カモマイルの悪魔 | ナノ


とっさに思い浮かんだのは口を尖らせて軽口を叩く千石だった。屈託のなく笑い、かと思えば唇をへの字に曲げて肩をすくめてみせ、しかしまたたちまち笑顔になる人。気遣いができる上に表情豊かで明るい彼はきっと周りからも好かれているに……。

現実逃避していた潤は、ぐいっと幸村に右の二の腕を引き寄せられて我に返った。返りたくなかったがそうも言っていられない。こういうシチュエーションに覚えがあった。そう、千石と幸村が対峙した、あの時。だが今は『観客』がいる分、状況はなお悪い。
幸村は潤をしっかり掴んだまま笑顔が怖い。潤の左手を握りたぐり寄せようとする跡部は挑戦的な微笑みを浮かべている。周囲の人々は円になって三人を囲み、囁き、噂し、ざわめいている。頼みの綱だった白岩社長と党首の姿は既に見えなくなっていた。飄々と「もちろんどうぞ、景吾くん」と言うだけ言って去っていった白岩社長が恨めしい。

「何だ、幸村。不満か?」
「ええもちろん」
「俺様はお前には用はねえよ」
「それで?」

幸村と跡部は穏やかな口調でやりとりしているのに、客観的には罵り合っているようにしか見えなかった。観客は二人の様子に沈黙し、次いで大きくどよめく。

どういうことだ。
あの娘と跡部さんの関係は。
いや、それよりもあの三人。
三角関係?

言葉が耳に入った瞬間、かあっと顔に血がのぼる。違います!と叫べないのがもどかしい。幸村と跡部が口げんかをするのは潤を取り合ってのことではなく単に仲が悪いからだが、観客はそれを知らない。彼らが知っているのは、二人が潤を引っ張り合っているというこの事実だけだ。
潤は息を吸い込んだ。このままでは羞恥のあまり涙目になりそうだった。そうなれば余計に「三角関係」に見えかねない。穴があったら埋まっていたいが、ここでは自力でどうにかするしかない。

「あの」
「アーン?」
「いかがなさいました」

潤は二人の舌戦がとぎれた瞬間を見計らって声を上げた。幸村と跡部、そして観客の視線が集中してきて一瞬ひるむ。だが負けてはいられない。自分のためだ。潤はお腹に力を入れ精一杯の猫なで声を発した。

「向こうの、静かなところでお話しませんこと?」

再び周囲がどよめく。何かを口々に言っているようだったが、潤は緊張のあまりもはやよく聞こえなかった。
跡部は眉を上げ、幸村は掴んだ潤の右腕を軽く引っ張った。

「では、参りましょう」
「おい。チッ、まあいい」

提案は成功した。潤は幸村にひっぱられるままきびすを返し、跡部を促す。三人が環状になっていた観客に近づくとさっと人波が割れて道ができた。その間をわざとゆっくりと、上品に歩いていく。そうでもしないと走り出してしまいそうだった。大勢の視線にさらされることには慣れたものだが、そこに「恋愛」が絡むとなると話は別だ。


***


一番小さな控え室に入ったとたん、幸村は笑みを消して不機嫌さを露わにした。反対に跡部はニヤニヤと笑い始めた。バタンと扉が閉まる音を皮切りに、再び二人は言い争い始めた。初めて潤と跡部が会ったあのパーティーの時よりも激しく言葉が飛び交っている。

「恋路の邪魔をするやつは馬に蹴られろって言うんだぜ」
「蹴れるものなら蹴ってみなよ」
「ちゃあんと白岩社長に許可は得ただろうが」
「だから?」
「お前に口出されるいわれはねえ」
「社長が許可するかどうかと俺がどうするかは別問題だろ」
「ほー。社長の判断を信用しねえってか」
「信用していないのは跡部のことだ。念には念を入れないとな」

跡部はむっとした顔になった。徐々に、二人の目が険しくなっていく。
潤は二人を止めようと口を開き、だが息つく暇もなく繰り広げられる舌戦に口を挟むタイミングが測れず、あえなく再び口を閉じた。それを三回繰り返したところで潤は諦めた。無理だ。

「俺たちの邪魔をする気か?アーン」
「俺たち?跡部一人の間違いだね」
「ハッ。野暮なことをするぜ」
「俺がいたら困るようなことでもする気か?」
「恋人同士の会話は他人に聞かれたくねえだろ?」
「勝手に恋人のつもりだとはご愁傷様だな」
「ふん、認めたくねえのか?主の娘の色恋沙汰にまで口を出すとはずいぶん過保護なもんだ」

恋人同士?
潤は口から心臓が飛び出そうな気分になった。跡部がなにを考えているのかますます分からなくなる。幸村が跡部の言葉を信じていないのがせめてもの救いだった。

「温室育ちの蘭のようなものなのでね」
「可愛い子には旅をさせろと言うだろうが」
「旅をさせて致命傷を負ったら意味ないだろ?」
「俺様が潤にそんなことをするとでも?」
「そうだ」
「どこまで疑り深いんだ、てめえはよ」

跡部は眉間に皺を寄せて傍らのソファにどっかりと腰を下ろすと深々と息を吐いた。一瞬会話が途切れる。ようやくチャンスだ!潤はその隙を逃さず急いで口を開いた。

「跡部先輩!と、幸村。私、飲み物取ってきますね」
「……お嬢様。気が回らず失礼いたしました、私が参ります」

幸村は不機嫌丸出しのまま言葉を整えて、一歩踏み出そうとした潤を押しとどめた。じろりと跡部を睨んで「すぐに戻る。何もするなよ」と念を押すと、足早に控え室から姿を消した。
控え室の扉が閉まると、沈黙が訪れた。跡部はソファの肘掛けにもたれてまっすぐこちらを見つめてくる。潤は居心地が悪くなって、時計を見るふりをして跡部から目をそらした。言い争いをされるのも困るが、これもまた困る。
チッチッチッと丸い壁掛け時計の秒針が音を立てる。控え室の扉の隙間からは、会場のざわめき小さく聞こえてきた。

「ようやく二人になれたな」
「ええと」

まるで本当に恋人同士であるかのような跡部の台詞に潤は困惑した。跡部は冗談を言っている風でもなく、どう反応したらいいものかと返事に詰まった。
だが跡部はそんな潤を気に止めるでもなく、いつもの調子で話し続ける。

「にしても、幸村は過干渉すぎる。潤もイヤになんじゃねえのか」
「正直うるさく感じますが、私を思ってのことだと思いますので」
「は、どうかな」

フンと鼻で笑った跡部に潤は目を丸くした。
跡部はソファの背もたれに身を委ねると、足を組んで尊大にあごを上げた。

「お嬢様を守るにしても、いくらなんでもやりすぎだ。俺様は白岩社長にも認められているのになぜ幸村はそれを受け入れようとしない?あいつが何を考えているか潤には分かるか?」

潤はギクリとした。胸の奥が不穏に揺らめく。確かに内心では潤もそう思っていた。幸村が何を考えているのかわからないと思う一方で、でも幸村は白岩社長には忠実なのだから執事としてお嬢様を守るために厳しく振る舞っているのだろうと自分を納得させていた。
でも、本当に?

「幸村は俺様を信用していないと言ったがそれにしても対応が極端だ。あんな態度を続ければどんな良縁でもぶち壊れるぜ」

跡部の言葉は見ないようにしてきた問題を潤に突きつけているようだった。潤は幸村のことは嫌いだったが彼の執事としての職務については信用していた。しかしその一方で、幸村の行動の不可解さに対する不信感は確かに蓄積していた。過度な干渉、愛しているという言葉、メイドに対する態度。幸村のやり方に慣れたところで疑問は残る。

「俺が潤と親しくなると『都合が悪い』ことでもあんのか、それとも。幸村は本当に社長に『忠実』なのか?」

潤は喉に乾きを覚えた。ざわめきが体の中で一杯に膨れ上がる。
疑ったこともなかった。だがよく考えたらおかしい気がする。白岩社長に忠実ならわざわざメイドを辞職させるような振る舞いをするだろうか。女好きといえどあの幸村だ、家の外で女遊びをすることくらいわけないだろう。白岩社長に忠実ならわざわざ潤に愛しているなどと嘘をつくだろうか。いくら潤のことを嫌っていたにせよ、幸村がそんな振る舞いをしていたと白岩社長が知れば激怒するだろう。
せずとも良い執事の仕事までわざわざ引き受けておきながら幸村はそんな振る舞いをする。本当は表面で取り繕っているだけで、実は心の中では──……

「忠実、ですよ」

潤はあえて強調して言った。自分に言い聞かせているのかもしれない、と頭のどこかで思う。

「本当か?」
「このパーティーでも私のこと、ずっと守ってくれていましたし」
「守る?ってことはお前、やはり周りからくだらねえこと言われてたのか。そうじゃないかと思ったぜ。頭の固えやつばっかり来ていやがる。何を言われた?」

跡部の鋭い視線に潤は少し言いよどみ、控えめに言葉にした。会場でされたことにいい気分はしないが、跡部に声高に告げ口をするのも嫌な気分だ。

「たいしたことではないです。成り上がりだとか、うちが他の企業を蹴落としたとか」

跡部は一瞬沈黙し、ぐにゃりと唇を曲げた。

「他の企業を蹴落としただと?ふっ、ククッ、ハッハッハッハ!」

跡部は体を揺すって愉快そうに笑った。そこまでおかしなことを言っただろうかと頭を傾げると、跡部は笑いをこらえて前のめりになった。

「ならばそいつらはどうなんだ?そいつらだって、今に至るまでに他を蹴落としてきたんだぜ。だから生き残ってこられたんだろ」
「そういえば、そうですね」
「だろう。それが成功するということだ。……何だ、お前、まさか言われたことを気にしてたのか?気にすんな。栄枯盛衰ってやつだ。跡部財閥だって油断すれば蹴落とされるかもしれねえ」

跡部は優しい目をしていた。
潤はそんな跡部をまじまじと見て、押し黙る。そして自分の小ささを恥じた。勝利があれば敗北もある。ただそれだけのことにショックを受けていただなんて、なんて幼いことか。跡部も白岩社長も他者の敗北の上に自分が立っていることをとっくに知っていて、それを受け入れた上で胸を張って生きているのだろう。甘い部分だけを知って生きてきた自分とは大違いだ、と潤は思った。
それに加えて、潤は跡部の言葉の持つ説得力に驚嘆した。言葉の内容を上回る重みがそこに存在した。まるで王に言われたかのような。

「やっぱり、差がありますね」

思わず潤がつぶやくと、跡部は目を瞬かせた。

「アーン?何のことだ、唐突に」
「ええと、その。私と跡部先輩じゃさすがに格が違うなあって」

跡部はしばらくの沈黙ののち、眉をひそめた。

「……格が違う?」
「ええ」
「どういう意味だ。お前は立場が俺様に近いだろう」
「ええ、まあ、そうなのですが。埋めがたい能力の差を感じるといいますか」

ガチャリと扉が開く音がして、幸村がグラスの乗った小振りのお盆を片手に入室してきた。潤はあわてて口をつぐむ。
幸村は小さな気泡がたくさんついたシャンパングラスを跡部に押しつけると、つかつかと潤に歩み寄った。そして、茶色の液体が入ったグラスを差し出す。

「どうぞ、お茶です」
「ありがとう」

お酒でなくてよかった、と思いつつグラスを受け取った潤は素直にそれを口にした。乾いた喉にお茶が優しい。

「跡部。お嬢様に妙なことを吹き込んでいないだろうな」
「さあな?なぜそんなことを……んんっ!?」

ニヤニヤしながらグラスを傾けた跡部は、飲み物を口に含んだとたんグッと詰まり、口を押さえながらようやっとそれを飲み込んだ。

「ぶっ、……なんだこれは!?ただの炭酸水じゃねえか!」
「決まってるだろ。跡部には水で十分だ。ちょっと手元が狂ってシャンパンが混ざってしまってね、見た目はシャンパンっぽく見えたかもしれないけどね」

手の甲で口を押さえつつ睨む跡部に、幸村はしれっと悪事を暴露した。


(20150308)


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正しくは「馬に蹴られて死んじまえ」なのですが、跡部にそこまで言わせたくなくて省略。

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