カモマイルの悪魔 | ナノ


時間が経つのがやけに遅く感じられた。綾希はまだ帰ってこない。主治医が来る気配もない。潤は窓から外をうかがったりスマホで時間を確かめたり、落ち着かない気持ちで廊下を行ったりきたりする。その間も幸村は何も言わずにただ目を閉じて熱っぽい息を吐くだけだった。
そうしているうちにカチャンと高い金属の触れ合う音が耳に届いて、潤は自分がまだ幸村の鍵束を持ったままだったことに気が付いた。あわてて幸村の側にしゃがみ込み、ブランケットをまくって幸村の腰のいつもの位置に鍵束をつける。白岩社長の書斎に入っていた幸村。一体何をしていたというのだろう。潤は幸村の顔をのぞき込んで、何をしていたの、と小さく問うた。だが当然答えは返ってこない。
それから潤は床に落ちたままになっている黒い手帳も拾おうと腕を伸ばした。手帳を持ち上げた拍子に、隙間からするりと一枚の紙片が抜け出た。それは廊下の絨毯の上をすべるようにして幸村から離れていってしまう。
潤は立ち上がって数歩歩き、その厚手の紙を拾い上げた。

「写真?」

何気なくひっくり返すと、三人の男性が肩を寄せ合った状態で写っていた。満足げな顔で左端に写っているのは幸村で、残り二人にも潤は見覚えがあった。ニカッと明るく笑っているのが切原で、いかめしい顔をしているのが真田だったか稲田だったかという名のヒトだ。この二人とは子供のころに会ったことがあった。幸村のテニス部の仲間だということで、以前住んでいた家に仁王たちと共に遊びに来たことがあったのだ。
写真の背景に写るのは晴れた青空、真っ白にそびえ立つ入道雲、テニスコート。真夏の光が燦々と注ぐ中、彼ら三人は半袖のスポーツウェアを着、みなテニスラケットを持っている。大人になってから集まってテニスでもしたのだろうか。
潤は単純にそう思って写真を手帳に戻そうとしたが、そのとき、何かが引っかかってもう一度写真に目を戻した。よく見れば三人の後ろにたまたま通りがかったと思われる女性が小さく写っている。
冷たい汗が、背中を流れるのがわかった。

「……泉さん?」

綾希によく似たその女性は、ピントがぼやけていてよく見えないが、嬉しそうに少し微笑んでいる。手にはたくさんの畳まれたタオルを持っていて、そして──跡部家の使用人の制服を着ていた。

潤は写真を持ったまま立ちすくんだ。

──つまり、つまりどういうこと?泉さんは前は跡部家で働いていたということ?そういえば泉さんは跡部先輩をよく知っているみたいな口振りだった。それに幸村は中学生のときから跡部先輩の知り合いで、と、いうことは。

息が詰まりそうだった。仮に綾希が跡部家の元使用人だったとすれば、幸村はその事実を知っていたはずだ。あの目ざとい幸村が気が付かないはずはない。わざわざ手帳に挟んでいたくらいだ、偶然この写真を持ち歩いていたとは思えない。
しかし、それならば幸村はあえて綾希のことを白岩社長や潤に隠していたこととなる。

──こうなるのは運命かもしれねえぜ?

跡部の言葉が蘇って頭の中でどんどん大きくなっていく。人間関係、運命、縁。幸村は綾希が写っている写真を持ち歩いていたのだ、これはつまりそれだけ綾希を気に入っているということだろうか、確かに幸村と綾希は仲むつまじそうにみえる、すなわちかつての縁が今ここで実を結んだということなのだろうか。
いや、あるいは、書斎に忍び込んでいた幸村、その幸村とつながりがあった綾希、そして綾希と跡部家の関係。もし幸村がどこかのスパイだとして、そして幸村と綾希は繋がっていて、そして綾希がもし跡部家と未だに繋がっていたとしたら……。跡部はやけに潤に執着している、もはや単なる自意識過剰ではない。しかしその割に潤の目には跡部が潤を好いているようには見えなかった、仮にそれが真実だとして、跡部が戦略的に潤と結婚したがっているのだとしたら……。幸村のあの跡部に対する執事らしからぬ態度が、もし潤に勘違いさせるための演技だとしたら……。

潤はのろのろと写真を黒い手帳に戻し、手帳を幸村のポケットの中に押し込んだ。

もし、と、まさか、が頭の中でせめぎ合って、もう何がなんだかわからなかった。


***


幸村はあれから点滴を打って一晩寝ただけで復活したらしい。らしい、というのはつまり、潤はあれから今まで幸村に会っていなかった。病み上がりで体の弱っている潤が幸村に近づいてまた何かに感染したら困るからと、幸村との接触を避けるよう綾希から言い渡されていたのだが、それ以上に潤自身が幸村に会うことを避けていた。会いたい、会って全部ぶちまけて問いつめたい、けれども聞くのが怖い。そんな葛藤を抱えたまま気が付けば数日経っていた。

「わあっ!?」

突然、潤は頭を鷲掴みにされてぐいっと上へ引っ張られる。しまったアルバイト中だった、と思ったときにはもう遅く、無理矢理向かされた先には眉間に深い皺を刻んだ亜久津の顔がそびえ立っていた。

「帰れ」
「あっ……すみませんただいま!」
「帰れっつってんだ」
「すみません」

仕事中だというのに余計なことを考えるべきではなかった。潤は店に鳴り響くBGMよりもさらに低く唸る亜久津にぺこぺこと頭を下げる。
シェイカーを振っていたマスターがゲラゲラと笑った。

