カモマイルの悪魔 | ナノ


潤は自室のドレッサーの前で大人しく座っていた。その真後ろに立つ幸村は潤の髪を器用に整えている。幸村との長いつき合いの中でもこんなことをされたのは今回が初めてだった。自分ですると言っても「粗相があるといけませんので」と流され、強引に座らされたところで潤は諦めた。
幸村の長い指が頭に触れ、また一房、長い髪を取って丁寧にくしけずる。潤は鏡越しに幸村の様子をうかがおうとしたが、この角度からだと肩までしか写らない。慣れた手つきでこてを操り髪を巻いている手元だけがわずかに見えた。
こてを使ったことなどないだろうに器用なものだ。潤はそう思ったが、はたと気がつく。使ったことがないとは限らない。自分では使わなくても誰かにしてあげていたかもしれないではないか。たとえば恋人とか。

潤は頭を動かさないようにしつつ詰めていた息を吐いた。数時間後に始まる自由労働党のパーティーに備えて身支度をしていたら、幸村が部屋を訪ねてきてこの通りである。
幸村と潤の間に横たわる重い沈黙。以前はただひたすら嫌だとばかり思っていたそれが、今は苦しいようでもあり懐かしいようでもあった。
幸村が以前ほど潤に近寄らなくなったのは、潤が幸村にきっぱりと「愛の言葉などいらない」と言った日からだ。バイトの申し込みをした晩春のことだから約二ヶ月前になる。それからというもの幸村は打って変わって綾希と一緒にいることが多くなった。共に仕事をし、共に買い出しに行き、二人でなにやら熱心に話していることも以前より増えたように思えた。
潤の悩みの種であった幸村の影が突然薄くなって、奇妙な感じがした。ずっと目をそらしたかった相手がいなくなったのだから楽になるかと思えばそうでもなく、しかし、こうして相手が現れればやはり重い気分になる。

あれこれたわいないことを考えていると、唐突に幸村が口を開いた。すっかり油断して意識を飛ばしていた潤はびくっと顔を上げた。

「いくつか先に注意しておくことがあります。まず、政治家の名前を呼ぶときは『先生』を付けてください。必ずです。妙にプライドが高く、先生という敬称に拘る連中が多いのです。自由労働党の党首は気さくで大らかと聞くので大丈夫でしょうが、他はそうとは限りません」
「わかった」
「お願いしますね。次に、これから私たちが向かうところはホームではなくアウェイです。それを覚えておいてください」
「アウェイ?敵陣という意味?」
「ええ」
「どういうこと」

潤は不審に思って振り返ろうとしたが、幸村にぐいっと頭を固定されて叶わなかった。
少なくとも白岩社長が自由労働党を敵視していることはないはずだ。それに、自由労働党が白岩家を敵視しているならばわざわざパーティーに招くはずはない。

「お嬢様は自由労働党がどういった風潮の党か、ご存じですか」
「労働者の保護をうたっていて、保守派の政治家と対立しているのよね」
「その通りです。白岩社長は保守派ではありませんので自由労働党と立場は近い。しかし、自由労働党は歴史が長く、誇り高く、保守派ではないながらある意味──保守的なところがあります」

潤は眉を顰めた。話が複雑になってきた。

「一方の白岩社長は大変革新的な考え方をなさいます。そして、労働者を雇用する側にいる。ですので自由労働党の支持者の中には白岩社長をよく思わない者も多いのです」
「……よくわからないのだけど」
「行けばわかるでしょう」

幸村はそれっきり口をつぐんで、再びせわしなく手を動かし始めた。

──今回のパーティーは気持ちの良いものではないだろう。

そう言った白岩社長の言葉を思い出す。理由ははっきりとはわからないものの、気を引き締めなければならないようだった。


***


会場に着いたとたん、緊張して固くなっていた潤は拍子抜けした。これだけ幸村や白岩社長が脅すのだからきっと会場は魑魅魍魎のうごめく絢爛豪華な伏魔殿に違いないと思っていたのに、実際はごく普通のホテルだった。ここのところ跡部家のパーティーやら贈り物やらといった怒濤のおもてなしを受けていたせいか、一流ホテルのホールであるにもかかわらず設備が貧相に見えてしまう。跡部財閥おそるべし、だ。

幸村に手を引かれて潤が控え室の椅子に座ると、幸村は声をひそめてそばに立つ白岩社長に話しかけた。少ないものの周りは人がいる。

「本当にこのまま出席なさるおつもりですか」
「もちろん。それがどうしたんだね」

不思議そうな白岩社長とは反対に、幸村は唇をへの字に曲げた。

「社長、さすがにまだ早いのでは」
「そうだろうか」
「社会情勢を知ってからでも遅くないのではないですか」
「一理あるが、私の目が黒いうちにと思っているのだよ」
「しかし」
「だからこそ、君がここにいるのだろう?」

潤には二人の会話が理解できなかったが、あることに気がついて一瞬息が止まった。白岩社長は、言葉に詰まって少しうつむいた幸村を鋭い目つきで観察するように伺っていたのだ。今までに白岩社長が幸村をこのような目で見ていたことがあっただろうか。むしろどちらかというと、幸村に対してはいつも自慢の息子でも見るような穏やかな目だったというのに。
驚愕の思いで父親を見つめていると、白岩社長はそんな潤に気がついてにっこりと笑った。

「潤。蜜を盗む輩に気をつけなさい」
「え、え?蜜?」
「さあ、もうそろそろ始まる。まずは一緒に党首に挨拶に行こう」

白岩社長はいやに上機嫌でくるりと背を向けた。あわてて潤が立ち上がると幸村がさっと手を差し出す。

「蜜とは、なんのことです」
「……さあ」

見れば、幸村もけげんな顔をしていた。わからないのは潤だけではなかったらしい。
いつもはこういう不明瞭なことは言わないのに。潤は不審に思ったものの気にするのをやめて、卒のない立ち振る舞いに集中することにした。



会場の真ん中で豪快に笑っていた自由労働党の党首は、白岩社長を見るとぱっと笑顔になって両手を広げた。

「やあやあ、白岩社長じゃありませんか!ご参加ありがとう!」
「こんにちは、先生。今日会えるのをずっと心待ちにしておりました。なかなかお会いする機会もございませんし」
「はは、そうですね!私としても、ぜひ白岩社長に我らの信念をご理解いただくべく、話をする機会が欲しかったんですよ」

この党首は幸村の言うとおりおおらかで快活な人物であるようだった。彼は白岩社長と握手をし、一通り談笑し終えるとこちらに目を移した。

「ご紹介遅れました。娘の潤と、隣は秘書の幸村です」
「初めまして、潤です。どうぞよろしくお願い致します」
「どうぞよろしく。若い女の子が来ると華やいでいいですねえ!しかも聡明そうなお嬢さんだ」

口もうまいらしい。潤は笑顔で応じたが、ふと、彼の後ろに自分と同じくらいの年齢の男性が立っていることに気がついた。

「親父」
「ああ、お前か。白岩家のみなさんだ。白岩社長、こちらは私の長男です。どうです?お嬢さんにうちの息子は」

潤は気が遠くなった。本気なのだろうか、ただの社交辞令か。いずれにせよこういった話題には一向に慣れないし、苦手だった。その上、当の長男はまじまじとこちらを見てくるので居心地が悪い。

「いやあ、先生のうちに私の娘など格が違いすぎてとても」
「またまたー、ご謙遜なさいますな!ご一考くださいよ」
「はは、ありがとうございます。しかし実はこの子には、もう話がありましてね」

心臓がどっきりとはねる。必死で笑顔をキープしたが胃が口までせり上がりそうになった。
──今、なんと言った?

「おや残念!できれば見合い願いたかったんだけどま」

党首は首を横に振ると、ふと小さく「もしかして」と呟いて幸村に目を留めた。白岩社長はそんな党首にもそしらぬ顔をしている。
冷や汗が背中に流れた。
──もしかして、幸村を婚約者だと勘違いしている?
潤はなぜ白岩社長がそんな物言いをしたのか理解できなくて幸村を見上げた。しかし幸村はにこにこと作り笑いを浮かべているだけだった。
党首とその長男が他の人のところへ向かった後、潤は白岩社長に質問をしようと口を開いた。しかしそれより先に白岩社長は手にしたワイングラスを軽く掲げて軽く言い放った。

「さて、私は他の幹部の方に挨拶してくるよ。潤と幸村くんはパーティーを楽しんでいなさい」
「え、ちょっと、お父さん!」

潤はあっけに取られ、急いで引き留めた。今日の白岩社長は変に思えた。言動がいつもとは違う。さっきから思わせぶりな発言が多いと思えば、今度は幸村と潤を置いていくという。普段のパーティーでは白岩社長は幸村を秘書代わりに連れ回すことが多く、幸村と別に行動することはめったにない。
ところが白岩社長は「いいから」と言い残すと、器用に人混みを縫ってどこかへと去って行った。
なんにもよくない。潤が呆然としていると幸村が口を開いた。

「では、移動しましょうか」
「……ええ」

もう仕方ない。わけがわからないが、それは後で尋ねることにしよう。潤は理解を諦めて、隣に立った幸村の腕に掴まった。
会場にはいつの間にか大勢が集まりあちらこちらで人だかりができていた。来ている人は総じて跡部家のパーティーに出ていた人よりも地味で、シンプルな黒いスーツの男性が多く見えた。
ホールの中心から幸村に誘導されて端へ移動する間に、潤は跡部のことを思い出していた。そういえば、例のデートの際、潤は跡部に腰を抱かれて歩いたのだった。ああされるとどうにも身動きが取りにくくて、確か変な歩き方になってしまった。幸村のようにただ腕を差し出される方が歩きやすいのだ。


(20141230)


--



思ったほど話が進まない。
白岩社長は幸村を秘書だと紹介していますが、実際はそうではありません。幸村をパーティーに連れてくる口実として秘書だと言っただけです。

[back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -