カモマイルの悪魔 | ナノ


「おい白岩、昨日仕入れたあれ」
「はいただいま」
「潤、そこの」
「どうぞ、マスター」

夕方。クイーンビークラブは開店まもなく混雑してきた。潤はかがんだと思えば身を伸ばし、かと思えば長いカウンターの端から端を小走りで往復したりと忙しく身を翻していた。必死で働くと慣れぬ仕事もこなせるようになってくるもので、潤は今や亜久津やマスターが二言三言話しただけで何を欲しているのかわかるようになった。
スモークサーモンやハードチーズを切って盛りつけ、亜久津やマスターに酒や器具を渡し、汚れたグラスや皿を洗い、溢れそうなゴミを片づけて奥の部屋へ運びこむ。その間にも潤に容赦なくオーダーを入れる客には笑顔を返し、即座にマスターや亜久津に注文を伝える。
もはや脊髄反射だ。
今日も潤がグラスを磨いている間に客が話しかけてきた。いつものことだった。

「おい、今日のおすすめは」
「本日は新鮮なトマトが手に入ったので、ブラッディマリーやストローハット、レッドアイがおいしいですよ」
「……」
「いかがなさいますか?」
「お前なら何を頼む?」
「私ですか。私なら……あ」

グラスを拭きながら反射的に接待をしていた潤は、なかなか注文の決まらない客の顔を見て凍り付いた。

「ええええ!!跡部先輩!」
「よお」

思わず素っ頓狂な声を上げる。幸いながら、あげた悲鳴は喧しく鳴り響くクラブミュージックに消された。カウンターに肘を突いてこちらを愉快そうに見ていた跡部は潤の反応を見て満足げにニヤリと笑った。

「え、な、な!なんで!?」
「なんでとは何だ、俺様がここに来るのは自由だろ?」
「だって、だって、ここでバイトしてるとは言わなかったのに!?」
「はっ、俺様にはなんでもお見通しだぜ」
「ええ、えええっ、うそー!」

潤は思わず手から滑らせそうになったグラスを慌てて持ち直した。頭が真っ白だった。

「そそうだすみませんどなたかとお間違えではないでしょうか?あはは」
「何だ今更」
「私はここの店員のルーシーです。そうルーシーなんです!」
「ごまかせてねえぞ」
「おい、なにをぼさっとして……ああ!?」
「なんだ、いきなり……アーン!?」

背後から不機嫌そうな亜久津の声が聞こえ、潤は肩をぐいっとひっぱられた。つい手を止めてしまったことを怒られるのかと思ったが、亜久津は跡部の顔を見るや否や固まってしまった。見れば、跡部も目を見開いている。
亜久津はふと顔をしかめた。

「……跡部か」
「山吹の亜久津。久しぶりじゃねえか」

潤は目を瞬かせた。また既視感だ。しかも、今度も千石がらみだった。初めて千石をここへ連れてきたときの亜久津とのやりとりをありありと思い出す。シチュエーションが実によく似ている。ただし、跡部は千石ほど亜久津とは仲良くはなさそうに見えた。
そういえば亜久津は千石と中学時代のテニス部の仲間だったらしいな、と潤は思い出した。そして、千石と幸村は中学テニスの知り合いで、幸村と跡部も中学テニスの知り合いで、跡部と亜久津も知り合いである。と、いうことは。

「も、もしかして亜久津さんと跡部先輩ってテニスつながりですか?」
「ああ、そうだ」
「チッ」

返事を聞いて愕然とする。なぜだ。なぜだか、中学時代にテニスをしていたという人と出会うことが多い。特に幸村と同世代のテニスプレイヤーが。テニス部の引力の強さ、恐るべし、である。
潤は恐る恐る尋ねた。

「も、もしかしなくても幸村や千石さんと同い年でみんな知り合いだったり?」
「千石清純か?潤、お前知り合いなのか」
「はい、実はそうなんです」
「どういう関係だ」
「え。えーと」

突然、近くからガタッと音がした。振り向けば亜久津がカウンターの奥をのぞき込んで舌打ちをしている。カウンターがL字型になっているせいで亜久津がいるあたりの様子はここからは見えない。潤は酒瓶でも倒れたかと駆け寄ろうとしたが途中で亜久津に押しとどめられた。亜久津は跡部の隣の席を指さしてぶっきらぼうに言う。

「大したことじゃねえ。白岩、休憩にしろ」
「あ、すみません大丈夫です。跡部先輩との話なら後で──」
「うるせえ、テメエは休憩だ。少しだぞ」
「……ありがとうございます」
「ハッ」

