カモマイルの悪魔 | ナノ


スマホから聞こえるマスターの声は相変わらず耳に優しい低音で、その妙なアクセントがついた話し方からは異国の香りがした。潤がマスターに最後に会ってから四日しか経っていないにもかかわらず、彼が懐かしく思えてくる。

「と、いう状態です。申し訳ないのですがお休みをいただけませんか、マスター」

ベッドから身を起こした潤はそこまで言い切ると一息ついて、枕元の巨大なクッションにもたれ掛かった。スマホを握る手にだけ力を入れて全身の力を抜く。体調はずいぶん回復していたが体力は落ちたままで、背筋を伸ばした体勢を維持するだけでも困憊してしまう。とても仕事は無理だ。

「そうか、わかった。今クイーンビーには休暇取ってた社員が戻りつつある。夏の盛りも過ぎて客足も落ちついた。こっちは問題ねえから気にすんな」
「ありがとうございます。急に、ごめんなさい」

潤は安堵してため息をついた。
三日間眠り続け、気がついたらバイトがある日になっていた。新人アルバイトが一人いなくなったところで業務に重大な支障がでるとは思えないが、無断欠席は迷惑はかける。バイトの存在を思い出して青くなっていた潤は、ようやく安心した。
ぶんぶんと蜜蜂が部屋でうなっている。今朝換気をしたときに入ったのか、それはベッドのあたりへ飛んできたので潤は手で追い払った。

「直前ですみません」
「さっき言ったとおり、気にすんな。声聞いただけでもひどい状態ってわかるぜ」
「え、そうですか?いつも通りのつもりなんですけど」
「少しばかし枯れてるし、普段ほどの元気もねえ」
「枯れてます?」
「ばっちりな。今週は来なくていいからゆっくり養生しろ」
「いいんですか?マスター」

寛大な言葉に喜んで返事をしたとたん、いきなり部屋のガチャリとドアが開いた。はっとして見れば銀の水差しを持った幸村がけげんな顔で立っている。

「お嬢様?返事がありませんでしたので」
「すみません、ありがとうございました。電話切りますね」
「ああ、またな」

焦って小声でマスターに声をかけ、電源を切り、さりげなく通話記録を消す。おそらく会話はほとんど聞かれていないはずだ。せっかく内緒でアルバイトをしているというのに、聞かれていたら困る。
潤は幸村が不可解そうな顔で近づいてくるのを見て、密かに腹を決めた。聞かれていたなら聞かれていたでごまかさねばならない。

「お嬢様、さっきの電話は?」
「ゼミの先輩。夏休みの間も毎週自主ゼミやってたでしょ?それで欠席するって」

本当は自主ゼミではなくバーのバイトだが。それを幸村は知らない。

「本当ですか?」
「どうして?」

眉をひそめた幸村に潤はヒヤッとした。普段なら自主ゼミといえばそれで納得するというのに、なにがおかしいというのか。

「先ほどマスターとおっしゃっていましたが、どういうことですか」
「それは、ただのあだ名よ」
「あだ名?」

そこまで聞かれていたのか。潤は焦りながらもふつうを装って寝返りを打ち、幸村に背を向けた。顔を見られたら嘘がばれるかもしれない。幸村はときどき妙に鋭い。

「そ。年齢以上に落ち着いてて、博識で、博士みたいに見えるからマスター。最初はドクターって呼ばれてたんだけどそれだと医者みたいだから」
「……そうですか」

幸村は短くそれだけ言うと、手にしていた水差しをベッド脇のサイドテーブルに置いた。

「蜂が入っていますね。追い出しますので窓を開けますよ」
「ええ、お願い」

幸村はきびきびとレースのカーテンを引いて窓を大きくあける。そのとたん蒸し暑い空気がどろりと室内へ流れ込んできて、潤はかぶっていたブランケットをまくった。毛布などかぶっていては蒸し焼きになりそうだ。
だが熱気を正面から受けたはずの幸村は表情を一ミリたりとも変えずに蜂を追い出しにかかった。腕を伸ばして、振って。熱気に響くように羽音がうなる。幸村は腕の動きだけでうまく蜂を窓辺まで誘導するが、蜂はカーテンにひっかかってなかなか外へ出ない。

──蜜蜂、か。

潤はぼんやりした頭でミツバチ、という単語を反芻した。そして白岩社長が言っていたことを思い出す。最近出席した政治家のパーティーで言われたことだ。

──蜜を盗む輩に気をつけなさい。

潤には結局、この言葉の意味がわからなかった。格言か何かかと思い、パーティーの後でPCで調べたが、盗蜜者という概念に出会っただけだった。冬場にエサが不足したミツバチが他の巣から蜜を盗む、というそれだけの話。白岩社長の言う「蜜」が何らかの比喩であることは確かだったが、それ以上のことは推測しようもなかった。
白岩社長が言わんとしていた蜜はなんだったのか、蜜を盗むとはどういうことなのか。誰が盗もうとしていたのか。そして、白岩社長はこの言葉を潤に伝えることでいったいどうなることを期待していたのか。一つもわかることがなかった。
あのパーティーにいた労働党の取り巻きたちと一般参加者の一部の人たちは、潤や幸村を敵視しているようだった。しかし彼らが何かを盗もうとしていたようには見えない。言葉を弄して白岩カンパニーの情報を引き出そうとしていたわけでもなく、ましてや物理的に何かものを盗もうとしていたわけでもない。ただ攻撃的だっただけだ。
あれにどんな意味があるのか白岩社長に聞こうと思いつつも、タイミングをすっかり逃してしまった。

潤はため息をついて、クッションからずり下がるようにして身を倒し、再び枕に頭を沈めた。枕の下からはもう紙の音はしない。貘のおまじないはもうやめた。昔からこのおまじないに頼ることで少しは気が楽になっていたが、実際は根本的に問題が解決するわけではない。だから、もうやめだ。
悪夢喰らいの妖怪は、頼られすぎることを嫌い束縛を嫌って、もうとっくに別の場所に行ってしまったのかもしれない。あるいはすでに死に絶えたか。今となっては潤の悪夢は別の悪夢で浸食されつつある。これはこれでいいのかもしれない。少なくとも、以前のような幸村にとらわれた状態がずっと続くよりは。

幸村が窓を閉めた。もう羽音はしない。目線だけ上にあげると、彼はレースのカーテンをきっちりと下ろしていた。外界からの断絶。熱も光も柔らかになり、体には優しいが刺激の少ない世界が帰ってくる。
ここから出るには、自分がどうにかするしかない。


***


幸村が白岩カンパニービルの1階へ降り、客人用の茶色い革張りのソファが並ぶ一角に近づくと、窓際の一席に細身で長い背中が見えた。その人物はぴんと背筋を伸ばし、窓から入る白い自然光で書類を呼んでいるようだった。

「柳」
「ああ、幸村」

軽く声をかけると柳蓮二は書類を手にしたまま、さっと立ち上がって振り向いた。柳はポケットから青い紐のついた名札を取り出すと首にかけて、床においてあった鞄を手にする。柳の名札には監査法人、との文字が示されている。大学を卒業したのち会計士になった柳は監査法人に所属しており、これは全くの偶然であるが、白岩カンパニーの外部監査委員の一人となっていた。
幸村は柳が近づいてくるのを待って、エレベーターホールへと足を向けた。

「さあ、会議室へ案内するよ。うちの会社へは何度目だ?」
「これで三度。初回は慌てていたしニ度目はまだ緊張していたからな、社内の様子をゆっくり見物させてもらう暇もなかった」
「柳が急に担当者になることになったんだったか」
「そうだ、前の担当者が事故に遭ってしまってな」

チン、と音がしてエレベーター到着する。二人で乗り込むと、無機質な四角い箱は静かに上昇し始めた。

「ところで、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ」
「柳、おまえ、最近うちのお嬢様に連絡を取ったか?」
「なに?」

幸村はじっと柳の様子を観察した。柳は幸村の問いがよほど意外だったのか、糸目を軽く開いている。そしてふむ、と言うと目を伏せて黙り込んだ。

「どうなんだ」
「一応尋ねるが、お嬢様とは白岩潤のことだな?」
「決まっているだろう。それで?」
「慌てるな」
「いいから答えろ」
「ほら、もう着くんだろう」

チン、と再び音がしてドアが開く。柳は声に苛立ちを含ませた幸村をおいて、さっさとエレベーターから出た。幸村はイライラと問いつめる。

「柳」
「連絡は取っていない。というか、そもそも俺は白岩潤の連絡先を知らんぞ」
「本当か?」
「なぜ疑う」
「なぜもったいぶった」
「ちょっと思い出したことがあってな。この続きは、会議の後だ」
「……わかった」

幸村は不機嫌さを一瞬で引っ込めて真顔を作り、背筋を伸ばして会議室のドアに向き直った。柳はそんな幸村を後ろから眺めながら、密かに苦笑した。





夏の昼間は長いというのに、会議が終わるころにはとっくに日がくれていた。涼しいとはいえない夜風がスーツの中を通り過ぎていく。柳と一緒に会社から出た幸村は、ジャケットを脱いでネクタイをゆるめた。

「どうする、幸村。せっかくだからビアガーデンにでも行くか。時間はあるか」
「今日は大丈夫だ」
「そうか。それであの話の続きだが」

声を少し低くした柳を、幸村は横目で眺めた。自分から言い出すとは思わなかった。
オフィス街から商業区へ足を踏み入れたとたん、あたりを取り巻く空気が変わる。昼間の熱気が残る闇を街灯やネオンが照らして、車のパッシングやバイクのエンジン音が鳴り響き、昼間は大人しいこの街を快楽主義の夜の女へと変貌させていく。

「もう一度言うが、俺は白岩潤と個人的に連絡を取ったことがない。連絡先も知らない。最後に会ったのは……おそらく三年前だな」
「ああ、柳が仁王とともに白岩家へ来たときか」
「そうだ」
「で、思い出したことってなんだ」
「最近ジャッカルと会ったんだがな……すみません、2名で」

ビル屋上のビアガーデンに足を踏み入れると、店員がにこやかに近寄ってくる。みっしりと置かれた椅子は人でいっぱいだったが、なんとか2名分の空きが見つかったようだった。
案内された先で柳は白いプラスチックの椅子を引くと、長い足を伸ばして椅子に座った。

「最近といっても三週間ほど前だったか?その時にジャッカルに妙な質問をされた。最近の白岩潤の写真持ってるか?とな」
「写真?」

ゴトリとビールの中ジョッキが二つ、テーブルに置かれる。
同じく椅子に座った幸村は目を見開いた。話の展開が全く読めない。幸村は若干混乱しつつも、頭の片隅で「柳はビールが似合わないな」と冷静に考えていた。

「最近、夜の飲み屋で潤に似た人物を見たんだと。それで確認したいと」
「は?」

あまりの予想外の言葉に、幸村は手にしていたビールをそのままひっくり返しそうになった。なにを動揺しているのか、らしくない。幸村はそう自分に言い聞かせてジョッキを握りなおす。

「どこの飲み屋だ」
「そこまでは聞かなかった」
「写真は見せたのか」
「幸村。俺が潤の写真を持ってるはずがないだろう」

柳に苦笑されて、幸村はばつが悪くなった。まったく冷静でない。

「それに、潤がそんなところにいるはずないだろう。真面目な子だったろう?」
「……」
「なんだ、大学に入ってからグレたか?」
「いや。真面目なままだ」
「何か心当たりがあるのか」
「ある。お嬢様はゼミの帰りにときどきゼミ仲間や教授と飲んで帰ってくる」
「そうか。まあ大学生なら真面目な子でもそのくらいはふつうだろうな」

柳は似合わぬビールジョッキを易々と飲み干して、ふと真顔になった。

「幸村、おまえは時々恐ろしく不器用になるな」
「な」
「今、そうだろうが」
「わかっている」

そっぽを向いた幸村に、柳は再び笑みをこぼした。幸村は人からは冷静沈着でクールな男として見られているが、それは本来の幸村の姿とはかなり異なっている。幸村は地獄の業火のような情熱を理性と穏やかさの中に押し隠す、そういう男だ。優しい顔をしながら、いつだって体の中は煮えたぎっている。
柳は仕事を始めてからというもの幸村とじっくり時間をかけて話しをする機会に恵まれずにいた。しかし、幸村の、この本質は未だに変わらぬままであるように思えた。そしてときどき、体から溢れかえる熱をコントロールできなくなる。幸村の強い理性でも押さえきれないほどのエネルギーが体内に秘められているのだ。

「職務を全うすることに懸命なのだろう」
「まあね」
「それで?そもそも唐突に、俺に潤と連絡を取ったかどうか尋ねたのはなぜなんだ」

真顔に戻った柳がそう尋ねると、幸村はしばらく沈黙した後、ぐいっとビールを飲み干してからとつとつと説明した。


(20150916)

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