カモマイルの悪魔 | ナノ


早々に寝床に入ってぐっすり寝たおかげか、潤は日曜日だというのに朝早くに目を覚ました。昨日のデートによる疲労は残っていない。ベッドから起きあがって深緑色のカーテンを引くと、みずみずしい朝日が家を囲む木々の隙間から差して部屋を穏やかに包みこむ。
良い気分で潤が一階へ降りると、普段は閉め切られている食堂の扉が大きく開いているのが目に留まった。誰かが中にいる。と、いうことは。急いで食堂を覗くと予想通り、そこには白岩社長がいた。湯気の立ったコーヒーを片手に新聞を読んでいる。

「おはよう、潤」
「父さん!おはよう。今日は仕事はないの」
「ああ。午後から接待があるがしばらくはゆっくりしていられる」

白岩社長はそばに控えていた綾希に潤の朝食を持ってくるように命じると、新聞を畳んで潤を手招きした。潤は久しぶりに家族と食事ができることに嬉しくなった。

「それで、昨日はどうだったね。遊びに行ったんだろう、跡部くんたちと」
「楽しかった。とても。……大人になってから行くとアトベランドのすごさがよく分かったわ。普通の遊園地じゃ太刀打ちできないと思った」
「ほう、例えば?」
「ランドの至る所で今どのアトラクションが空いているか案内されてたり、待ち時間にも退屈しないようにパズルが設けられていたり。お客さんを快適にするための工夫が惜しみなく施されていて、さすが跡部財閥ね」
「ふむ、それは興味深い。私も一度視察に行ってみるかな」

白岩社長は綾希が運んできたサラダを口に入れると、一呼吸置いて優しく尋ねた。

「潤、それはいいのだが、景吾くんの方はどうだったね?」
「へ?どうだった、って」
「デートだと景吾くんから聞いたよ。恋人になったと考えていいのだろうか」
「え。えええええ!?」

潤は絶叫した。幸村が側にいないこともあってお嬢様らしい振る舞いなどどこかへ消し飛んだ。それから言葉を失う。恋人。こいびと。ボーイフレンド。……跡部先輩が、彼氏?自分の父親がそのような勘違いをしているとはあまりにも想定外で、潤はひるんだ。
綾希も驚いたのかお茶を注ぐ手を止めた。
爆弾を投下した張本人・白岩社長はのんきにトースト口に運んでいる。沈黙が落ちた食堂にちゅんちゅんと雀の鳴き声が平和に響く。

「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
「どうした、落ち着きなく。……そういえば泉くんは景吾くんをよく知っているのだったね」
「白岩社長!それは」

潤は目を丸くした。以前「跡部景吾は有名だから知っている」と綾希は言っていたが、直接の知り合いだったとは思ってもいなかった。潤は困ったような顔をしている綾希を見て状況を察した。

「前の勤め先に跡部先輩がよく来ていた、とか?父さん、綾希さんは前の職場のこと隠してるんでしょ。言ったらよくないんじゃないの」
「あ、いいえ……このくらいなら大丈夫です」
「そう?無理しないでね」
「ありがとうございます。おっしゃる通り、以前の職場で、ちょっと、いろいろありまして。跡部景吾様のことはよく存じております。黙っていてごめんなさい」
「いいえ。謝るようなことじゃないでしょ」

綾希は跡部が頻繁に尋ねるような家に勤めていたらしい。ということは、榊グループのような名家か、あるいは跡部家の親戚筋か。いずれにせよ大きな家に違いない。
潤は初めて綾希に会ったときにその卒のなさに感激したことを思い出し、あらためて納得した。大きな家に勤めればメイドとしての立ち振る舞いを厳しくしつけられる。そう考えれば、綾希がよくできたメイドであることに合点がいく。
ごほん、と咳払いをして白岩社長が口をはさんだ。

