カモマイルの悪魔 | ナノ


そろそろ飽きたか?
それならランはどうだ。今度とっておきのを届けさせる。
それとも宝飾品の方がいいか?
好きでやっていることだ。黙って受け取れ。
理由?まだ分からねえのか。
嫁に迎えに行ってやろうか。待ってろ。
アーン?
お前は俺様だけを見ていればいいんだよ。



潤はため息をついてスマホの電源を切った。開いた教科書に目を落とし文字を追うが、意味が頭に入ってこなくてすぐに突っ伏す。まったく集中できない。大学の試験が近いというのに心ここにあらずとはまさにこのことだ。
熱い夏の日差しを伴って時間はのろのろと過ぎていく。

「ダメだ……」

一人ごちて椅子から立ち上がり、部屋を出る。久しぶりに普通の紅茶でも飲もう、と潤は思った。気分転換をすれば落ち着けるかもしれない。そういえば丁度、跡部から最高級品だという紅茶が送られてきて──
そこまで考えて潤は再びため息をついた。
人のせいにするのはよくない。でも、それでも、跡部のせいだ。

休日の白岩邸はがらんとしていた。白岩社長は接待に出かけ、綾希と幸村はおそらく買い物、河西は庭木の手入れでもしているのだろう。
家の中には誰もいないと思われたが、潤がキッチンに入ると、そこには仁王がいた。作業台の前に立っていた仁王は夕食を作るときのようにエプロンを纏い、あっちの大鍋をかき回したかと思うとこっちの中華鍋を振るい、かと思えば野菜を洗って刻み、オーブンを開けて火加減を確かめ、広いキッチンを忙しく飛び回っていた。キッチンも空調が整っているはずなのに、熱気と蒸気がこもって外のように暑かった。

「お嬢か。お邪魔しとるぜよ」
「こんにちは。仁王さん、臨時バイトですか?」

潤は首を傾げた。休日は雇っていないはずだ。丁度作業が一段落したのか、彼はコンロの火を止めてまな板を洗い始めた。

「ああ。明日の昼間に何人か客人が来るそうだ。ところが今日は泉さんは忙しゅうてろくに料理もできんから、下拵えをしておいてくれと頼まれた」
「なるほど。お疲れさまです」
「おう。お嬢はお茶か?ちょうど沸いてるそこのお湯、使ったらどうだ」
「ありがとう。仁王さんもいかがですか?いい茶葉を頂いたんです」
「ええんか?ならもらおうか」

仁王はタオルで手を拭くと、お茶請けに薄いビスケットを出してくれた。潤は磨り硝子のコップを二つ出して、もらった紅茶の封を切った。ふわりと、なんとも爽やかな香りが立つ。
ポットに熱湯を注いで蒸らしている間にふと潤が顔を上げると、エプロン姿の仁王が丁度テーブルについたところだった。白髪に後ろ髪を伸ばした仁王はなんともチャラそうな見た目であるのに、不思議なことにエプロンを身につけると一途で家庭的に見えた。
潤は紫の小さな花を閉じこめた氷をそれぞれのコップに入れると、紅茶を注いで一方を仁王に差し出した。

「なんだか仁王さん、新妻みたいですね」
「そうそう、夫の帰りを健気に待って……って、んなわけあるか!」
「幸村あたりいかがですか。顔よし、稼ぎよし、頭よしですよ」
「プリ!そもそも俺は男だ!……新妻って言うなら泉さんぜよ」
「まあ、そうですね」

潤は料理をしている綾希の姿を思い浮かべた。支給品の真っ白なエプロンを身につけて、真剣な顔で料理をしている綾希。そんな彼女の後ろ姿を──偶然なのか「いつものこと」なのか、幸村がキッチンで何かを片づけながら眺めていた。
まるで、新婚夫婦みたいに。
潤は頭が痛くなってきてコップを置いた。おいしい紅茶なのにおいしくない。最近の幸村と綾希はますます距離が近くなっている気がする。片方が仕事をしているもう片方をこっそり見ているのを何度も目撃してしまった。幸村は綾希に積極的に近づいているのは明らかだったし、綾希もそんな幸村ににこにことしている。
隠しているだけで本当はもう付き合っているのかもしれない。

