カモマイルの悪魔 | ナノ


温かくはない、けれども冷たくもない視線がすっと体の上をなでていく。
マスターとの電話を聞かれた翌日、潤は幸村の様子に違和感を覚えていた。ここ数ヶ月の幸村は重要な用事でもなければ潤に見向きもしなかった。ところが今は、無表情ながらも何か含みのある視線をこちらへ向けてる。日常生活で幸村の視線が潤に注がれるというのが懐かしくもあり、気になるものでもあった。
非難をするような視線ではなく、しかし見守るようなものでもなく、何かを知るためにじっと観察するような、それでいて何か言いたげなような。
けれども用事があるのかと潤が正面切って目を合わせようとしてもさりげなく視線をそらされてしまう。まるで触れそうで触れない愛撫のようなもどかしさと困惑が胸の中でわき上がっては渦を巻く。

が、そんな状況は見舞いに来た跡部の登場によって木っ端みじんになった。
ガウンを着た潤が跡部の手によって応接室のソファに座らせられると、跡部も潤の隣に腰掛けた。跡部は満面の笑みを浮かべて遠くにある応接室のドアをちらっと見る。すると跡部の視線の先で控えていた幸村はギロリと跡部を睨んだ。
幸村は跡部を応接室に案内する際、「ご病気のお嬢様を放っておくわけにはまいりませんので」と宣言していたが、その言葉通り応接室の隅で直立したまま動こうとしない。いつもの幸村だった。
潤は跡部の気を幸村から反らそうと口を開いた。

「あの、こんな格好ですみません」
「病人は寝間着を着るもんだ。もう寝ていなくて大丈夫なのか」
「はい。熱はずいぶんさがりまして。わざわざお見舞いに来てくださってありがとうございます」
「礼なんざいらねえよ。当たり前のことじゃねえか」

内緒話でもしているかのような、幸村に聞こえない程度の小さな声での会話。
膝の上に置いていた手がすっと取られた。隣の跡部を見ると、跡部は傲慢な笑みを浮かべて「俺たちがこうなるのは運命かもしれねえぜ?」と言う。

跡部の形のいい唇が「運命」という言葉を紡ぐのを見て、潤は不思議に思った。なぜ不思議に思ったのか自分でもすぐにはわからない。熱のせいなのか頭が回らない。そういえば近くに座って手を握られて見つめられて、そこまでされているのに鼓動が早くもなりはしない。
潤はしばらくぼんやりと跡部を見つめて、ようやく気が付いた。

「……意外でした」
「アーン?何の話だ」
「だって、跡部先輩が『運命』だなんて、らしくないというか、かなり意外で」
「ほう」
「不愉快でしたらすみません」
「かまわねえ。言ってみろ」

どう思ったか言えということか。潤は少し考えて思考をまとめ、幸村がさっき渡してくれた麦茶でのどを潤し、慎重に口を開いた。

「運命は自分で切り開くものだ、みたいなことを言うタイプかと思っていたんです。跡部先輩のこと。どんな状況でも自分の望むものを自分で勝ち取りに行くんだと……それか、運命なんざ存在しねえって言いそうだなって思いこんでいたもので」
「……」
「跡部先輩のこと誤解してたみたいです」
「……フッ、ハ、ハッハッハッハ!当たってるぜ」
「え?」

額に手を当てたかと思えば高笑いをし始めた跡部に潤は目を丸くした。こんなに笑ったら幸村に不審に思われるのではないか。潤が幸村の方をちらりと見ると、やはり案の定、遠くの幸村は不機嫌な表情にけげんさを浮かべてこちらをじっと見ていた。
跡部は幸村の視線に気が付いているだろうに、そんなことは気にせずに一通り笑うと、外見に全く似合わぬ麦茶をワインでも飲むかのように呷った。そしてなんとも言えぬ不思議な笑みを浮かべてじっと潤を見た。

「そうだ。さすがは俺の見込んだ女だ、よくわかってるじゃねえか」
「あの……、それならなんで運命だなんて」
「俺がこうして潤に迫ることがお前にはまだ納得いかねえみてえだったから言っただけだ」

図星で、言葉に詰まる。跡部に熱烈に求愛されているということが未だに信じられない。白岩カンパニー社長の娘と跡部財閥の御曹司という立場だけ見ればそこそこ釣り合ってはいるだろうが、そもそも跡部は立場を気にして相手を選ぶタイプにも見えなかった。

「本当はお前の言う通りだ。運命なんかじゃねえ、俺は俺が望むようにしただけだ。俺が何よりも望んでいるからだ」

跡部の目が、言葉が、熱を帯びる。跡部は白い腕をすうっと伸ばすと潤の顎をすくった。そして熱に浮かれたように語り始める。その薄青の瞳は潤をとらえ、けれども瞳よりももっと奥の、喉を、心臓を見つめるような、どこを見ているのかわからぬ目をしていた。

「俺の言葉が信じられねえか?それなら何度でも言ってやる。俺にはお前が必要だ。俺の下へ来い、潤。運命だろうが運命じゃなかろうがそんなもんはどうだっていい。大切にする。欲しいもんはなんでも買ってやる。……俺が仕事で忙しい日もあるだろうが、お前が寂しくならないように努力する。必ず満足させてやる。だから、俺の下へ来い」

熱の籠もった力強い言葉に、心がずくりと疼く。でも。
嫌だ。
思わず救いを求めて幸村の方を見る。幸村は予想通り、鬼のような形相でこちらを睨んでいた。跡部はククッと喉で笑うと、潤の顎から手を離した。

「幸村はお前を相当大切にしているようだな」
「そうでもないと思いますが……」
「はん、そうかよ。まあ、それならそれで俺には好都合だ」

かつかつと足音がして、幸村が無遠慮にこちらへ歩み寄ってきた。そして、眉間に皺を寄せた跡部が文句を言う前に一言、「帰れ」と言い放った。

「お嬢様は病み上がりの身ゆえ、そろそろお休みになられた方がいいでしょう。そういうわけですので、申し訳ありませんが跡部様はどうぞ帰りやがってください」
「……最初から最後までとりつくろえよ」
「っは。ここまで丁寧に言ってやってるだけ有り難く思って欲しいね」

不機嫌丸出しの幸村は、潤をちらりと見ると容赦なく跡部を追い立てた。その姿はそのまんま、いつも通りの幸村だった。


***


潤はため息をついてベッドから身を起こした。まだ寝ていろと幸村に言われているが、もう今日は平熱だし体調も良い。無理は禁物だが少し起きているくらいはかまわないだろう。体にかかっていたブランケットをまくった拍子に、自分の手があごに触れる。その感触で、潤は昨日見舞いに来た跡部のことを思い出した。
跡部から向けられる熱と、それを嬉しく思いつつも受け入れられない自分。加えて、昨日は妙に幸村の視線が気になって、そして何より、跡部から迫られたときに幸村にすがろうとした。あんなに嫌だったはずの幸村に守ってもらえると、守ってほしいと思った。それはなぜなのか。幸村は執事としてはきちんと潤のことを守ってくれるからか。それとも。

潤は頭を振った。幸村のことを考えるといつもわからなくなる。跡部のことも加わって今ではなにがなんだかわからない。ただわかるのは、跡部に恋していないということだけだった。少なくとも今は。
考えるのをやめてキッチンにでも行こうとベッドから降りて自室のドアを開ける。そのときだった。

ガチャリ、と音がして近くの部屋──白岩社長の書斎の扉が開いた。中から幸村が出てくる。潤はぎょっとして立ちすくむ。まずい、ベッドから出たことがもう発覚してしまう。
けれども幸村は、いつもとは違う緩慢な動作で書斎から出ると、大きく息を吐いた。すぐ側にいる潤にも気が付かない様子で書斎のドアを閉め、腰に下がっていた鍵束を持ち上げる。しかし鍵を鍵穴に差し入れることはなく、廊下の壁に左肩をもたせかけたかと思うとそのままずるずると床に崩れ落ちた。