「潤、ジンは怒ってんじゃねえ心配してんだ」
「っるせえ!」
「体はもう大丈夫なのか?」
「あ、はい。ちょっと考え事をしていただけなんです……すみません、本当に」
「無理すんなよ?最近ようやくウチも人手不足がマシになってきたからな、休んでもいいし、それもつらいなら辞めたっていいんだぜ。自分を優先しろよ」
「本当に大丈夫です、ごめんなさい」

亜久津は舌打ちをしてからぷいっとそっぽを向き、マスターはまだ笑っている。潤はもう一度二人に頭を下げてシンクに向き合い、中断していた食器洗いを再開した。ぼうっとしていて皿を割らなかったことだけは幸いだった。この気持ちのもやもやは当分収まらないだろうが、今は目の前のことだけに集中しよう。そう強く決意して作業に取りかかる。
が、それから幾何も経たぬうちにカウンターの向こう側から客の声が飛んできて作業が中断されることとなった。

「おい。おーい、聞こえるか?」
「はいただいま。あ、桑原さん!こんばん、は……」
「ほう。なるほど」
潤はカウンターに腰掛けたジャッカルに笑いかけたが、その後ろに立っている人物を見て凍り付きそうになった。動揺を見せてはまずい、さりげなく目をそらしてシンクに顔を伏せる。すらりとした長身、切れ長の糸目に落ち着いた物腰、どことなく漂う和風の雰囲気に片手にノート。脳裏に蘇るのは3年前、まだ潤が高校生だったころに仁王と一緒に白岩家へ来た──。

「3年前のことを思い出している確率、78%」
「……っ、いらっしゃいませ、ご注文は何になさいますか?」

──この人、確か柳だったか柳田だったかって名前の人だ、ちっとも変わっちゃいない!
潤は柳の分析の的確さに一瞬詰まったが、いつもの営業スマイルを無理矢理顔に浮かべた。柳には確実に白岩潤だとバレている。柳も幸村の友人だ。これはまずい。猛烈な焦りがわき起こるが頭は空回りするばかりで何も上手い解決策が思い浮かばない。

「軽いものを……そうだな、シェリーを二つ。ジャッカル、俺がおごろう」
「悪いな、ありがとよ」
「……。マスター、シェリー二つオーダーです」
「ラジャ」

柳は桑原の横のカウンター席に座る。潤はグラスを出したマスターを確認してから、極力柳と目が合わないようにシンクに顔を伏せた。だが見ずともわかる、柳はその糸目で穴を開けんばかりに潤を見つめている。

「潤、久しいな。元気そうで何よりだ」
「私は潤さんではありませんよ」
「ジャッカルから聞いて来てみれば本当だったな」
「はて、何のことでしょう」
「ごまかそうとしている確率82%だ、白岩潤」
「お前、やっぱり幸村のところの」
「何のことやら。私はルーシーですよ」

潤は歯を見せてにっと笑ってみせた。もう正体はばれているが、それでもしらを切る以外に手はない。白岩社長が有名になって以降、いざというときに腹をくくって嘘をつく度胸はいつの間にかできてしまった。
桑原は困惑したように潤と柳を交互に見るが、当の柳は潤の台詞など気にもとめない様子でマスターからシェリーを受け取った。そして独り言のように話し出す。

「ジャッカル、俺は先日、仕事で幸村に会った」

唐突に出てきた幸村の名前に、潤は思わず息をのみそうになった。このタイミングで幸村の名前を聞くことになろうなんて。潤は必死で何気ないそぶりをした。

「ああ、監査法人の」
「そうだ。その際、幸村にジャッカルから聞いた話をした。飲み屋に白岩潤とよく似た店員がいたらしい、とな」

頭が真っ白になった。
──なに、いま、なんだって?
目の前はちかちかしてグラスの輪郭さえもはやよくわからないのに、聴覚だけは嫌に鋭くて柳の言葉をもれなく拾っていく。

「このクラブだって話もしたのか?」
「いや。そのとき俺はここの存在すら知らなかったからな。さて『ルーシー』、ここからは独り言だ」

顔を上げると、確かに柳と目が合った。潤はにっこり作り笑いを浮かべて見せた。もはや最後のプライドに近い、せめて自分の本心くらいは隠しておきたい。

「俺は幸村の友人だからな、白岩潤について何か知っているかと幸村に聞かれれば正直に答えよう。だが、そう聞かれる前に幸村にわざわざ会いに行ってまでこのことを話すつもりはない。先日、俺は幸村に『白岩潤とは3年間前に会ったきりだ』と言ったばかりだ。だから当分は幸村からは何も尋ねられないはずだ」

炊事用のゴム手袋をはめた手はスポンジで手早く汚れた皿をなでる、そして皿は別の桶へ入ってきれいな姿になる。けれども潤の耳は柳の話に釘付けで、もう話を聞きたくないと思うのに聞いてしまう。

「だが、ジャッカルに対してはそうではないだろうな。ジャッカル、幸村から連絡はあったか?」
「え、いや……」
「そうか。まあ時間の問題だな。幸村は徹底している、必ずジャッカルに連絡し、この店の名前を聞き出し、白岩潤の存在を確かめようとするだろう。その確率、実に92%」

びくっと跳ねた心臓が、そのまま凍り付いて音を失った。
潤は平常心を装おうと必死で手を動かした、しかし顔から血の気が引いていくのが自分にもくっきりと感じられた。



(20151206)

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