ふと、仁王が含み笑いをした。

「今のお嬢は生き生きしとるな。ゾンビのように」
「死んでますからそれ。……わかります?」
「テスト前で大変なんだろ」
「ええ。理由はもう一つありますが」

潤はこめかみを押さえて顔をしかめた。自分の気持ちを持て余している。そう自覚しているけれども、上手く対処ができなかった。
幸村と綾希は親しいくせに、潤にはそれを悟られたくないのか、二人は一緒にいても潤の姿を見るとぱっと距離を取る。付き合っているとしか思えない様子だ。綾希はいい人だし優秀だし、もちろん以前のメイドたちのように潤にきつく当たることもない。綾希が幸村と付き合っていたとしても何の問題もない。それなのに、潤の心の奥底にはもやもやとした黒い感情が渦巻いている。

──結局、幸村が嫌なだけなのかもしれない。

潤はそんな自分にも嫌気がさした。いつまでたっても恨みがましい。もういっそ跡部と結婚してしまおうか。そうすればスッキリするだろうか。……なんて、投げやりな気分になる。そんな気にもなれないくせに。

「テストが原因じゃない?それならもしかして、跡部か?」
「えっなんでわかったんですか!?仁王さんに跡部先輩の話しましたっけ」
「あっ、いや、その、そ、そうだデートしたって聞いたもんでな。跡部はあの強引な性格じゃ、困ることもあるだろう」
「そっか、仁王さんもテニスで知ってるんですね、跡部先輩のこと。いい人なんですけどね」

中学生のときから強引な性格だったらしい。潤は思わず苦笑した。ダブルデートが終わってからというもの、以前にも増して跡部からマメに連絡が来るようになった。それだけではない。跡部家の執事が次々と贈り物を持ってくるようになった。バラから始まり百合、ラン、どうやって手に入れたのか季節はずれの桜の枝が来たこともある。時には跡部財閥の子会社が開発したという香水やルージュの新商品が届く。
潤は跡部に対する気持ちもまた、持て余していた。

「仁王さん、私が跡部先輩から贈り物をたくさん頂いていること、知ってますか?」
「ああ。河西さんが言っていた」
「実はそれだけじゃないんです。連絡も、毎日来るようになって」

連絡が来ることは嬉しいけれども、一通一通に妙な熱がこもっていて、友人という域を越えているように潤には思えた。しかし跡部にとっては普通なのかもしれない。ヨーロッパ育ちだというから、人間関係の感覚がやや異なるのかもしれない。実はイタリア男に影響されていて、結婚してくれなどという台詞は朝飯前なのかもしれない。
そう自分に言い聞かせても胸のもやもやは晴れない。

なぜ、こんなにメールを送ってくるんだろう。
なぜ、こんな口説き文句を送ってくるんだろう。
なぜ、あんなに贈り物をくれるんだろう。
なぜ、なぜ。

跡部から潤が贈り物攻撃を受けていると知った白岩社長は、にこにこと笑っていた。嬉しそうに。だからこそ、いっそう焦燥とも不安ともつかぬ感情が胸に渦巻いて潤は息苦しかった。

仁王は目を丸くすると、ビスケットから口を離して真顔になった。

「どんな内容か聞いてもいいか」
「どういうプレゼントが欲しいかとか、デートのお誘いとか。ミュージカルは好きか、オペラはどうだって。なぜかわからないんですけれど」
「ほお。ふうん、そうか」

仁王は思わせぶりな相づちを打つと何かを考え始めてしまった。
潤はコップに結露した水滴を指先で撫でながら、深呼吸をした。跡部の本心がわからないのだ。言葉面だけ見ればかなり気に入られているのだろう。しかしそれにしてはひっかかる。跡部の態度に。パーティーでもアトベランドでもそうだった。あの寂しそうな目、あの懐かしむような物言い。潤は跡部に見つめられていても、彼が自分ではない誰かを見ているように思えて仕方がなかった。
それに、わからないのは跡部の気持ちだけではない。自分の気持ちもまた潤にはわからなかった。

──跡部先輩がもし本気で私を好いてくれていたとしたら、そしたら私は跡部先輩に好きと言えるんだろうか?