「それで潤、景吾くんは」
「違うの、そんな関係じゃないの」
「そうなのか?」

食堂に再び微妙な沈黙が落ちて潤は焦った。白岩社長はいまいち納得していない様子で「本当か?」とつぶやいているし、綾希は白岩社長と潤の様子を交互に伺っている。

「そうなの!間違いありません!ねえ父さん、なんでそんなこと気にするの」
「いやあ、この前跡部会長とゴルフに行ったのだが、お互いの子供が結婚したら跡部財閥と我が社の大規模な提携もスムーズに進むのではないか、という話が出てね」
「……え」
「そうなれば我々は親戚になる。私は景吾くん相手なら賛成だ」

潤はガンと頭を殴られたような気になった。まさか父親同士でそこまで進んだ話がなされているとは思いもしなかった。跡部と、結婚。
以前潤が見合いをした時は、白岩社長は今ほど乗り気ではなかった。だからこそ潤は自分の気持ち次第で見合い話を断ってもいいのだと気楽な気持ちでいることができた。
しかし今回は違う。潤の父親どころか、跡部景吾の父親も乗り気だ。

──結婚どころか、恋すらしていないのに。景吾くん相手なら賛成だ、って。

潤は冷静なふりをしてゆっくりとお茶に口を付けた。香り高いはずのお茶がただの白湯に思えた。
本当に跡部と結婚することになったとしても悪い話ではない。むしろ超良縁だ。財力、家柄、能力、すべてにおいて向こうが勝る。文句の付け所がない。潤は跡部のことは嫌いではなく、むしろどちらかといえば好きだった。それなのに潤の心にはやもやとした得体の知れない感情がわき起こって体の中で大きく渦を巻いた。
白岩社長はにこにこと続けた。

「いい青年だよ。能力も性格も申し分がない。彼がわざわざ、お前とデートをしたいから許可をくれと頼みに来たものだから、私はてっきりお前たちは既に──」

せっせと給仕をしていた綾希が「まあ……」と感嘆したように言う。潤はハッと我に返って慌てて訂正した。

「だから違うの!デートっていうけど、そもそも樺地さんと美波のために計画したようなものだし。私と跡部先輩がデートしたくて遊びに行ったってわけじゃなくて」
「そうか?」
「そうなの!」

潤は一つ頷いた白岩社長を見て、いつの間にか詰めていた息をこっそり吐き出した。誤解は解けたらしい。しかしそれでも、心のもやもやは一向に晴れる様子がない。潤はごくりとお茶を飲み下した。
白岩社長はよほど跡部景吾が気に入ったのか、残念だ、お前も大人になったからちょうどいいと思ったのだが、などともの申していたが、潤が沈黙を続けているとようやく話題を変えた。

「潤。今度、自由労働党の現党首がパーティーを開くそうだ。お前もついて来なさい」
「政治家のパーティーに私が出るの?」
「ああ、今回のパーティーはあまり……気持ちの良いものではないだろう。だがそれも勉強だ。いい機会だから一度お前に見せておきたくてね」
「どういうこと?」

潤は頭を傾げた。パーティーはパーティーだ、気持ちがいいも何もあるのだろうか。まさか会場の飾り付けが悪趣味だという意味ではあるまい。

「経済界においては、どんな過去を持っていようがどんな出自であろうが商売が上手ければのし上がることができる。何も恥じることはない。だが政治の世界は違う。もっと因縁が濃く、しがらみが濃く、『血筋』の力が強い。権力に群がる魑魅魍魎、権謀術数……闇が深い」

白岩社長は一息ついてコーヒーを飲むと、娘の目をしっかりと見据えた。

「だからこそ、一度は見ておいた方がいい。お前は不快な思いもするかもしれないがあの世界を知っておくべきだ。お前のような立場にいればなおさらね」

潤は父親の言葉に疑問を抱きつつも素直に頷いた。窓をあおげば空には夏らしい入道雲が生まれている。いいことか悪いことかは分からないが、何かが始まりそうな予感がした。


***


水ですすいだワイングラスを目の高さに掲げる。グラスの曲面を通して、カウンターの遙か向こうにいるクラブ客や派手なライトが曲がって見えた。曇りなき透明感。これで大丈夫だ。
ずいぶんアルバイトに慣れてきたものだと自画自賛しながら、潤は洗い上げたグラスを並べた。そうしているうちにガタッと椅子を引く音がして、目の前のカウンター席に男が座った。

