カモマイルの悪魔 | ナノ


「あれ」

大学から帰宅した潤は、玄関から2、3歩廊下を進んだところで立ち止まった。一瞬、家がぐらりと揺れた。上を見上げるが廊下のシャンデリアは揺れていない。小さな地震なようだった。
潤はそれ以上特に気にせずキッチンへ向かう。まだ午後5時だというのに疲労感がひどい。体が重く、普通に歩いているのか体をひきずって進んでいるのか自分にもよくわからないくらいだった。暑さのせいで息苦しくもある。夏ばてかもしれない、と潤は考える。晩夏のうだるような暑さと湿気、室内の冷房の冷たさ、水分塩分不足それから……ちょっとしたストレス。熱にさらされた体はなかなか冷えてくれないし、心なしか頭も痛い。
さっさと水を飲んで自室で休もう。そう思ってキッチンの扉を押すと、ちょうどそこにはキッチンから出ようとした幸村がいて潤は息を呑んだ。平日の夕方早くに家にいるとは珍しい。だが、幸村に反応するより先に、また家が揺れた。頭が痛い。
驚きと体のだるさに動きを止めると、真正面にいる幸村からいつもの冷酷な声が飛んできた。

「なにをぼうっとしているんです」
「地震多いなって思ってただけよ」
「地震?」

いぶかしげな幸村の反応に潤は頭をかしげる。おかしなことは言ってないはずなのに。
そのときだった。もう一度視界が揺れる。頭痛がする。ゆっくりと自分の体が傾いていくのがわかる。倒れる、と思っても四肢は動かない。意識が遠のいていく。
──そうか、地震じゃなかったんだ。
そう思ったのを最後に、潤は気を失った。


***


幸村はぎょっとして倒れてきた潤を抱き留めた。

「お嬢様。お嬢様!」

声をかけたが返事はない。潤は目をつぶってただ荒い呼吸をするだけだった。慌てて潤の額に手をあてれば、かなり熱を出していることがわかる。幸村は顔をしかめた。
急いで主治医や社長などに連絡し、それから潤を抱えてキッチンから出た。あまり揺らさないように慎重に、でも手早く、二階の潤の部屋へ運ぶ。ぐったりしている潤をベッドにゆっくり横たえる。勝手に潤のネックレスを外してサイドテーブルに置き、髪をほどいて枕の上に流す。幸村は汗で前髪がはりついた潤の額にもう一度そっと触れると、厳しい顔で部屋から出た。
最近、幸村は潤にあまり関わらないようにしていた。しかし綾希がいない今は自分が見るしかない。すべきことはわかっていた。物音をあまり立てないように一階と二階を往復し、タオルを運び、氷枕を出し、水差しに飲み水を入れ、たらいとバケツを準備し、潤の鞄と体温計をもって上がる。

潤の服の胸元をゆるめて体温計を差し込み、そこまでしてようやく、幸村は一息ついた。ドレッサーの椅子をベッドのそばまで運び、潤に薄手のブランケットをかけてから椅子に座り込む。幸村は珍しく姿勢を崩し、サイドテーブルに肘をついた。
──既視感。見たことのある光景。この景色も、また記憶にある。

「大学生のころを思い出すな」

幸村は思わず呟いた。白岩家に下宿するようになってから、幸村は潤に勉強を教えるだけではなく世話もするようになった。妹のようなものだった。小学生のころの潤はときどき熱を出したので、遅くまで働く潤の両親に代わって面倒を見ることがあった。大学のテキストを読んだり課題をこなしたりする傍らで、大人しく眠る潤。ときどき潤の口から飛び出してくる寝言に、心配しながらも笑ってしまうことがあった。潤は氷帝学園中等部に入学するころには熱を出さなくなった。
そしてあの日。あの日、あの日から──

ピピピ、ピピピピ。

幸村は我に返って潤の胸元から体温計を抜き出した。38度7分。高い。幸村はため息をついて潤の頭を持ち上げ、氷枕を下に滑り込ませた。潤は微動だにせず眠っている。幸村は汗で濡れている潤の額をタオルでそっと拭った。



幸村から連絡を受けた綾希は慌てて白岩家へ戻った。裏口から白岩家へ駆け込んで買った食料品を適当に冷蔵庫に放り込む。そうこうしていると玄関のチャイムが鳴った。出てみれば、真夏だというのに長袖の白衣を着て平然としている壮年の男性と、白っぽい服装の若い女性がいる。主治医と看護婦のようだ。綾希が挨拶をすると主治医は鷹揚に頷き、女性は緊張した面もちで頭を下げる。主治医は慣れた様子で二階へ上がり、女性もそれに続いた。
綾希もまた二階へあがろうとしたが、その前に幸村の声がした。

「泉さん。聞きたいことがあるのでまだ二階へはいかないでください」

幸村は誰かに連絡をしていたのか、スマホをズボンのポケットにしまいながらこちらへ向かってくる。

「幸村さん。お嬢様のご様子は」
「今は寝ています。熱はやや高いですが、苦しんでいる様子はありません」
「病院に連れて行かなくていいのですか」
「主治医の指示を仰ぎましょう。社長と長年つき合いのある、信頼の置けるお医者様です。大丈夫ですよ」
「そうですか」
「飲み水や氷枕の準備などはすべてすませました。ただ着替えをさせていないので、お嬢様が起きたらお願いします」
「ええ、わかりました」

しっかり返事をすると、幸村は真面目に頷いた。
綾希は幸村の真剣な目を見て不思議な気分になった。幸村がわからない。
綾希から見た幸村はずいぶん嫌な男だった。仕事に関しては真面目だが、こちらに粉をかけてきたり反対に嫌みを言ったする。潤に対しても妙な態度を取る。幸村は一種の「女嫌い」なのかもしれないと綾希は思っていた。普通「女嫌い」と言えば女性に対して攻撃な態度を取ったり避けたりするものだが、幸村のそれは変則的で、表面的に女性に優しい言葉をかけたり親しげにしたりすることはできる。しかし内心は相手の女性を卑下し、馬鹿にしている。こう考えると幸村の行動には説明がつく。
ところがどうだろう、今の幸村は嫌な感じがしない。さすがに病気となれば優しさが顔を出すのか、それとも「お嬢様の看病」は仕事だから真面目に対応しているだけなのか。

「お嬢様は朝はどのようなご様子でしたか」
「普通でした。食事もいつもと同じように召し上がられましたし。いま思えばややお疲れのご様子はあったのですが、お話は普通にされていましたし、テストの時ほど疲れていらっしゃる風でもありませんでした」
「そうですか。では、ここ最近のご様子は?」
「ここ最近の……?」
「体に負担がかかるようなことはなさっていましたか。激しい運動をするようになったとか、跡部に連れ回されているとか、夏バテしそうなほど冷えたものばかり召し上がっていたとか、跡部に悩まされているとか、ひどいダイエットをしていたとか、跡部がストレスになっているとか」
「……。私が知る限りは、ないと思います」
「わかりました。ではやはり疲労というより病気ですね」

真面目な顔でさりげなく……ではなく堂々と跡部への嫌悪感を丸出しにしている幸村に、綾希は言葉を失いかけた。幸村はよくわからない男だが、これはわかりやすい。跡部へ良い感情は抱いていないのだろうとは思っていたが、これほど嫌がっているとは。
なぜだろうかと考えていると、ふと、幸村の表情がいつもの嫌なそれに代わった。

「それで、思い出しましたか?」
「は?何をです」
「忘れたのかい?それとも忘れたふりか?ああ、それともただ単に覚えていないのかな。今思えば無理はないね」

綾希は眉間に皺を寄せた。何を言っているのかわからない。しかし思い当たる話が一つだけあった。数ヶ月前に尋ねられたことだが、まさかそのことか。

「俺の顔に見覚えがないか、と言っていた話ですか」
「そうだ」
「もう終わったのかと思っていましたよ、その質問。記憶違いではないですか。私、本当に知らないのですけど」
「これを見ても?」

幸村は小さな手帳を胸ポケットから取り出すと、そこから写真を一枚取り出してこちらに突き出してきた。
写真をのぞき込んで、絶句する。……まさか。そういえば、あのときの。
背中に嫌な汗が流れるのがわかった。「以前の綾希の勤め先」は幸村に知られてしまっているだろうとは思ってはいたが、過去の話をここまで掘り下げられるとは予想もしていなかった。

「思い出したかい?」

二年前の8月。あの日も今日のようによく晴れて、大きな入道雲が空高くそびえ立っているような日だった。
そして綾希は思い出す。 あの場に、整った顔立ちの、テニスの強い男がいたことを。その男はこの幸村と似てはいなかったか?

「……」
「テニスの大会をしただろう、二年前の夏に。主催の跡部が、休みの都合がついた俺たちを誘ってね」

幸村から手渡された写真には、幸村とくせ毛の青年、いかめしい顔の青年が大きく写っていた。そして写真の端に、たまたま彼らの後ろを通ったと思われる女性の小さな横顔が写っている。

「これ、君だろ?」

綾希は何も言うことができなかった。

「さすがに否定できないみたいだな。問いつめるだけでは白を切ると思って証拠を探してたんだけど、案の定見つかった。君は跡部家の使用人だった。あの大会のとき君は大会運営の手伝いをしていた」

幸村の話を聞くにつれて、蓋をしていた記憶が一気に蘇る。より鮮やかに、より鮮明に。懐かしく、楽しかった思い出。それが今はつらい。苦いものが胸の奥からこみ上げてきて、吐き気がする。
綾希は無表情になった。

「君がうちへ面接に来たとき、どこかで見覚えがあると思った。君の顔を覚えていたんじゃない。君の仕草だ。跡部家の使用人の仕草はみな似ている。特徴的というほどのものではないけどね。だから跡部の者じゃないかと思った。仕草だけでは証拠にならないけれど、この写真は証拠になるだろう?」
「……そういうあなたはどうなんです」

幸村は社長の書斎を勝手に使っていた。社長が書斎の使用許可を幸村に与えたとも聞いていない。綾希は河西にさりげなく確認したが、やはり書斎には基本的に使用人は立ち入らないことになっている。
幸村が無断使用していたことは、綾希は社長にも河西にも言っていなかった。言いつけるべきなのか確信がなかったからだ。

「俺?俺は白岩社長に忠実な使用人だけど?」
「忠実な使用人が無断で書斎を使うんですか」
「君のことを調べていただけだよ。悪さをされると困るからな」

幸村は涼しい顔で言う。嘘だ、と綾希は思ったが、それを証明することなどできない。

「ああ、心配しなくてもいいよ。今は何もしない。俺の邪魔をしない限りはね」

白岩社長への忠義心からの言葉なのか、それとも。


(20150610)

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