カモマイルの悪魔 | ナノ


わらわらと周りが立ち上がって移動するのに合わせて、潤と千石はお店から出た。合コンが始まったときにまだ明るかった空はすっかり暗くなっていた。繁華街にはあちこち明かりが灯っていて、暖色の電球は店々のメニューを照らし巨大な赤提灯はあわい光を放っている。潤はほっと安堵のため息をついた。思いのほか楽しい時間が過ごせた。恋人を探す男の子にがっついてこられるのが嫌で恋愛事はわざわざ避けていたけれど、こういう出会いなら楽しいものだ。
しかし、千石に言われるままメアドを交換しようと携帯を出したところで、事件は起きた。

「ねえ、もしかして白岩さんって白岩カンパニーのお嬢さん?」

ぎくりとして振り返ると、幹事をやっていた男の子が興味津々といった面持ちでこちらに近づいてきた。潤はにこりと笑いながら、心の中に苦いものが広がるのを感じていた。なんでばれたんだろう、知られていないと思ったのに。自分が白岩家の者であることは事実で、それを誇りに思うことはあれど疎むことはなかった。でも、それでも、周りの目が息苦しく感じることも多い。嫌いじゃない、でも、負担になっていないとは言えない。だからプライベートの場ではあまり白岩家の話をしたくなかった。ちらっと横目で見ると千石は目を見開いていた。

「そうなんです、実は」
「氷帝に白岩社長の次女がいるって噂だったからさ!いやー君だったんだ。ねね、メアド交換しない?」

幹事が喋るにつれ、周りの目が自分に集まるのを潤は感じた。さっきまではろくに見向きもされなかったのに、会社の名前が出たとたんこれだ。仕方がない。だって私はこんなにも普通で、特別可愛いわけでも積極的に交流するでもない。その一方で会社は社会人なら誰でも知っているくらいに有名なのだから。
幹事の男の子が携帯を出すと、他の社会人らしき男性メンバーもわらわらと近寄ってきた。メアドが知りたいのだ。白岩社長の娘だから。一か八かでもコネクションを作っておきたいのだ。潤が、白岩社長の娘だから。交換、したくない。たとえこの男たちが私に不愉快な思いをさせなかったとしても、プライベートに打算や計算で出来た人間関係を持ち込みたくなかった。純粋な友人だけでいたかった。でもそれも、もう無理なのだろうか。
潤は微笑んだまま無言で携帯を握りしめた。なんと答えようか。何も言わない潤にいぶかしげな顔をして、一人の男が携帯を差し出してくる。妙な空気が流れる。心配そうにこちらを見ていた美波が「ちょっと!」と食ってかかろうとした、その時だった。

「ダメだよ、潤ちゃんはこれから俺とデートなの。手を出さないでくれる?」

軽い調子で言い放った千石は潤と男の間に割って入った。さりげなく肩に手を置いてきた彼の方を見ると、彼は潤にぱちっとウインクした。こちらへ寄ってきた美波が耳元で囁いた。

「やるじゃん!じゃあ二次会は行かないってことでオーケー?」
「助けてくれただけだよ、千石さん。でも私はもう帰る」
「私も帰ろうか?」
「ううん、大丈夫」

千石は幹事に「俺ももう帰るねーありがとう、お疲れ様でした」と声をかけて、美波の方を向いた。

「そうそう、大丈夫。潤ちゃんはちゃんと俺が送っていくからね」
「送り狼は辞めてくださいよ」
「大丈夫だって、俺そんなことしないよ」
「ホントですか?」
「あっ何その疑わしそうな目!そんなにチャラそうに見える?俺傷ついちゃう!」
「見えます。……でも、よろしくお願いします。潤、じゃあまた明日」
「うん。美波、ありがと」

さっきのメンバーの中でまだこちらをちらちら見ている人がいる。千石に背中を押されて、潤はきびすを返した。そのまましばらく黙って繁華街の中を歩く。空気が重い。千石は何も言わない。白岩社長の娘なのか、とも、会社の話も何も聞かれない。その態度に安心はしたけれど、何を考えているのだろうかとも思う。案外平凡だったと思っているのか、それとも。
潤は握りしめていた携帯を鞄に放り込んだ。もう周囲からの視線は感じない。人混みに埋没してしまえば気安いものだ。自分で目立つのは肩書きだけで、それを知らない人の間に紛れ込めば私はただの若い女だ。

「千石さん、ありがとうございます。二次会、行かなくて良かったんですか」
「もちろん、だって君と会えたんだから二次会なんて行く必要ないよ」
「もう、真剣に聞いてるのに」
「俺は真剣だよ!」

潤が吹き出すと、千石も一緒に笑い出した。飲み屋で話したときのような、気安い空気が流れる。大丈夫。たぶん、この人は、大丈夫。コネを狙っているわけでも、私を狙っているだけでもない。ただ気遣いができて女性に優しい人。

「千石さん、人気あるんですね」
「どうして」
「優しいし、それにさっき合コンに来てた女の子に睨まれてズルいって」

何人かが自分と千石が一緒にいるのを見て、ええー、なんでー、と言っているのが聞こえていた。残念そうにしている子、不服そうな顔でこちらを見ている子、興味津々といった面持ちの子。そりゃそうだ。幸村に見慣れているせいで何とも思っていなかったが、千石は垢抜けていて物腰穏やか。見た目よし、性格良し、たぶん仕事も良しと三拍子そろって魅力的だ。そんな彼がよりにもよってこんな凡庸な女と一緒にいるんだから納得できないのも当然だ。

「気がついてたの!?平然としてたから聞こえてなかったのかと思ったのに。まいったな」
「千石さんが気にすることじゃないですよ。それに慣れてますから!」

お金のある実家、父親の名声、美形の執事。妬まれる要素はたくさんあった。全て努力で手に入れお父さんを妬むのはお門違いだけれど、でも何もしていない、ただ偶然白岩社長の娘だっただけの自分が妬まれるのは仕方がない。過剰にもてはやされることにも過剰に嫌われることにも慣れてしまった今となっては、気にするほどのことでもない。
明るくおどけて返事をしたのに、千石はふと眉を顰めた。

「いいんだよ、無理しなくても」
「大丈夫ですよ」

優しい言葉が心に刺さる。優しいはずなのにがりがりと心臓をひっかいて鋭い痛みを残していく。ささくれた皮膚に染みる良薬のようなものなのだろうか。
潤は苦笑して千石から顔をそらした。無理するな、頑張りすぎるなと言ってくれる人は多い。家族しかり、友人しかり。私は周りの人間関係にも恵まれている。でもその言葉に甘えてばかりもいられないのが現実だ。お父さんの会社が勢いづくのと同時に、身の回りを取り巻く物事が濁流のように激しく変化していった。褒め言葉に一々喜んでもいられない、悪口に一々傷ついてもいられない。白岩の名前は、重い。簡単に捨てられるものでも捨てていいものでもない。仕方のないことなのだ。全ては幸運、富や名声、権力と引き替えに。

「ホントですってば。別に修羅場に巻き込まれたことなんてない、で、すし」
「なんだいその妙な間は」
「イエその、巻き込まれたことはあるんですが」
「やっぱり君なりの苦労があるんだろう?」

その場の空気を変えようとしてつい、余計なことまで口走った。そうじゃない。物わかりよく真剣な顔で心配してくれる千石に申し訳なく思い、潤はますます焦った。

「会社のせいというよりも祖父のせいで」
「おじいさん?」
「会社が大きくなるずっと前のことだったんですが、祖父が浮気性で」
「ま、まさか女性絡みの修羅場?」

潤が勢い良く肯定すると、千石はしみじみと何度もうなづいた。そして潤の前に回り込んで立ち止まるとぽんぽんと頭を撫でた。頭を撫でられるのは久しぶりだ。昔は、小さいころは、よく幸村に撫でてもらっていた。それはいつも私を落ち着かせる行為で、でもいつの間にか――

「千石さん?」
「なるほどね、だから年の割りに落ち着いてるんだ。大学2年生だって聞いてびっくりしたもん、俺。お嬢様は大変なんだね」
「祖父の修羅場の件はお嬢様関係ないですよ」
「そうだけど」
「千石さんは女性には気をつけてくださいね」
「うっ、俺は結構一途で」

またふざけた空気が戻ってきた。これなら、大丈夫。潤と千石が顔を見合わせて笑った、そのときだった。


話の途中で突然どん、と衝撃が走って潤はよろめいた。後ろに押しのけられた潤と千石の間に男が割り込んできた。千石は眉をつり上げて男に食ってかかった。

「何をするんだ、邪魔な」

ふわり、男の髪が黒い影をなしている肩のあたりに流れた。ゆるやかにウェーブした漆黒の髪。後ろ姿でも分かる引き締まった体躯、きっちり着こなされた黒いスーツ。一拍遅れてスーツから漂ってくる、覚えのある香り。

男は、地の底から響くようなすごみのある声で言い放った。







「うちのお嬢様に、何のご用でしょう」







幸村。

幸村はまっすぐ伸ばした背を潤に向けて、まるで千石からかばうかのように仁王立ちしている。なんでここに、どうして。遊びに行くとは行ったが合コンに行くだなんて一言も言ってない。幸村にも、河西にも。
千石が、首をかしげた。

「あれ?」

潤は幸村の腕にしがみついて引っ張った。千石さんは悪い人じゃない、それどころか私を助けてくれたんだ。それなのに、どうしてこんな。

「やめて、幸村!千石さんは私を助けてくれたの!」
「千石?」

妙な沈黙が落ちた。潤は幸村と千石を交互に見た。いかにも掴みかかりそうだった二人は立ちすくんでいる。幸村はいぶかしげな顔をして、千石は驚いたような顔をしてお互いの顔を凝視して。

「山吹の千石か?」
「えーと、もしかしなくても立海の幸村くん?」

知り合いだったのだろうか。すごく仲が悪かったとか喧嘩相手だったということはない、よねまさか。不安になった潤が千石に視線を投げると、彼はふにゃりと力が抜けたように笑って「古い知り合いなんだ」と言った。


(20121225)

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