カモマイルの悪魔 | ナノ


会場の明かりが再びついたとたん、跡部はわっと人に囲まれた。嬉しそうにはしゃぐ若い女性、興奮した面もちで名刺を差し出す中年の男性、政治家、政治活動家、支援者、一般客。老若男女も身分も問わず彼の周りには様々な人が集まっている。

──あら、あれ。ええ……から、素敵ね。

いつの間にか、先ほど嫌味を言ってきた女性たちが潤たちの近くに寄ってきていた。あの傲慢な態度はどこへやら口々に跡部をほめそやしている。彼女たちの奥には跡部を遠巻きにするように労働組合の幹部たちが立ち尽くしているのも見えた。いかにも堅物という雰囲気の彼らは一様に驚愕し、青ざめ、ひきつっていた。中にはすまし顔の人もいるが平静ではないのだろう、口元に焦りが浮かんでいる。
パーティーの雰囲気はすっかり変わっていた。跡部に呑まれている。まるで跡部がこの場の主役であるかのように。白岩家に対する悪口や批判まですっかり鳴りを潜めてしまった。

こんなところでも光ることができるのだ、跡部は。

「……から、跡部も労働組合からは敵視されるはずなんだけどな」

じっと跡部を見つめていると、黙っていた幸村がぼそりと呟いた。潤が隣を見上げると、幸村は真剣な目つきで跡部やその周りの人たちをくまなく観察していた。

「うちと同じように?」
「ええ」
「じゃあどうして?」
「敵対できないほどに強大だということでしょう。下手に動いて敵に回すよりもほどよい関係を築いた方が有益だ。跡部財閥は格が違いますから。国内外のあらゆる業界に顔が利く」

潤は幸村から跡部に視線を移した。会場の雰囲気を自分に合うように作り替え、余裕の笑みを浮かべて談笑する跡部は、その場に呑まれて萎縮していた潤とは大違いだった。

何もできなかった自分と、それをひょいと乗り越える跡部。
ただの娘である自分と、社長として大勢を率いている跡部。

かねてより感じていた跡部との「差」が急激に膨れ上がってその場に立ちはだかっているように思えた。跡部と仲良くなるにつれ、友人や周りの大人たちからお似合いだと言われた。今をときめく御曹司と令嬢だから、と。どこがお似合いだ。これほどにも身分の差があるというのに。名家と成り上がりの違い、純粋に財力の違い、そして個人の能力の違い。
少しずつ心に積もっていった劣等感がありありと浮かび上がる。

──まだ、私は何者にもなれていない。

潤がぼうっと突っ立っていると、幸村は鼻を鳴らして潤の腕を引いた。

「こうしていても仕方ありませんね。白岩社長のところへ戻りましょう」
「ええ……あ」

きびすを返そうと一歩足を引いた瞬間、跡部がこちらを向いた。目が合う。
潤はあたりを見回した。側にいる女性たちが一様に「きゃあ、こっち見た!」「目が合ったわ」と騒いでいる。潤と跡部の間には距離があって、大勢の人がいる。跡部と目が合ったと思ったのは気のせいに違いない。
ところが跡部はニヤリと笑うと、体の向きを変えて歩み寄ってきた。周辺の女性が歓声をあげる。
潤は嫌な予感がした。どうやら幸村も同じだったらしく眉間に皺を寄せた。

「ゆ、幸村」
「行きましょう今すぐに」

幸村は今度こそとばかりに潤の腕を引く。
が、一歩遅かった。
人混みをかき分けていた跡部がパチンと指をならすと、どういうわけだかモーセのように彼を囲む群衆がさっと分かれて道ができた。
その道は予想通り潤と幸村の前まで続いている。

幸村は瞬時に嫌そうな顔をひっこめて「執事らしい」にこやかな笑顔を浮かべた。潤もとっさに笑顔を作る。
そんな様子を見ていたらしき跡部はもう一度ニヤリと笑って、大声で叫んだ。

「潤!会いたかったぜ!」

跡部のド派手な登場でそれた視線が再び潤と幸村に集まる。幸村は一歩前に出て、潤はさりげなく幸村の陰に半分隠れた。だが視線からは逃れようがない。先ほどまでの刺々しい視線とは違い、今度は好奇と疑念に満ちた視線だった。
悠々と跡部が近づいてくる間に幸村が小声で言った。

「お嬢様」
「ええ」
「粗相のないようにお願いしますね」

こんな時だというのに普段通りの幸村の小言に、潤は少し笑った。そうだ、ただ観客がいるだけだ。潤と跡部の関係は何も変わりはしない。

「……しかし今までは、どれだけ招いても跡部は自由労働党のパーティーに来なかったのに。今更どういうつもりだ?」
「え」
「よお」

かき消えそうに小さな幸村のつぶやきを問いただしたかったが、その前に跡部に声をかけられた。
潤は真正面の跡部を見上げてドキッとする。含みのある視線、半分開かれた目、舌なめずりするような唇。跡部家のパーティーと違って地味な政治家やその支援者たちに囲まれているせいだろうか、今日の跡部は妙に色っぽく見えた。

「こんにちは、跡部先輩」
「ああ」
「お世話になっております、跡部景吾様。まさかこちらでお目にかかるとは思いませんでした」

幸村は丁寧に挨拶をしながら言外に「普段は来ないくせになぜ来たのか」と問うている。跡部もそれに気がついたのか、喉を鳴らして笑った。

「決まってんだろ。潤が来ると聞いたから会いに来たんだぜ?」

跡部は大げさに手を広げて見せると、さっと潤の左手を取り腰をかがめて軽く口づけた。
三人を囲んでいた群衆がどよめく。一部、悲鳴まで聞こえる。
潤は気が遠くなった。笑顔をキープしてはいるが心が涙目状態だ。なぜこんなときにかぎって、注目されているときにかぎっていつもはしないキスなんてするのか。……いや、こんなときだからこそしたのだろう。潤はそのまま意識を飛ばしてしまいたくなった。そうだよね、跡部はこういう人だよね。知ってた。

突然、パシッと音がした。見れば幸村が跡部の手を振り払っていた。
幸村はさっと胸元から白いハンカチを取り出すと、潤の手の甲をごしごしこすり始めた。

「いっ、幸村、大丈夫だから」
「ダメです。……跡部様」
「何だ」

跡部は相変わらずニヤニヤしている。一方の幸村はにこやかなその顔に青筋が浮いていて、笑顔がかえって恐ろしい雰囲気を醸し出している。跡部の側にいてこちらを眺めていた青年が幸村を見て凍り付いた。

「ただの挨拶だろうが」
「私どもにはそのような習慣はございません」
「ピリピリすんな、幸村」
「そちらこそ慎んでいただきたいものですね」

8割方、素が出ている。
潤が固まっていると、火花を散らし始めた二人を見た周囲の人たちがざわめき始めた。

跡部さんに失礼な。
気にしている様子はないな。
知り合いか?
どういう関係だ。
白岩と跡部は仲がいいのか?
なんだと、聞いてないぞ。

跡部と幸村はざわめきなど気にもとめずに言い争っている。
潤は、周りからの視線が徐々に変化しているのを感じた。最初は刺々しかった視線が好奇と疑念のそれに変わり、今では羨望と嫉妬を帯びている。成り上がりだと見下していた白岩家が跡部財閥と案外深い関係にあると思われたのだろう。単なる白岩家の社員である幸村が御曹司の跡部と堂々と喧嘩するくらいだ。跡部と幸村が遠慮のない関係なのは本当は彼らが子供のころからの知り合いだからなのだが、他人はそんなことは知らない。
跡部は幸村からふっと目を離すと、考え込んでいる潤に向かってウインクしてみせた。若い女性の黄色い歓声があがる。

──もしかして、助けられた?

派手に登場して注目を集め、わざと白岩家と仲がいいことを周りにアピールして見せる。そうすれば、少なくとも表だって潤が悪く言われたり軽んじられることはなくなる。

「跡部先輩」

潤は冷たい空気を垂れ流している幸村を遮って声を上げた。

「ありがとうございます」
「アーン?なんのことだか分からねえな」

跡部は一瞬、目尻を和ませた。そんな跡部に嬉しくなって自然と笑みをこぼす。

「おや、歓声が聞こえると思ったら景吾くんじゃないか」
「これはこれは、跡部財閥の!来てくれてありがとう」

見れば、白岩社長と党首がそろって近づいてきている。党首は驚いた顔になり、それから破顔して跡部と堅く握手をする。

「こんなご時世だ、自由労働党に我が跡部財閥から献金をしようと思いましてね」
「なんと!よろしいのですか。あの跡部財閥が?お父上は何と?」
「何も。……与党との関係上、会長である親父自身がおたくらと深い関係になるのは難しいでしょう。しかし俺ならまだ自由にやれる。雇用者のことを考えて労組とも仲良くやっていかねえとな」

党首やその周りを囲んでいた党の幹部たちは、一斉に興奮したようにしゃべり出した。党首も感極まったような顔をしている。
跡部は苦笑すると、顔の前で手を振った。

「本来はおたくらの利益と財閥の利益もそこまで対立するもんじぇねえよ。労働者を使い捨てにするような会社に未来はねえからな。……ところで党首、と、白岩社長」
「なんでしょう」
「なんだい?景吾くん」

跡部は口の端をつり上げて笑うと、潤の腕を取った。

「潤を借りていくぜ」


(20150208)

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