カモマイルの悪魔 | ナノ


千石は、クラブに入るときはいつも、まずは店内の様子を見回してどんな人間がいるのか観察するのが習慣となっていた。危ないタイプの人間がいないか、店の雰囲気はどうか、そして可愛い女の子はいないか。
ところがクイーン・ビー・クラブに入店するときは、亜久津や潤がいることもあって、千石はまずはカウンターに目を走らせる。そして今日も千石はそこに潤と亜久津の姿を見つけた。ただ違うのは、潤がカウンター越しに誰か男と話をしていたことだった。

千石はこちらに背を向けている男を特に気にとめず、潤に声をかけようと近づいた。そのとき男が言葉を発した。その声。千石は硬直した。

「ああ、そうだ」
「チッ」

亜久津は男に嫌そうに舌打ちを返している。千石は男の声に聞き覚えがあった。低くも高くもない自信ありげな声。その偉そうな物言い。さらによく見れば男の着ている服は薄手の光沢ある生地に、しっかりしたあつらえの──どうみても高価なものだ。
跡部。
千石が驚いて足を止めている間にも二人の会話は進んでいく。

「も、もしかしなくても幸村や千石さんと同い年でみんな知り合いだったり?」
「千石清純か?潤、お前知り合いなのか」
「はい、実はそうなんです」
「どういう関係だ」

跡部の言葉にはやや険がある。千石はとっさにカウンターの端に身を屈めて隠れた。慌てたせいでカウンターの板張りに膝をぶつけてガタッと音を立ててしまう。まもなくつかつかと足音がしたかと思うと誰かが身を屈めてこちらをのぞき込んできた。ぬっと上から顔が出てきて……カウンターの裏側でうずくまっている千石は亜久津と目があった。

「……」
「……や、やあ亜久津。俺のことは内緒!しーっ!」
「チッ」

亜久津は目を剥き、眉間にしわを寄せると大きく舌打ちをした。しかし亜久津はそれ以上は何もいわず、姿勢を正すと元の場所へ戻っていく。

「大したことじゃねえ。白岩、休憩にしろ」
「あ、すみません大丈夫です。跡部先輩との話なら後で──」
「うるせえ、テメエは休憩だ」

千石は無意識に詰めていた息を大きく吐き出した。どうやらここに隠れていることはバレずにすんだようだった。
改めてあたりを見回せば、すぐ頭の上にはカウンターの引き出し、背中にはカウンターの板張り、目の前にはカウンター裏の細い通路と壁、横には空になった色とりどりの酒瓶が箱に入れて置いてあった。店内をめまぐるしく回るライトもここまでは届かず薄暗い。カウンターの裏といえど手入れが行き届いているのか清潔感はあったが、床は床だ。こんなところでバレないように体を曲げて床に座り込むなど、まるで子供のかくれんぼである。
千石は少々情けなくなって頭をかいた。瓶に触らないように気をつけつつ、静かに動いてあぐらをかく。隠れた結果できることもなくなって、千石は切れ切れに聞こえてくる潤と跡部の会話を聞きながら仕方なく自問自答した。なんで隠れたんだろう。そりゃ跡部くんの声色が怖かったから。そんなに怖かったか?真剣そうだったなあ。……真剣。真剣?なんで?幸村くんが俺を嫌がるのはまだわかるけど、なんで跡部くんが。あの様子だと初対面じゃないし、むしろ親しいみたいだ。ってことは……もしかして跡部くんは、潤ちゃんに?
考え込んでいる千石の前を、黒いズボンが行ったり来たりする。亜久津の脚だ。と、亜久津の白いシャツをまとった背中が目前に現れた。どうやらしゃがんで低い棚の奥からものを取ろうとしているらしい。
千石は跡部に聞こえないように小声で千石に問いかけた。

「跡部くんってここによく来るの?」
「いや」
「潤ちゃんとどういう関係?お嬢さんなんだから知り合いでもおかしくないけど」
「知るか」
「潤ちゃんに気があるのかなあ」
「どうでもいい」
「潤ちゃんは恋してるって顔に見えなかったけど」
「ハッ」
「跡部くんのこと知ったら幸村くんが阿修羅になりそうだな」

亜久津は英語が書かれている膨らんだ紙袋を棚の奥から引っ張り出すと、千石の話には興味なさげに立ち上がり、またせわしなく行ったり来たりしはじめた。店内に鳴り響くクラブミュージックがますます激しくなり、近くにいるはずの跡部と潤の声は全く聞こえない。

千石はふと思い出してズボンのポケットからスマホを取り出した。メールボックスを検索する。幸村……幸村……あった。千石が潤を家まで送り届けて久しぶりに幸村と再会したあの日から三日ほどたった後、どうやってアドレスを知ったのか幸村からメールが送られてきていた。「お嬢様になにかあったら教えろ」と。それからしばらくして、もう一通メールが来た。「最近跡部に会ったか」と。
幸村から最初にメールを受け取ったとき、千石には幸村が何を言わんとしているのかがよく理解できなかった。純粋なお願いなのか、牽制なのか。あるいは潤を守れという指示なのか。だが二通目のメールはもっと意味不明だった。唐突すぎる。
しかし今となって、幸村が何を思ってそんなメールを送ってきたのかわかった気がした。幸村は跡部を警戒していたのだろう。

