カモマイルの悪魔 | ナノ


潤は黙って助手席の温かいシートにもたれかかっていた。隣をちらりと見ると幸村はまっすぐ前を向いて運転をしている。車内は淡いローズの香りで満ちていた。幸村は香水をつけないから、きっと河西がシートに何か撒いたのだろう。ぽつぽつとフロントガラスに小さな雨が落ちてきた。幸村はカチリとワイパーのスイッチを入れる。静かな空間にそのシャッシャッと水を払う音だけが響いた。
潤はそっとため息をついた。今日はなんてタイミングが悪いんだろう。仁王と朝ご飯を食べてから密かに家を出ようと思ったのに今日に限って幸村と玄関で鉢合わせをしてしまった。起き抜けにあんなことが会ったから顔を合わせたくなかったのに。その上、例の作り笑いで「雲行きが怪しいので大学までお送りします」だなんて言われて。結局こうやって狭い空間で二人になる、と。テンションの降下が止まらない。嫌な気分だ。
大通りに入ったところで、幸村が口を開いた。

「お嬢様。河西から聞きましたか、新しいメイドのこと」
「いいえ。もう決まったの?」
「まだです。次の日曜日の夕方、7人目の候補者が面接に来るのですがお会いになられますか?」

7人目。もう7人目か。つまり、既に面接した6人はダメだったということだ。候補者の女性達が河西の面接を受けながら幸村をチラチラと見る様子が目に浮かぶようだった。
お父さんの横に控えているためにときどき雑誌やテレビにのる幸村は知る人ぞ知る「イケメン社員」で、メイドの募集をかけたらあっという間に申し込みが殺到した。ミーハーで無能なタイプは河西が頑張って書類選考で落としたはずだが、いざ面接をしてみるとなかなか適材はいないらしい。真面目で一生懸命で口が硬い、長く勤められるような若い女性。……そんな女性を採用したとしても、また幸村に遊ばれるのだろうけれど。

「次の面接者は、白岩社長づてで応募された方なのです。ですから一応」
「そう。なら会うわ」
「かしこまりました」

潤は目を伏せた。今までうちへ来たメイドたちは、仕事に関しては間違いなく真面目で有能だった。お父さんの指示だけではなく潤の頼みもきっちり聞いてくれたし家の中はいつもぴかぴかだった。でも、真面目だからこそ幸村に遊ばれたときに苦しむことになるんだ。今度はどんな女性が来るんだろう。お父さんのつてで来た子なら幸村も手を出さないだろうか。
幸村は唐突に話題を変えた。

「今夜はゼミで遅くなると仁王に聞いたのですが」
「ええ」
「ゼミのある日は明日でしょう。最近、毎週水曜日は夜遅くお帰りになるそうですね。何をなさっているのですか」

淡々と言う幸村の口調は尋問めいている。潤はポーカーフェイスのまま内心舌打ちをした。やっぱり覚えていたか。幸村がお父さんや私の予定を間違えることはほぼ、ない。水曜日は幸村も朝から晩まで会議やらなにやらで忙しい日だ。それなのに敢えて今日私を送ったということは、最初から問い詰めるつもりだったのだろう。

「『自主ゼミ』よ。授業の後、演習室でゼミのメンバーと一緒に勉強しているの」
「そうでしたか。それは素晴らしいことですね」

彼は一応、納得したらしくそれ以上は何も言ってこなかった。
ゆっくりと車が止まる。車窓の外には大学の正門がある。早い。幸村は車から出ると、私の傘をさして助手席の扉を開いた。幸村に手を取られて助手席から出る。彼は雨に濡れて、スーツの肩のあたりの色が濃くなっていた。
登校中の同級生たちがチラチラこちらを見ているのが分かる。幸村は、例の作り笑いを浮かべた。潤もまた満面の笑みを浮かべて見せた。精一杯の嫌みを込めて。

「忙しいのに送ってくれてありがとう、幸村」
「とんでもございません。いってらっしゃいませ、お嬢様」
「言ってくるわね」

きびすを返してその場からゆっくり歩き出す。不愉快だった。人に見られるのは慣れても幸村のあの笑顔には嫌悪感がこみ上げてくる。

「ちょっと、潤!」

肩を叩かれてはじめて美波に気がつく。考え事をしていたせいで気がつかなかった。

「ねえ、幸村さんてあの人!?」
「うん。見てたんだ」
「見てたも何も、ちょーかっこいい!仕草もザ・執事って感じで!ああ、いいなあー私もあんな風にお嬢様扱いされたい!そこで始まる禁断の恋!!」
「いや始まらないから」

即座に否定する。きっと今の自分は心底面白くない顔をしているのだろう。美波はずいっと顔を近づけると疑わしそうなしかめっつらで尋ねてきた。

「ねえ、あんたってもしかして男嫌いなの?」
「そうでもないと思うけど」
「ホントに?クラスの男子のことも、さあ」
「え。そうだっけ」

潤は慌てた。幸村はともかく男子に何かしちゃったっけ。仁王さんなどとは普通に話せるし男嫌いではないと思う。無意識に何かしてしまっただろうか。身に覚えがない。彼女は呆れたように言う。

「だって恋人作る気配もないしあの男子いいねって言ってもあんまり興味なさそうだし。男子に遊びに誘われてもスルーしてたじゃん」
「あまり興味はないかもね、そういうことには」

興味がないというか、嫌だ。女に微笑むときの男の顔が。友達ならいいのに恋愛が絡むと突然重くなる。それに自分に声を掛けてくる男の中には「お金持ちのお嬢様」に惹かれた人が多い気がする。お金だとか家だとか服だとか名誉だとか、そんな話題ばかり振ってくる。男の子に声を掛けられるたびにお金目的なんじゃないかとかお父さんの会社に就職したいだけなんじゃないかとか、色々考えていくうちにめんどくさくなってしまった。潤の立場に興味のない男の子は「自分とは世界の違うお嬢様だから」と遠巻きにするか、良くて友人になる程度だ。

「もしかして潤って面食いなの!?」
「なんでそうなるのさ」
「だって、幸村さんに見慣れちゃったから普通の男じゃ物足りないとかさ」
「そ、そんなことはないと思うけどなあ。でも、なんかね、男子と付き合うとかあんまり考えられない。同級生の男って子供っぽいし」

大学生になったばかりの頃に来たお見合い話は、お父さんが早すぎると断ってくれたけど、そろそろお見合いもしなければならないかもしれない。好きという感情もいまいち分からないし彼氏だとか恋人だとか、こんな立場にいる自分にはもう無理なんじゃないかとさえ思えてくる。
突然、美波はパンと手を叩いた。

「そーだ忘れてた!今度の土曜20人くらいの合コンやるのよ。潤、参加してね」
「決定なの?」
「予定あるの?」
「ないけど」
「じゃーいいじゃない。お嬢様でもこういう体験も必要よ。年上の社会人の男の人が来るから丁度いいかもよ?」

潤は彼女の勢いに押されて曖昧に頷いた。休日に家にいれば幸村とますます顔を合わせることになる。乗り気はしないけれど、たまにはいいのかもしれない。

「じゃあ決定ね。あんた、今日『自主ゼミ』だっけ」
「うん」
「……気をつけなさいよ。あの人が一緒なら大丈夫だと思うけどさ」
「ありがとう」

心配性で優しい親友に、潤はにっこりと笑って見せた。


***


授業が終わると、潤は演習室の前を通り過ぎて真っ直ぐ校門へ足を向けた。春の夕暮れは少々寒く、冷たい風に葉桜がゆらゆら揺れていた。コートの前をぎゅっと合わせて、そのまま徒歩で繁華街に向かう。夕日に長く伸びた自分の影を追って早足になる。軒を並べる店舗は次々に店先の明かりを灯しているところだった。潤は繁華街の大通りを曲がって細い道に入ると、あるお店の前で立ち止まった。濃い茶色の木でできた大きな扉は半分開いていて。赤字で書かれた「CLOSED」の看板がぱたぱたと扉を叩いていた。中からはガタガタと物音が聞こえる。
潤が中に入ろうかとためらっていると、キイと扉が開いた。中から出てきたのは銀髪を逆立てた目付きの悪い男で、ワインの瓶がたくさん入った木箱を抱えている。彼は潤に気がつくとギロリと睨みつけた。

「こんばんは、亜久津さん。開店準備中ですか」
「ああ。入れ」
「いいんですか?」
「常連だからな。マスターも気にしねえだろ。それにこんなとこに突っ立ってたらまた絡まれんぞバカ」
「じゃあお邪魔します。ありがとうございます」

潤が頭を下げると彼はフン、と鼻を鳴らして店横の裏道へ木箱を運んでいった。睨んだりすごんだりするものの、なんだかんだ言って亜久津さんは優しい。そもそもの出会いが、クラスの打ち上げの後で自分たちに絡んできたチンピラを殴り飛ばしてくれたことだったせいか彼に恐怖心は覚えなかった。ケーキ屋で再会したのは意外だったけど、モンブランが好きだと教えてくれたり勤めているこのクラブを宣伝されたりと結構仲良くなった。
中へ入るとDJが機器を調整しており、既にミラーボールがくるくる回ってあちこちに光を放っていた。

「よお、潤ちゃん。今日は早いな」
「うん。マスター、マルガリータ下さいな」

潤はカウンターテーブルの隅っこに腰掛けた。流暢な日本語を話す国籍不明のマスターはカウンターの向こうでシェイカーを振っている。普段当たり障りのない会話しかしない彼は、珍しいことを言った。

「気をつけろよ。うちのクラブじゃ薬も暴力も禁止だがいろんなやつがいるからな」
「はい、ありがとうございます」

ライムののったマルガリータのグラスが出てくる。ふちに付けられた塩を唇に押し当てて一口、お酒を飲む。ジュースを多めに入れてくれたらしく辛みが薄い。
潤はグラスを持ったままカウンターチェアを半分回して店内を眺めた。『自主ゼミ』なんて、嘘。「お嬢様」な私がこんなところへ来ているなんて白岩家の者は誰も知らないだろう。知ったら阻止されるに決まっている。マスターが言うように「危ないところ」には違いない。深呼吸をするとふわりとお酒の香りがただよってきた。白岩の名前に泥を塗るつもりもない。だからどんな男に声を掛けられても笑顔で断って、自分はただ曲に合わせて踊る人たちを見ながらお酒を飲んでいるだけだ。体を許すつもりもなければキスだってするつもりはない。白岩家に迷惑をかけることはできなかった。
だけど。だけど、自分の正体を知っている人など誰もいないここでなら、誰でもないただの自分に戻れる気がする。自由のにおい。この空間に満ちた自由さに、疲れた心がほぐれるのだ。
亜久津さんが店に戻ってきた。客のまだいない店内はいつもよりも広々として見える。じきにここは、外国人たちと少しの日本人でいっぱいになる。


(20121203)

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