もともと仕事中に休憩を入れる決まりになっていたとはいえ、亜久津の心遣いがありがたい。潤は嬉しくなって笑ったが、当の亜久津はジロリとこちらを睨んだだけで仕事に戻っていった。
潤はエプロンを外してカウンターをぐるっと周り、跡部の左隣に座る。と、跡部はカウンターに右肘をついてのぞき込むように潤に詰め寄った。

「それで?」
「え?」
「千石の話だ。まさか付きまとわれてるって話じゃねえだろうな」

跡部の大げさな物言いに潤は思わず吹き出した。跡部といい幸村といい、亜久津といい、千石に対する評価がひどい。確かに千石には女好きの風体があるが実際はなかなかに誠実な男だ。にもかかわらずチャラいと思われているあたり、千石は言動で損しているように潤には思えた。

「まさか。むしろ以前、千石さんに助けてもらったんです」
「本当か?それならいいが」
「それより、跡部先輩!その、内緒にしていただけませんか。ここでバイトしてるってこと」
「ああ、心配するな。前に約束した通り秘密にしてやる」
「お願いします。幸村には特に絶対知られたくない」
「フッ、二人だけの秘密か。悪くねえな」

そのとたん、カウンターの向こう側で作業をしていた亜久津が口を開いた。無関心そうに見えてしっかり話を聞いていたのか、亜久津は鼻で笑った。

「ハッ。二人だけもなにも千石だって知ってるじゃねえか」
「なんだと!?潤、どういうことだ。千石に助けてもらったってもしやこの店でナンパでもされ」
「違!い、ます!むしろ私が千石さんをここに連れてきたんです」
「どういう関係だ?」

跡部の詰問と疑わしそうな目線に潤はあっさりと降参した。内緒にしてくれと頼まなかったとはいえ、タイミング良くばらした亜久津が恨めしい。潤は跡部に説明しながら亜久津をじっとりと睨んだが、亜久津はスルーして終わりだった。

「というわけで、千石さんとはお友達なんです」
「それならいいが。変なことされそうになったら叫べよ」
「大丈夫ですって」
「ほらよ」
「あら、そういえば注文忘れてましたね」

亜久津は乱暴にグラスを二つカウンターに置くと、潤と跡部の方へ滑らせてきた。それぞれにドロッとした赤い液体が注がれている。どうやら気を利かせて飲み物を選んでくれたらしい。
潤は喜んでそれを受け取ったが、一方の跡部は微妙な顔でしばしグラスを見つめてから亜久津の方へ振り向いた。

「おい亜久津、これは何だ」
「トマトジュースだ。なんだ、文句あんのか」
「酒じゃねえのか」
「てめえらみてえなユルいやつにはジュースがお似合いだ」
「あ、おいしい。やっぱり搾りたてはいいですね」

跡部は舌打ちをするとしぶしぶといった風に一口トマトジュースを呑んだ。そして渋い顔のまま、ぽつりとつぶやいた。

「確かにここの客層に比べれば潤は『ユルい』。世間知らずとまでは言わねえが、危険なもの荒れたものに触れないように育てられてきたのには違いねえからな」
「跡部先輩も『ユルい』に含まれてましたよ」
「うるせえ。ともかく、亜久津の言うことは一理ある。お前、なんでよりにもよってこんなとこでバイトしようと思ったんだ」
「む、こんなところとは失礼な」
「侮辱してるわけじゃねえよ。だが、潤が生きる世界とは毛色が違いすぎる」
「まあ、そうですね」

潤はトマトジュースを飲みながら椅子を回転させてカウンターにもたれかかった。今日も露出の多い服を着た女性が腰をくねらせて踊っている。確かに、別世界だ。

「ここで働こうと思ったのは、私が自然でいられて、『白岩』の名前が通用しなくて、そして何より、ここが好きだって胸を張って言えるからです」

激しいクラブミュージック、目がチカチカするようなライト、闇にも光にもひしめく人、人、人。ここでもっとも価値があるのは欲であり、刺激的な快楽であって、安心や堅実さなど誰も求めてはいない。クイーンビー・クラブへ来る客の多くは潤の存在に目もとめず、気にもせず、だからこそ潤は自由でいることができる。
跡部は椅子を回転させると潤と同じ方向を眺め、黙ってグラスを傾けて続きを促した。

