カモマイルの悪魔 | ナノ


朦朧とした意識の中で陽炎のように揺れて見えた。幸村がベッドの傍らに座っている。彼は本でも読んでいるのか、手元に視線を落としていた。スーツを着ておらず、Tシャツにジーンズというラフな格好をしていた。私服姿が妙に懐かしい。
──ああ、夢を見ているのか。
潤はぼんやりと合点する。いくら病気だからといっても「今の幸村」が潤をつきっきりで看病をするとは思えない。昔とは違うのだ。もう潤は子供てはない。それに、潤の世話係には綾希がいる。
潤は頭痛が響く中、夢に必死で目を凝らそうとした。
──あのころの幸村はどんな顔をしていたんだっけ。今の冷酷な顔とは正反対の顔だったはずだ。

見たい、昔の幸村の顔を。

「……いち……くん」

力を振り絞っても口から出たのは掠れた小さな声だけだった。けれども幸村の耳には届いたようで顔を上げた。ウェーブのかかった髪がさっと揺れて、彼はこちらを見る。目があった。彼は驚いたように目を見開いて、そして。


***


潤はまるまる2日間昏々と眠り続け、そして未だにベッドで横になっていた。薬効のおかげか頭痛はすっかり消え去り、吐き気もおさまり、あとは熱とだるさが残るのみだった。意識がはっきりとしていたからもう起きたいと思っていたが医者にも綾希にもきっぱりと反対されて、潤は仕方なく大人しくすることにした。
暇だった。することが何もない。
潤は熱っぽいまぶたを押し上げて、ぼんやりと天井を眺めた。子供の頃は朝布団の中でまどろむときが至福の時間だったのだが、あの悪夢を見るようになってからというものすっかり目覚めが良くなってしまった。悪夢で飛び起きるのだ。最近では幸村の悪夢の代わりに跡部の悪夢を見るようになってしまったので、本当に家が贈り物のバラで埋まっているんじゃないかと飛び起きて焦って窓の外をみることもあった。

そんな状況にすっかり慣れていたが、冷静になってみれば、我ながらかなりキている。こうして悪夢に惑わされずゆっくり眠るのは久しぶりだった。

壁を一枚隔てた外では蝉が季節の終わりを告げるように喧しく鳴いていた。日差しはまだ刺すように厳しく、レースのカーテンを通してクーラーの効いた潤の部屋に夏の欠片を投げかけてきている。
ぼんやりしているとインターホンの音が微かに聞こえてきた。しばらくして部屋の扉がノックされ、綾希の声が聞こえてくる。

「潤様。高原様がおいでになりました」
「ありがとう。入っていただいて」

美波は綾希の後ろからひょっこりと顔をのぞかせた。眉をハの字にして心配そうな表情を浮かべている。潤が軽く手を挙げて見せると、美波はほっとした様子で潤の元へ近づいてきた。

「潤ー!もう、心配したんだよ!いきなり倒れたっていうから」
「ごめん。私もびっくりだよ、こんなこと初めて」
「大丈夫なの?まだ熱がありそうね」
「うん。夏風邪をちょっとこじらせたみたい」
「レポート真面目にこなしすぎたんじゃない?」
「あはは、疲れは貯まってたみたいで……ってアレ?美波、なんで私が寝込んだこと知ってるの?」
「樺地さんから聞いた」

当然のように言う美波に、潤は目を剥いた。なぜ樺地が知っているのか。考えなくても理由は想像できるけど、想像したくない。

「あの、今なんて?」
「だから、樺地さんに聞いたんだって。あれ、なんかおかしなこと言った?」
「……なんで樺地さんが私の体調を知ってるの」
「そりゃ跡部さんから聞いたんでしょ」
「なんで跡部さんは私の体調を知ってるんだろ」

潤が身を起こすと、タイミング良く綾希が部屋へ入って来た。綾希の持ったお盆には半月型のレモンを添えたアイスティーと桃のババロアらしきものが乗っていた。

「綾希さん。私が寝込んでる間に、もしかして跡部先輩から連絡あった?」
「ええ。河西が対応しました。潤様の体調の話はしなかったはずですが」

綾希はベッドのそばまで近づいてくると、いったん言葉を区切って気まずそうに目をそらした。

「その……お嬢様がお眠りの間も跡部家の方がお越しになっていたようで」
「潤、それって例の贈り物攻撃をもってくるっていう?」
「うん。最近は大量のプレゼントはなくなったんだけど、今度は異様に高価なものになってきて」

潤は思い出して再び気絶したくなった。たとえば世界で10点しか発売されていないネックレス。たとえば特別生産品の限定香水。たとえば跡部家所有の離宮への招待。笑って受け取れればいいのだが、そうするには潤は庶民感覚すぎた。

「おそらく、贈り物を持ってきた方がお医者様を目撃されたのではないかと」
「なるほどね。……跡部先輩、心配してくださったのだろうけれど」

思わず苦笑が漏れる。跡部家の情報管理が徹底していると賞賛すべきか、抜け目ないと恐れおののくべきか。嫌な気持ちはしなかったが、どこまでもスゴい人だ。

「うわー、うわー!!すごいね、跡部先輩!やったじゃん」
「え、何が」
「跡部先輩の愛、深い!!言わなくてもちゃんと察知してくれるなんてさー、愛だよ愛!」
「違いますってば!そんなんじゃないってば!」

潤は過去の自分の首をきゅっと締めたくなった。なんて浅はかなことをしたのか!あの時はダブルデートで跡部に気があるフリをしたことがここまで後を引くとは思っていなかったのだ。美波は未だに勘違いしている。ダブルデートの一週間後、潤は美波に本当は跡部のことが特に好きなわけではないと訂正した。が、テンションがあがった彼女の耳に訂正は届かなかった。美波は潤が照れて恋心を隠そうとしていると思いこみ、そのまま今に至る。

美波の発言を否定しながらふとサイドテーブルに目をやると、綾希がちょうどアイスティーとババロアを並べ終わったところだった。いつもなら美味しそうにみえるだろうに、熱のためか全く美味しそうに見えない。

「これ、もしかして丸井さんが?」
「ええ、これなら潤様でも召し上がれるのではないかと昨晩作っておられました」
「それは嬉しいね。でも、まだちょっと食欲が……美波、私の分も食べる?」
「食べたいけど太りそうだからやめとく」
「大丈夫でしょ、そんなに細いんだし。それに樺地先輩なら美波がいくら太ったって気にしないと思うけどね」
「なっ」

復讐とばかりにニヤニヤ笑って見せると、美波は絶句した。美波は勢いよく身を乗り出してきたが、口を開けては閉じ開けては閉じするのみで言葉が出てこないようだった。

「な、な、ちょっと、潤……」
「あの、僭越ながらおたずねしますがもしや、高原様は樺地様と?」

綾希が驚いたように尋ねると、美波はうろうろと視線をさまよわせたのち、ババロアのスプーンを握りしめたままうつむき、真っ赤になって頷いた。

「そっか、綾希さんは樺地先輩のことも知ってるのね」
「ええ。とても良い方でしたから、高原様と仲良くなられたことがとても嬉しく思います。踏み込んだ質問、大変失礼いたしました」
「あ、いいえ!大丈夫です」

美波はまだ赤いが、だいぶ落ち着いたようでアイスティーをぐいっとあおった。潤は部屋から出ていこうとする綾希を引き留めた。

「綾希さん、待って。時間ある?」
「ええ、もう仕事はほとんど終わっておりますが」
「じゃあ私の代わりにババロア食べて言ってよ。一緒に話もしたいし」
「賛成ー!私、泉さんと話してみたかったんだよね」
「いいのですか?ありがとうございます」

綾希はドレッサーの前から椅子を運んできて、美波のやや後ろに腰掛けた。そのとたん、はずみがついたかのように美波がぐいっと頭を上げた。美波は開き直ったようで胸を反らした。

「そう!私とむね……樺地先輩のことはもういいの。進んでるし。問題はあんたよ、潤」
「いやだから私は」
「いいかげん告白したら?跡部先輩からも愛されてるんでしょ」
「え、いやその、だから」
「もう、往生際が悪いな!こんなに贈り物をしたりするの、あの跡部先輩といえどさすがに本気だから。ねえ、泉さん?」
「……ええ、そうですね。ああ見えて一途な方らしいですから、社交辞令ではないと存じます」
「えっと、あの……」

潤は跡部の話を振られて焦った。なんとも返事しようがない。

「それに潤、ここのところ跡部先輩の話ばっかりしてるじゃない」
「え!?うそ、そんなことないよ」
「いいえ、ありますー。潤、最近跡部先輩のことばっかり考えてるんじゃない?」

今度こそ潤は絶句した。「いや、跡部先輩の行動に困惑しているだけだから」。そう返事をしようとした。
でも、本当に?
確かに跡部のことを考えている時間は長い。でも本当だ、困っているだけだから、いやまさかそんな、好きだなんてことは。そんな馬鹿な。

考えれば考えるほど混乱してくる。その間にも綾希が爆弾発言を投下してくる。

「潤様なら跡部様にふさわしいと私は思います」
「そうよね、泉さん!潤は恋に恋するタイプじゃないから自分に気がついてないだけよ」
「そんなことない……はず」
「まさか幸村さんのせいで男嫌いになったとか!?」

潤はギクッとした。あの話は美波にはしていないのに核心をついた台詞だった。自分が悪かったにせよ、幸村に裏切られたという気持ちは、なくはない。
でも、この気持ちは知られたくなかった。未だに嫌な痛みを発する生傷。大人になったところで痛みは続いたが、傷を隠すすべは身につけた。

「いや、そんなことないってば。前は幸村のこと好きだったし」

前は。

「え、そうなの?なんだ、じゃあイケメン執事とお嬢様の禁断の……」
「違うって。昔の話だもん、淡いものだよ。憧れてただけ」

潤は慌てて否定して綾希をちらっと見た。綾希は潤たちの会話に耳を傾けながら黙々とババロアを食べているようだった。表情が変わった様子はない、が、平気なふりをしているだけかもしれない。
綾希は幸村と相思相愛なのだろうから、主の娘が幸村のことが好きだったなどという話は聞きたくないに違いない。

「丸井さんと仁王さんは!?二人のことも昔から知ってたんでしょ?」
「うん。でも考えたことなかったなあ。丸井さんは子供の扱いが上手い親戚のお兄さんみたいな雰囲気だし、仁王さんは……むしろお母さんみたいだし」

一瞬沈黙が訪れた。三人は顔を見合わせて、一斉に吹き出す。

「わかる気がする」
「仁王さん、お嬢様が倒れられてからお粥作ったりリンゴすり下ろしたりなさってたんですよ。結局お嬢様の口には入っておりませんが」

潤の部屋は久しぶりに、暖かい笑いに包まれた。


(20150814)

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