「ギムレットをくれ」
「かしこまりました」

潤は客に愛想良く笑いかけてそばにいたマスターに注文を伝えた。そして再び食器洗いの仕事に戻ろうと思いふと顔をあげると、注文をした男と目があった。彼はまじまじと潤を凝視している。顔に何かついているのだろうか。潤は困惑したが、よくよく見ればその男に覚えがある気がする。肌が浅黒く、坊主頭でひきしまったラテン系。

「お前、この前の」
「あ」

ラテン系の見た目によらず流暢な日本語。潤はようやく、以前クラブの前でぶつかりかけた男だということを思い出した。知り合いと勘違いして声をかけられたから印象に残っていた。

「ここの店員だったのか」
「はい。先日は大変失礼いたしました」
「いや、俺も悪かったから気にすんな」
「ありがとうございます」

洗い物を再開しながら愛想良く返事をする。潤は彼の目がとても優しいものであることに気が付いた。目に現れている通り、性格も優しそうだった。

「前に来たときはこの店にいなかった気がするんだが」
「ええ、つい数ヶ月前に勤め始めまして」
「そうか。……やっぱりお前、俺とどこかで会ったことねえか?名前は?」
「おい桑原、店員に手を出すんじゃねえ」

突然、潤の後ろから亜久津の声が飛んだ。見れば亜久津はギムレットを差し出しつつ彼をギロリと睨んでいる。

「な、違、ナンパじゃねえよ」
「あれ、亜久津さんお友達ですか?」
「赤の他人だ」
「ハハ、古い知り合いだ。俺はジャッカル桑原。よろしくな」

にっこり微笑む彼に、潤は息が止まりそうになった。だがどうにか顔に全筋肉を集中させて作り笑いを浮かべる。
ジャッカル桑原という名前に聞き覚えがあった。そんな個性的な名前を忘れられるはずがない。たまに仁王や丸井の口から出てくる名前でもある。潤が子供のころ遊びに来た彼に会ったこともある。
つまり、この目の前の彼は立海大付属中テニス部の「ジャッカル桑原」だ。そして、幸村の友人でもある。
亜久津は愛想笑いをする潤を見下ろして口を開いた。

「おい」
「わーっ!わーっ!!」

潤は、亜久津が自分の名前呼びそうな気配を察して叫んだ。ここで名前を呼ばれると困る。桑原は潤の顔を覚えている。本名までばれてしまったら「この店員はあの白岩潤である」と露呈してしまう。そうなれば桑原を通して、アルバイトしていることが幸村に知られてしまうかもしれない。

「うるせえ!なんだいきなり」
「亜久津さん!私は……そう、ルーシーですルーシー!潤じゃありません」
「はあ?」

とっさに頭に思い浮かんだ偽名はなぜか、英語の教科書によく出てくるルーシーだった。なぜルーシー、と自分でも思うが背に腹は代えられない。
潤は桑原に聞こえないように亜久津の耳元で必死に囁いた。なんせアルバイト生命がかかっているのだ。

「お願いします!本名を知られたくないんです!」
「チッ、めんどくせえ」

亜久津は顔をしかめて、しかし潤の本名を口にすることはなくその場を離れていった。潤が亜久津の背中を目で追うと、話を聞いていたのかマスターがこちらを見てニヤニヤしている。

「ジャッカルでいいぜ。お前は亜久津と仲がいいんだな。名前はなんていうんだ?」
「……ルーシーです」
「あー、俺の勘違いか。悪い、別人だ」
「そうでしたか、お気になさらず」

潤は面白がっているマスターをひと睨みすると、皿洗いを再開しつつ内心平謝りをした。この人のいい男を騙すのは申し訳ないが、やむを得なかった。


(20141116)

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