「アトベランドで言いましたよね、自分は何が好きなのか、何がしたいのか分からないって。アルバイトをすると決めたとき自分なりに考えてみたんですけれど、どう考えてみても、どこで何をすればいいのか、『正解』が分からなくて。だから、まずはとにかく働いてみようと思ったんです。クイーンビー・クラブなら大丈夫だろう、このお店なら、周りに押しつけられたわけじゃなくて、ただ私が好きなお店なんだって言えるからって」

白岩社長に連れられてパーティーに出れば、潤はまばゆい光の中にいなければならなくなる。白岩の名前が通じるところでは否応なしに光が当てられる。だがここでなら、闇の中で静かに息をすることができるのだ。

「羨ましいんです。嫉妬しているのかもしれません。父や、跡部先輩や……幸村に。近くにいるのに届かない。能力が高くてエネルギッシュで、ちっとも近づけない、どうやって近づいたらいいかもわからない」
「そんなことはねえよ」
「いいえ。私は凡庸で、情熱的でもなくて。でも凡庸でもせめて、自分の意思を貫けるように、自分の足で立てるようになりたくて。跡部先輩みたいに最前線を疾走することはできないかもしれないけれど、せめてしっかり立っていたいって。だからまずは自分でできることを探して、好きなものを探して、ちょっとずつでも前に進めたらいいなと思うんです。……まあ、ここでのアルバイトもマスターや亜久津さんのご好意で働かせてもらってるみたいなものですし、大したことはできていませんけれど」

冷えたトマトジュースが喉に優しい。亜久津は憎まれ口を叩いたが、潤はそれが亜久津の気遣いであることを分かっていた。酒を飲み過ぎるなと常々亜久津から口酸っぱく言われていたのだ。さして飲まないというのに。
隣を見ると、いつの間にか跡部は潤の方を真っ直ぐに見ていた。真っ直ぐに潤の目を見て、そのままふと笑った。

「俺は、そういうお前が好きだぜ」

大きな声ではない、すぐに店内に鳴り響く音楽にかき消されるような声だったのに、それはしっかりと潤の耳に届き、すとんと胸まで落ちてきた。そして、じわじわと熱を発する。
これは、跡部の本心だ。直感的に潤はそう思った。今まで聞いた跡部のどの言葉よりも、真っ直ぐで、本心を映した言葉。

「アーン!?ど、どうした」
「すみません、なんでか分からないんですけど」

潤は震える声を押さえて目を押さえた。涙が溢れてくる。嬉しいのか、切ないのか、胸の奥まで響いた跡部の言葉が熱になってこみ上げてくる。
ガタッと椅子の音がして、潤はうつむいたまま跡部に抱きしめられた。いつもの、跡部の香り。ぽんぽんと背中をたたかれ、ゆっくりと髪をなでられる。潤はまるで保護された迷子のような気分になって、その安心感にますます涙が出てくる。

「……とべ先輩、ごめんなさい。この前のこと」
「何の話だ」
「パーティーで、勝手に、壁を感じてしまって。格差があるなんて言ってしまって。私が情けないだけなのに勝手に劣等感を感じて、突き放すみたいなこと言ってしまって。能力に差があるってだけで、本当は近くにいるのに」

跡部は息をつくように笑うと、ぎゅっと潤を抱きしめ直した。

「知ってたか、潤。俺たちはずっと前に、潤が子供の頃に既に出会ってたんだぜ」

潤ははっと息をのんで、思わず顔をあげた。跡部は苦笑して潤の涙を指先で拭った。

「やっぱり覚えてねえか。無理もねえな」
「え……、え?」

潤が驚きのあまり目を白黒させていると、後ろから亜久津の声が飛んできた。

「おい、てめえらイチャついてねえでさっさと帰れ」
「ああっ!すみません、すぐ仕事に戻」
「ジン、もう少しわかりやすく言えよなあ。潤、今日はもうあがっていいぜ」
「でも」
「時間も遅くなっちまったし、ここんとこ残業させちまってるからなあ」
「すみません、マスター、亜久津さん。ありがとうございます」
「ほらよ」

マスターと亜久津に頭を下げると、亜久津は紺色のハンカチを差し出してきた。かすかにシトラス系の香りがする。

「使え。千石からだ」
「え、千石さん!?いまいらっしゃるんですか」
「……いや。ただ、使うように言って渡せと頼まれただけだ。ったく面倒なことさせやがって」
「そうですか……ありがとうございます。千石さんにも後でお礼を言っておきます」

潤がハンカチを受け取ってにっこりと笑うと、亜久津は顔をしかめてしっしっと手で潤を追い払った。


(20150420)

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