カモマイルの悪魔 | ナノ


大学から帰った潤が三和土でパンプスを脱いでいると、廊下の奥からひょっこりと頭が突き出した。窓から差し込む夕日に染まってなお赤い髪の持ち主。赤髪の隣には綾希がいて、潤を認めると玄関へ走り寄ってきた。

「おかえりなさいませ、潤様」
「お嬢、おかえり!おじゃましてるぜ」
「ただいま。丸井さんじゃないですか!帰国してたんですか」
「おう、昨日戻ったんだ。南フランスを回ったんだが刺激的でさ!新しいケーキのアイデアが沸いてどうにも試したくなっちまった」

丸井の大きな目は輝き、少年のように生き生きとしている。相変わらずお菓子づくりに情熱を注いでいるその様子に潤は微笑んだ。前よりも日に焼けた丸井は相変わらず真っ直ぐで、その姿がうらやましくも嬉しい。
潤は綾希に鞄を預けると丸井に並んでキッチンへ向かった。

「今は何を作っているんですか?」
「カヌレ風のケーキ。うまくいくかはわかんねーけど、たぶん大丈夫だろ」

キッチンには夏の外気よりもはるかに強烈な熱気がただよい、その中をチョコレートのような甘い香りが満ちていた。オーブンを覗けば円い型に入った濃い色の生地が膨らみつつある。潤が思わずごくりとのどをならすと丸井はおかしそうに笑った。

「後で試食しろよな!今日、夏学期の課題ぜんぶ終わったんだろ?その祝いにでも」
「泉さんに聞いたんですね。そうなんですよ、さっき最後のレポートを提出してきたんです。今回は締め切りよりずっと早く終わって!ようやくスッキリしました」
「へえ、お嬢ずいぶん気合い入ってんな」
「気合い、と、いいますか」

潤は言葉を濁した。レポートが早期に仕上がったのは、気合いを入れたからというよりも現実逃避で課題に向き合っていたからだった。なにせ潤の現実には跡部が迫っている。迫っているという表現が適切だった。政治パーティーののち、以前にもさらにさらに増して贈り物が届き、誘いの連絡が来る。「跡部先輩はお忙しいでしょう」と断れば「おまえのために裂く時間は惜しくねえ」とキザな台詞を返される。白岩社長にも「遠慮しないでデートに行きなさい」と言われ、まさかの美波にも「また跡部さんと遊びに行ったら?」と勧められる。

跡部に呑まれていた。気がつかぬうちに。

潤がなんと説明しようかと口ごもっていると、当の丸井はからかうようにニヤニヤと笑い始めた。

「ほう。もしかして跡部か?」
「え、なぜわかったんですか」
「仁王から聞いた。跡部と一緒にいる時間を増やすために課題を終わらせるなんて、一途だなあ?」
「は?」

潤は頭が真っ白になった。丸井の言葉が理解できない。なんと言った。跡部と。一緒にいる時間。増やすために。課題を。

「なんだよ、今更照れんなよ」
「え、ええ、え」
「もしや跡部とつきあってるって話は内緒だったのか?悪ぃ悪ぃ。おわびにウェデングケーキでも出席者に配る菓子でも作ってやるからさ」
「ウェディングケーキ!?なんで!?」
「結婚寸前なんだろ」
「違います!」
「そこまで知られたくなかったことだったのかよ」
「違いますって!」
「じゃあ」
「違いますってば!跡部先輩と何ですって?」
「結婚するんだろ?」

潤が否定しようと声をあげる前に、タイミング悪く潤がキッチンへ入ってきた。綾希にも丸井の言葉は聞こえていたらしく、血相を変えてこちらへ詰め寄ってきた。

「そこまでお話が進んでいたのですか!?いつのことです?」
「え、ちょっ、待って」
「本当ですか!?潤様のいう跡部先輩って、跡部景吾様のことですね?」
「そうじゃなくて、そうだけど、でも」
「どういうことなんです、詳しくお願いします!」
「違」
「なんだよ、泉さんにも内緒だったのか。結婚するんだってよ」
「いつ決まったんです!?」
「待っ」
「さあ?俺にはわかんね」
「潤様、私にも詳しいお話を」
「結婚しないってばー!」

潤が思い切り叫ぶと、潤を挟むようにして喧しく騒いでいた丸井と綾希はようやくぴたりと動きを止めた。キッチンに響く叫び声がむなしく宙に消えていく。静かになったそこに響くのはただオーブンが回る音と空調機の音だけになった。
仁王さんめ!潤が心の中で毒づいている間に、二人は顔を見合わせた。どうやら勘違いに気がついたようだった。

「結婚するんじゃねえの?」
「しません」
「あの、景吾様とおつき合いは」
「していません」

潤がきっぱり否定すると二人は再び顔を見合わせた。
困惑している二人のために潤が仕方なく跡部との関係を説明すると、丸井はあからさまにがっかりした顔になり、綾希は目を丸くした。

「違うのかよ!なんだよがっかりだぜ」
「がっかりって、なんでですか」
「だってよ、なんつってもあの跡部の結婚式だぜ?どんなうまいもんが出るのか楽しみにもなるじゃねえか」
「やっぱりそこですか」

がっかりした丸井とがっくり脱力した潤がぼそぼそと言葉を交わしているとをしていると、窓の外からプオーという間抜けな豆腐売りの笛の音が聞こえてきた。うだるようなキッチンの暑さに加えて、ますます力が抜ける。
緊迫感が抜けて弛緩しきったキッチンに、いやに落ち着いた声が響いた。

「そういうことでしたか」

見れば綾希が軽く目を伏せて真剣な表情をしていた。優しく微笑んでいるようにも見える。
今度は潤と丸井が顔を見合わせる番だった。綾希は顔をあげて潤を見つめ、しみじみと言う。

「本気なんですね。景吾様は」
「そんなことないよ」
「あら、潤様からは本気は思えないということですか」
「うん……」

潤は眉をひそめて言い淀んだ。まっすぐな綾希の視線から逃げるように目をそらす。跡部と出会って数ヶ月が経った。話をたくさんした。一緒に出かけた。跡部は積極的だし潤の周囲も乗り気だ。それでもなお、釈然としない。
丸井は潤を見て頭を傾げた。

「ご存じの通り景吾様のことはよく存じておりますが、これほど女性に熱心にアプローチなさる景吾様は……今まで見たことがございません」
「そう、なの?」
「潤様は景吾様のことがお嫌いですか?」
「ううん。どちらかといえば好き。でも、なんか好かれてるって言われても信じられないというか」
「跡部が派手すぎるからじゃねえ?あんな目立つやつに好きって言われてもそりゃ普通は信じらんねーだろ」
「あ」
「あんなド派手なやつがいるってだけでも嘘みたいなのによ」
「なるほど」

潤は丸井の言葉に唸った。そう考えたことはなかったが、的を得ているようにも思えた。
ハンサムな御曹司に気に入られるというだけでもどこの少女漫画かという展開なのに、跡部は更に頭よし、運動神経よし、性格は……やや変わっているがよしと「完璧」だったのだ。そんな男に取り柄もなにもない自分が好かれているなどとても信じられない。気に入られるような言動をとった覚えもない。

「その通りかもしれません。私が美波みたいな見た目だったのならともかく、なぜだろうって思ってしまって。そしたら、些細な跡部先輩の態度も気になってしまって」
「些細な、とはどのような?」
「たまにどこか違うところを見てるような感じだったり、妙に悲しそうに見えたりするのよ」
「お嬢、気にしすぎ。俺だって彼女と一緒にいるときに力作のケーキが不味かったことを思い出して悲しくなったりするからな」
「そ、そうですか」

よほど悲しい思い出だったのか、丸井はしみじみと言うと大きくため息をついて肩を落とした。
綾希はクスッと笑うと、顔を上げて潤に向き直った。

「いい人ですよ、景吾様は」
「うん、そうなんだけどね」
「潤様は、景吾様の好意をわざと重く受け止めないようになさっているのですか?」

潤は息を呑んだ。
無意識だった。しかし図星だ。
跡部のことで頭を悩ませていたのは事実だが、跡部から向けられる好意が本物だとは思えなくて、思いたくなくて、向き合わないようにしていた。
綾希の真っ直ぐな目が心に刺さった。

「真剣に受け止めてみてもいいかもしれませんよ」
「ええ、そうね……」

思考が空回る。潤は自分がじわじわと焦ってきているのを感じた。まるで外堀から埋められているような恐怖感。潤に跡部とのつき合いを勧めてこないのは幸村くらいだった。
けれどもそれは幸村が潤の気持ちを知って慮っているからではない。幸村には幸村の事情があって、そうしないだけだ。

──幸村は本当に忠実なのか?

跡部の言葉が蘇る。

幸村は何かをたくらんでいて、跡部先輩と私が仲良くなるのを阻害している、とか?

潤は慌てて頭を振って嫌な考えを追い払った。そんなはずはない。

「跡部先輩って嵐みたいよ。悪夢も吹き飛ばすくらい強烈な、ね」
「悪夢だあ?」
「ああ、丸井さんには言ってなかったっけ。私、子供のころからよく同じ悪夢を見るんですよ。でも跡部先輩の影響でその悪夢見なくなって」
「へえ、よかったじゃん」
「でも、代わりにもっとすごい夢を見るようになっちゃって。跡部先輩がヘリから大量のバラの花びらを撒いてこのあたりがフローラルになりすぎる夢とか、跡部先輩からの贈り物で物理的にうちの全部屋が埋まって住めなくなる夢とか」
「……お嬢、それは悪夢っていうんだぜ」
「ですよね!」
「すげーな跡部、ねらった女を追いつめてやがる。物理的に」
「やめてください」

悪夢を食べる獏は跡部先輩だったのかもしれない。
潤は一瞬そうも思ったが、実際のところは毒を以て毒を制す、跡部の悪夢を以て幸村の悪夢を制しただけである。
綾希は潤と丸井のやりとりにクスッと笑うと、にっこりと歯を見せて笑った。

「私、潤様なら景吾様を理解できるのではないかとも思うのです」
「理解?」
「ええ。裕福で、恵まれていて、そして人の上に立つ……そんな人間の孤独を」

潤は返事に詰まった。孤独。それは常々感じていることだった。人の上に立っているわけではないが自分も感じることがあったし、跡部が孤独に見えることもあった。寂しそうな目をすることがあることも。

「大勢に囲まれているからこそ孤独で。でもそれを埋められるのもまた人なのでしょう。特に、潤様のような景吾様と近い立場の人が」

育ち、生活環境、資産、人間関係、さまざまな「差」が積もりに積もって普通の人と彼との間に壁を作るのだと、そう綾希は言う。
優しく語りかける綾希の言葉に黙って耳を傾けている間に、綾希は先日のパーティーで跡部に「差がある」と言ってしまったことを思い出した。そして、それを聞いた跡部が眉をひそめたことも。

「謝らなきゃなあ」
「潤様?」
「ん、なんでもない」

何気ない言葉が、鋭いナイフになってしまうこともある。


(20150404)

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