「なっ……幸村!」
「……お、嬢様?」

慌てて幸村の目の前に回り込み、しゃがんで体を支えると、幸村はぼんやりとした目を潤に向けた。だがそれも一瞬のことで、力が抜けたかのように目を閉じるとそのまま前のめりになった。幸村の顔が露わになっている潤の首に埋まる。
素肌で直接感じる幸村に、潤は心臓が跳ねた。幸村の荒くて熱い吐息がせわしなく鎖骨に当たってくすぐったい、そのくすぐったさが甘美な震えに変わる。その震えが幸村の体温で増幅されて全身を貫く。跳ねた心臓はそのまま高鳴って、激しい音を立てた。
ダメだ、何をやっているのか。自分を叱咤して、震える手を幸村の額に当てる。熱い。寝かせなければならない、しかし潤一人で幸村を彼の部屋まで運び込むのは無理だった。今は家には潤と幸村しかいない。白岩社長は仕事、河西と綾希は出かけている。
その事実に気が付いたとたん、潤はぞっと恐怖した。

──私は、何の役にも立たない。

幸村と二人でも潤はある意味安心していられた。嫌な気分になることはあっても危険な目には合わないと。それは家の中でも外でも同じことで、だからこそ、前に政治家のパーティーにいたときは堂々としていられたのではないか。
その幸村が、倒れてしまったら。

──どうしよう、どうしよう?何ができる?何にもできないんじゃないか?ただ見てるだけ?このまま悪化して幸村にもしものことがあったら。まさか、でも。

潤は幸村を廊下にもたせかけると急いで自室へ戻った。そしてクッションとブランケット、スマホを掴んで幸村のところへ飛んで戻る。廊下にクッションをおいて幸村を寝かせ、ブランケットをかける。そして指の震えをなんとか押さえつつ、綾希に電話を掛けた。

「泉さん!私、わたしだけど!どうしようっ」
「お嬢様?」
「あの、幸村がっ、どうしよう」
「落ち着いてくださいませ。どうなさいました」
「幸村が、二階の廊下で倒れて。すごく熱が高くて」
「なるほど、わかりました」
「私、何もできなくてっ」
「大丈夫です。河西と白岩社長、主治医には私から連絡を入れます。すぐに戻りますね」
「何をしたらいい?」
「そうですね、では戻るまで幸村さんの側にいてください。お嬢様、大丈夫ですから」
「うん、うん」

スマホを切って、幸村の側にしゃがみ込む。幸村は高熱が出て、気絶するように倒れた。まるで潤と同じ症状だった。うつしたのかもしれない、という考えが潤の胸を締め付けるようだった。目をつぶって呼吸をする幸村を見つめても、何もできない。この無力感。
と、そのとき、幸村の側にものが落ちていることに気が付いた。幸村の手からこぼれ落ちた鍵束とポケットから落ちたらしき黒い手帳だ。
心臓が、今度はまた別の意味で鳴り出す。

──幸村は書斎から出てきた。書斎の鍵は幸村も持っていたけれど、そこには父さん以外は入らないことになっているはずだ。幸村も。幸村は、書斎で一体何をしていたんだろう?

目が回るような感覚に陥った。嫌な音を立てる心臓が五月蠅い。考えるのをやめたいのに思考は勝手に走っていく。無断で入っていたとしか考えられない。そんな馬鹿な、幸村は嫌な男だが白岩社長には忠実だったはずだ。けれども、それなら。
潤は昔、幸村を見た美波が「スパイなんじゃないの」と言っていたことをふと思い出した。いや、まさか、あれは単なる戯れ言だ。しかし確かに幸村はおかしい。そもそも幸村が今のように冷たくなったのが潤のせいだったとしても、何年も前のプライベートでの出来事を仕事にまで引きずって、主人の娘にここまで嫌みな愛の言葉など囁いたりするものだろうか。それならまだ無視した方がマシではないか?

──スパイ?いや、まさか、まさか、でも。

潤はとっさに鍵束をつかんで書斎の鍵を探し、鍵穴へ入れて回した。ガチャンという鍵のかかる音がして少し安心する。それでもまだ心臓は嫌な音を立てたままだった。


(20151025)

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