千石がカウンターの下で悶々と考え込んでいると、喧しく鳴り響いていたBGMがやや小さくなった。再び、跡部の声がかすかに聞こえてくる。

「どういうことだ。千石に助けてもらったってもしやこの店でナンパでもされ」
「違!い、ます!」

そんな!もう少し信用してくれてもいいのに!
千石は叫びたくなったがぐっとこらえる。ここで居場所がバレたら情けなさ倍増だ。潤が否定してくれていることが救いだった。確かに女の子には積極的だが、女の子をそんなにひどく扱った覚えはない。千石は美波や幸村に言われたことを思い出して若干へこんだ。人の道にもとることはしていないとはいえ、もう少し誠実に見えるように努力しようと心に誓う。
そうこうしている間に、跡部の口調が変わった。いっそう真剣に、言い聞かせるように話す。

「なんでよりにもよってこんなとこでバイトしようと思ったんだ」
「む、こんなところとは失礼な」
「侮辱してるわけじゃねえよ。だが……」

盗み聞きは悪いと思いつつ、千石は息を詰めた。どうやら潤は跡部にも内緒でバイトをしていたらしい。

「ここで働こうと思ったのは、私が自然でいられて、『白岩』の名前が通用しなくて、そして何より、ここが好きだって胸を張って言えるからです」

そして、続く潤の言葉に息を呑んだ。いつも前向きに見える潤からは聞いたことがない、心の内。

──何が好きなのか、何がしたいのか分からない。自分なりに考えてみけれど『正解』が分からない。でもクイーンビー・クラブなら周りに押しつけられたわけではなく、ただ自分が好きなお店なんだと言える。
──自分は凡庸で、情熱的でもないが、せめて自分の意思を貫けるようになりたい。

千石は沈黙した。潤にどこか思い詰めたところがあるような気はしていたが、思っていたよりも悩みは深かったらしい。


***


「千石、いい加減出てこい」
「……うーん。あ、もう行った?」
「ああ」

千石はカウンター下から這いだして、苦い顔をしている亜久津とにやにや笑っているマスターに頭を下げた。ようやく、いつものようにカウンター席に座る。

「マルガリータ一つ」
「かしこまりました。気が利く男は苦労するねえ、千石さん」
「からかわないでくださいよ、マスター」
「おい、なんだあれは」
「へ?」
「どう考えても不自然すぎるだろうが、ハンカチ」
「そ、そうだったかな」

千石はマスターからマルガリータを受け取ると、グラスのふちにつけられた塩をぺろっとなめて口をへの字にした。グラスを少し傾けて、頬杖をつく。

「だってさ、潤ちゃんがあんな風に弱ってるとこ見たことなかったから、つい……慰めるのは跡部くんの仕事みたいだったし、でも放っておけないし」
「千石さんにはああいう姿は見せねえんですか」
「ええ。いつも大丈夫だって言うばかりで」
「俺らに対しても似たようなもんだな。嘘をついて仮面をかぶっているとは思わねえが、弱ってる姿は見せねえ」
「潤ちゃん、ここに来はじめてどのくらいなんですか」
「1年ちょっと。ジンが潤にはジュースばっか出すなと思ってたら未成年だったんですよ、そのころは」
「へえ、じゃあ1年生のころか。……ますます意外です」
「ああいう、真面目そうに見えるやつがこういうところに来る場合は、たいていなんか抱えてんだ。だから内心弱ってんのはそれほど不思議じゃねえな」

千石がマスターと話をしていると、亜久津が「おい」と声をかけてきて顎で店の入り口を指した。

「げ」

見ればなぜか跡部が戻ってきている。潤は連れていない。跡部はまっすぐ千石に近寄ると、じろじろと見下ろした。
千石はしらばっくれることにした。

「や、やあ跡部くん。久しぶりだね」
「さっきからそこにいただろうが」
「ばれた?……潤ちゃんは?」
「気がついてねえ。今は車の中で待たせてある。手短に言うぜ」

跡部は腕を組むと、眉間にしわを寄せた。

「お前が潤のことを言いふらすとは思ってねえ。だがあえて言うが、誰にも言うな。幸村にもな」
「……潤ちゃん思いだね、って思っていいのかな?」
「もちろんだ」
「一つ聞きたいんだけど、跡部って潤ちゃんのこと好きなの?」
「ああ」

マスターはピューッと口笛を吹いた。だが千石は、跡部がかすかに表情を変えたことに気がついた。気がついてしまった。

「わかった。約束するよ」
「それだけだ。じゃあな」

店の扉がしまり、跡部が去ったのをしっかり確認してから、千石は天井をあおいだ。

「あー、あー、なるほど。こりゃやっかいだなあ。幸村くんのメールの意味も変わってくるな」
「色恋沙汰なんてなれてるだろ、千石さんは」
「はは……いやあ、色恋沙汰で済んだらいいんだけどね……」
「どういう意味だ、千石」
「確信がまだないんだ。跡部にはああ言ったけど、俺は潤ちゃんの味方をするよとだけ言っておくよ。どちらかに肩入れする気はないしね」
「どっちか?って跡部と、幸村のことか」
「とりあえずはね。もっとおおごとにならなければ、の話」
「けっ、金持ちどもはわけがわからねえな」

千石は文句を言っている亜久津に笑みを返した。
──さて、俺はどう動くべきだろう?


(20150604)

[back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -