カモマイルの悪魔 | ナノ


背筋がぞくっとした。
潤はあたりを見回して確かめたい欲求を必死でこらえて、すまし顔で幸村の横を歩く。白岩社長と別れたとたん、潤と幸村を取り巻く会場の空気は一変した。
まるで障壁がなくなったかのように、どっとあちらこちらから視線が飛んできて突き刺さる。客のざわめきが悪意を含んで迫ってくるように思えた。すれ違う人々は小さく輪になって歓談をしているように見えるのに、潤は自分たちだけが一挙一動を監視されているような気分になった。いや、確かに視線を感じる。

──なにこれ。

状況が把握できないでいると、幸村が腕を引いて潤に囁きかけた。

「あれは主に都内で活動している労働組合の幹部です。自由労働党とは深い繋がりがあります」

前を見れば、質素なスーツを着、しかしいやにギラギラした雰囲気をした中年の男性が二人、こちらへ向かっていた。
彼らは潤と幸村の前で足を止めると声を潜め、しかしこちらに聞こえるような声で言った。

「やはりあれが」
「ああ、白岩の」

彼らは腕組をしながら潤と幸村をじろじろと全身なめるように見、ひそひそと内緒話をしている。その顔には嘲笑が浮かんでいた。
あからさまに値踏みされている。
あまりにも不躾な態度に、潤は怒りを通り越して血の気が引いた。影であれこれ言われることには慣れていたが、面と向かってここまで失礼を働かれたのは初めてだった。しかし抗議するわけにもいかない。抗議するのは無駄だ。感情的な小娘だと更に侮蔑されるだけだろう。
潤はにっこりと笑って丁寧に挨拶をした。

「はじめまして。白岩潤と申します」
「ご挨拶遅れました、秘書の幸村精市です」
「これは、どうも」
「まさか白岩家のみなさんがいらっしゃるとは」

言葉そのものは丁寧なのに、明らかに侮蔑が含まれている。二人はひとしきり潤と幸村を笑った後、それ以上なにを言うでもなく唐突に背を向けて去っていった。
潤は腸が煮え繰り返そうになった。値踏みがしたければ勝手にすればいい。わざわざ目の前で傲慢なことだ。
幸村は作り笑いを浮かべたまま軽く鼻で笑うと、冷たく言い放った。

「彼らは特に過激な思想の持ち主ですから、なおさら白岩カンパニーが気に入らないのでしょう」
「どういうこと?だっ……て……」

幸村に問いただそうとしたが、今度は別の言葉が耳に飛び込んできて潤は胃の当たりがスッと冷たくなった。

どうして呼んだ。
今の首班は物好きだな。
金よ、金。
財布としては優秀だ。
ははは。

名指しされているわけではない。指差されているわけでもない。それなのに、潤にはそれが確かに自分たちのことなのだとわかった。まるで白岩家のことではないような体をなしながら、しかし明確な悪意が、剥き出しの悪感情が次々と体を貫いていく。
潤は幸村に鍛えられていたおかげか、このような状況下でも無意識のうちにそつなく振る舞うことができた。
それでも、体が震えそうになる。

ほうら、あれ。
あいつらのせいで、……の経営が。
あそこの倒産もやつらのせいだ。
新参者が調子にのって。
法がないからと荒らし回って。

潤は左手を握りしめた。なぜここまで悪く言われるのか、その理由の一つにようやく思い至った。
ここ数年で白岩カンパニーは経営を拡大させ続けている。服の大量生産から生活用品の販売、電気製品の開発、あらゆる分野に進出し、それなりの成功をおさめてきている。白岩カンパニーが得をしたということは、つまり。それだけ損をした会社があるということだ。
なぜ今まで気がつかなかったんだろう。大きな百貨店ができて地元の個人商店が潰れたというのはよくある話じゃないか。白岩家は一面では加害者だった。

だから、幸村はここがアウェーだと言ったのか。

潤がぼんやり考えていると、突然幸村が方向転換して早足で歩き出した。

「ちょっと、幸村?」
「少し休憩しませんか」

幸村は返事も聞かずに控え室へ向かっていく。潤は無理矢理引っ張られながら密かにため息をついた。いつもは嫌気がさすこの強引さが今回ばかりは有り難い。
一番大きな控え室に入った幸村は衝立の影に入り、「足が疲れたでしょう」と押し込むようにして潤を椅子に押し込んだ。潤はされるがままに大人しく座って、手渡された水のグラスに口をつけた。

曇りのないグラスを見ていると、潤は必死でバイトでグラス磨きをしたことを思い出して、だんだんと混乱していた心が落ち着いてきた。

経営者と労働者。
もうける会社と損する会社。
羨望、嫉妬、憎悪、侮蔑。

──今回のパーティーはあまり気持ちのいいものではないだろう。だがそれも勉強だ。

潤は今ようやく白岩社長の言葉の真意を理解した。輝かしい栄光の影には深い闇があるのだと、それを知っておきなさいという意味だったのだ。きっとそれに今まで気がつかずにこられたのは、「白岩」の名と「氷帝」に守られていたからだろう、と潤は思った。
それを知らずにお気楽に悩んでいたというのは、贅沢だったのだと。いくら自分にとって深刻な悩みだったとしても、ちっぽけなものなのだと。わかっていたつもりだったのに、実際は全くわかっていなかったのかもしれない。
潤は目の前に立つ幸村を見上げた。冷めた切れ長の目と目が会う。潤は意を決して、口を開いた。

「ねえ、幸村。なんでうちがこのパーティーに呼ばれたの」
「党首は柔軟で革新的なタイプですから、白岩社長を自由労働党の支援者に取り込みたいのでしょう。白岩家が党を大々的に支援するとなれば党としては有利ですから」
「それにしては歓迎されているようには見えないわね」
「ええ。党は一枚岩ではない。党の中でも保守的な層──先ほどの労働組合の幹部などは党首の方針には反対なのでしょう」
「父さんは何を考えてここに?」
「様子見のつもりでしょう。人脈は広い方がいい。しかしこの党を支援することが自社にとっていいかどうかはわからない。だからこその様子見……しっ」

幸村は唐突に言葉を区切ると、潤の唇を指で押さえた。
近くに誰かがいる気配がする。衝立の影になっていて相手の姿は見えないが、潤たちがいるところと対角の隅に何人か来たらしく、女性の声が複数聞こえてきた

「……ねえ。それで……見ました?」
「ああ、白岩の……」
「成金のくせにねえ」
「本当に」
「……も知らない新参者が」

クスクスと笑う声が聞こえる。
初めて知った現実と、衝撃と。
しかし潤は不思議と、自分たちをあざ笑う声にも既にショックを受けなくなっていることに気がついた。心は相変わらず冷え冷えとしている。嫌なものは嫌だ。それでも、泣き叫ぶようなことではない。悲しみよりも怒りが勝る。怒りのあまり、かえって覚悟ができたのかもしれない。
潤がにっこりと作り笑いを浮かべると、幸村もまた笑みを浮かべた

「……珍しいわね」
「ええ、同じ気持ちのようで。では参りましょうか」
「そうしましょう」

潤と幸村が衝立の影から姿を表すと、女性たちはぎょっとしたように顔を見合わせた。潤は正面から女性たちの顔を見据えた。何も怖れることはない。隣の幸村もまたそう思っているだろう。
気を取り直したらしい彼女たちは、こちらに向き直って口々に言った。

「こんなところで何をしていらっしゃるのかしら?」
「早くお帰りになった方がいいんじゃない」

そして、忍び笑いを漏らす。
潤は笑って一言、返事をした。

「そうですか」

それだけ言ってさっさと去ろうとすると、「ちょっと!」と後ろから文句が飛んできた。
幸村に左肩を引かれて体を寄せると、女性のうちの一人が潤の左手をつかもうとしていたらしく手がそこまで伸びてきていた。

「そうですかって、あなたね」
「何かご用ですか?」
「……なんなの、何様のつもり!?こっちがせっかく」
「ご心配傷み入ります」

何を言われてもどうだっていい。嫌われる時は嫌われるし、自分にどうにかできることでもない。


***


控え室から出たところで、潤は幸村の腕につかまってすっかり安心している自分に気がついた。いつもは幸村が隣にいるだけで圧迫されているような息苦しさを覚えていたというのに、この場においては護衛そのものだった。敵の敵は味方、というやつかもしれない。
潤が見上げると、幸村の端正な横顔には相変わらずの作り笑いが浮かんでいる。間近でこの横顔に本当の笑みが浮かんでいるのを見たのはいつのことだったか。
そんなことを考えていた潤はつい、唐突な質問をしてしまった。

「ねえ、幸村。なんで私の執事でいるの?」
「……は?」

幸村は目を見開いて潤を一瞥した。そして再び前を向く。

「会社で働くだけで忙しいでしょ。貧しいわけでもないのに、なんで執事の仕事までするの」
「さあ」

答えは期待していなかったが、やはり幸村は冷たくそういうばかりで答えてはくれない。
食い下がろうと潤が再び口を開いたとき、ぱっと会場の明かりが全て落ちた。想定外の出来事に会場がどよめく。

「停電ですね。お嬢様、私にしっかりつかまっていてください」
「わかった」

潤はしっかりと幸村の腕につかまった。
ところがまもなく、真っ白な光が部屋の四隅からある場所に注いだ。自然と目がそちらへ向かう。
再び、大きなどよめきが起きる。
潤は目をむいた。

「よお、来たぜ!!」

跡部景吾がライトの中心部で片手をあげて立っていた。
いつものようにパチンと指を鳴らす。
そのとたんに、会場のあちらこちらから黄色い歓声があがった。

「ねえ……これ、跡部家主催のパーティーじゃないわよね?」
「……ええ」

なんでこんなにやりたい放題なんだ。
潤は絶句して、すっかり主役の座を奪い取った跡部を見ていた。


20150114

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