たっぷりの沈黙ののち、仁王がおもむろに口を開いた。

「跡部はお嬢に本気なんじゃないか。冗談でそこまでするとは思えん」
「社交辞令だったり、とか。取引先の社長の娘ですし」
「だったら余計にそんなことはせん。相手はあの跡部だ、普通の女の子なら少し口説かれただけでころっといってもおかしくなかろ。社交辞令でそんなことをしていたら相手を傷つける。それくらい跡部も心得ているはずだ」
「そう、ですか。そうですね」

潤は手に水滴が垂れるのもかまわずにコップを傾けた。透明な滴は素肌を伝って机の上に落ちる。
単なる社交辞令ではないと頭の隅ではわかってはいた。しかし、それでも、「本気」だとはどうしても思えなかった。

「さすがですね。仁王さんに聞いてもらって良かったです。恋愛に長けてそうだし」
「……ピヨ」
「あれ?違うんですか」

仁王の目が泳いでいる。潤はきょとんとした。幸村に見慣れてしまったせいで忘れがちだが仁王もかなりのイケメンだし、おしゃれでスマートだ。性格もいいし料理も上手い。モテないはずがない。

「確かに、モテはするが」
「やっぱりモテるじゃないですか!」
「俺からフッたことは一度もないぜよ」
「え」

潤は目が点になった。

「まさか、女性恐怖症?」
「付き合ったことはある。何度も」
「何度も?つまり」

毎回付き合ってはふられるということか。
仁王はヤケになったように紅茶をあおり、おかわりを要求する。潤は仁王の傷を抉ってしまったことに良心の呵責を感じて、おとなしく紅茶を入れてあげた。ついでに跡部からもらったアトベランドのプリンも差し出す。仁王はプリンをまじまじと見つめ、深くため息をついてからプリンに豪快にスプーンを突き刺した。

「いっつも同じだ。『ミステリアスでニヒルでかっこいいと思ったのにこんなの雅治じゃない!』ってな」
「……仁王さん、ニヒルというよりコミカルですもんね」
「プリッ」

目の前の仁王は真っ白のエプロンを身につけて、涙目でプリンを貪っている。かわいい。ニヒルのかけらもない。心なしかふわふわの髪の毛が萎れているように見える。

「ま、まあいいじゃないですか。私なんて恋愛経験ぜんぜんないですし」
「お嬢はガードが鉄壁すぎるぜよ。好みに合うやつがおらんのか?」
「好み、というか」
「おまん、どんな男が好みなんだ?」
「どんな、って」

潤は困惑して口をつぐんだ。考えたこともなかった。子供のころは幸村に憧れていたけれども、例の事件があって幸村の態度が冷たくなってからというもの男性への憧憬が完全になくなってしまった。千石や跡部を素敵だとは思っても、好みかと問われるととたんにわからなくなる。

「お嬢、もしや男に高望みしすぎているんじゃないか?幸村みたいな男はめったにおらんぞ」
「なんで幸村が出てくるんですか」
「お嬢の身近にいる異性といえば幸村だから、だな。幸村のハードルの低さを見習いんしゃい」
「ああ、女性なら誰でもいいみたいな」
「……そこまでは低くないと思うぞ」
「メイドによく手を出すじゃない」
「……それは否定せんが。確か健康な人が好きだと言ってたな」

健康な人。綾希は幸村の条件にぴったり当てはまるな、と潤は思った。体が健康というだけじゃなく、明るくて瑞々しくて真面目で、性格も健康そのものだ。
潤はふと唇をゆがめた。ままならぬものだ。自分でさえも。

「私より仁王さんの方が女子大生みたい」
「そうだろ……ってんなわけあるか!第一、こういう話題を振ってきたのはお嬢ぜよ!」
「そうでした。あー、もう!跡部先輩のせいだ!」
「……重傷じゃな」

仁王が手を伸ばしてぽんぽんと潤の頭を撫でる。潤は重いため息を吐き出して、されるがままになった。
何も変わってはいないけれど、気持ちを聞いてもらって潤は少し気が楽にはなった。冷えた紅茶の爽やかさが感じられる程度には。
両親や友人だけではない、仁王にもまた支えられている。


(20141206)

[back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -