ。

「お父さんが言うならわかるけどなんで幸村に言われなきゃいけないの」
「お嬢様のことは白岩社長から一任されています。アルバイトは許しません」
「あなたが許さなくても法は許してくれるわよ」
「そんなこと私の知ったことではございません」

ああ言えばこう言う、幸村は一歩も譲歩するつもりがないようだった。潤は言葉がに詰まって、ただ震えた。怒り、悲しみと、空しさ。
どうしてこうなってしまったのだろうか。冷静ながらも怒ったような顔をしている幸村、かつての彼と比べれば別人のように見える幸村は、なぜ、ここまで変わってしまったのだろうか。長い時間をかけて溜まっていた思いが胸が詰まって息苦しい。

「幸村は、──……」
「なんです」
「……いつ、まで。いつまで、私に、こんなことをし続ける気?」
「はて、こんなこととは?」
「わかってるんでしょ。幸村は変わった」
「っは、そうですか。必要なことをしているまでですよ。必要がなくなれば辞めます」
「じゃあ、私が跡部家にでも嫁げば辞めるわけ?」

幸村は目を見開いて、思わず、というように力を緩めた。潤は身を堅くしたまま黙って幸村を見つめた。幸村は真顔でしばし見つめ、それからふっと息を抜くように笑うと壁から潤を引き寄せて背中を押した。

「さあ、部屋に戻って下さい」
「どうやっても出かけるのはダメだと?」
「ええ。どこへ行くんです」
「キッチンで水を飲むだけよ。飲んだら部屋に戻るわ」

潤が幸村をふりほどいて腕をさすりながらキッチンに入ると、スツールに座っていた仁王が椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。

「仁王さん。来てたんですか」
「お嬢……」

潤を見た仁王は、申し訳なさそうな情けない顔をしていた。


(20160301)

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