カモマイルの悪魔 | ナノ


夜10時もまわろうかという頃、仁王雅治は白岩邸のキッチンにいた。
のろのろと作業を終えた仁王は最後の力を振り絞って、首から下げていた一眼レフカメラをテーブルの真ん中に置いた。とたんにガクリと椅子に崩れ落ち、前のめりになってテーブルに突っ伏した。研究室にこもりきりの生活を送っていたせいで昔よりもずっと体力が落ちている上に、慣れぬ「仕事」で今日は終日神経が張りっぱなしだった。こうして疲労困憊した体にヤケ酒を入れたせいでもうふらふらだ。

力なく垂れ下がる仁王の銀髪の前にはキッチンに似つかわしくないプリンターが鎮座しており、ガコンガコンと大げさな音を鳴らしながら次々と写真を吐き出していた。
仁王は左頬をテーブルの天板にぴったりくっつけて、両腕をぶらりとさせたまま動けなくなった。まるで死体じゃな、と自分でも思うがどうしようもない。板が冷たくて気持ちいい。

しばらくそうしていると、キッチンのドアが開く音が響いた。

「やあ、仁王。お疲れさま」
「ああ」

何かを言わねば、と思うが頭が回らない。
カチャカチャと食器がぶつかる音がして、気が付けば幸村が仁王の前に湯気の立つティーカップを置いていた。
これはカモミールティーじゃな、と仁王は思う。白岩家でバイトを始めた当初はこのお茶が苦手だったが、潤に付き合って飲むうちに平気になった。鼻先に漂ってきたハーブ特有の香気が、疲れた体にしみ入る。
仁王はおもむろに体を起こして背もたれに体重を乗せ、カップを持ち上げた。ふうふうと息を吹いて熱を飛ばしながら幸村を観察する。
幸村は、プリンターの前に山となった写真を手にとって次から次へと目を走らせていた。

「河西から聞いたよ、ずいぶん遅かったんだってな」
「帰りに飲んできた」
「ああ、どおりで」
「それにしても、お嬢と跡部の写真を撮ってこいと言われるとは思わなかったぜよ」

頼まれたのはもうだいぶ前のことになる。あの時の幸村は異様に冷たく暗い目をしていて、だからこそ仁王は友人として何かしてやりたいと思ったのだ。ところが尋ねてみれば幸村の頼みは「潤と跡部のデートを追跡してその様子を報告せよ」。その頼みの軽さと幸村が提示した謝礼につられて、仁王は二つ返事で引き受けた。
幸村は肩をすくめて少し笑った。

「探偵みたいで楽しかっただろう?」
「……自分で言いたくはないが、どちらかというとストーカーじゃ」

仁王は遠い目になった。
今日は朝から夕方までアトベランドにいたのだ。……男一人で。よりにもよってカップルや家族連れが多い休日に。アトベランドにいたときは潤たちに気取られぬよう追跡することで必死だったから、仁王には自分をそこまで客観的に見る余裕がなかった。しかしイザ終わってみればむなしさに涙がちょちょ切れそうである。

潤たちがビッグファイヤーマウンテンに乗ればトロッコがよく撮れる高台に陣取って写真を撮り、潤たちがコーヒーカップに乗ればさりげなく近くのカップに一人で乗って写真を撮り、潤たちがベンチで休憩すれば密かに背後から忍び寄って会話を盗み聞き。道行くカップルを見るたびに「一体何が悲しゅうてこんなことをせねばならないのか」と思い、そのたびに「謝礼のためじゃ」と自らに言い聞かせ。

潤たちがアイスエンパイア城の中に消えた時は見失ったことに焦り、つい自分も城の中へ入ってしまった。ところが仁王が通されたのは跡部たちが向かったらしきVIPルームではなく一般客向けのレストランで、一時的に追跡を中断せざるを得なくなった。すなわち男一人でレストランのランチを満喫するハメになった。……アトベランドのキャストは非常によく教育されていて、仁王が一人いても皆優しく対応してくれた。ウエイトレスなんぞは仁王が傷心旅行でもしていると思ったのか殊更優しくて、サービスでプリンまでもらってしまった。その優しさが胸に突き刺さる。つらい。
結局仁王は見失った潤たちをそのままにしておくわけにもいかず、周りの客からのなま暖かい視線を一身に受けながら急いで昼食を取るハメになったのだった。

唯一の救いは、変装して行ったおかげで「仁王がランドで一人、コソコソしてたらしいぜ」という噂を立てられる心配がないことくらいである。

幸村は写真をチェックする手を止めると、懐から封筒を取り出した。

「ありがとう、助かったよ。はい、謝礼だ」
「さんきゅ……おお!?」

仁王は封筒を受け取ったとたん、違和感を覚えた。想像以上に厚みがある。怖々、中を覗いた仁王は目を剥いた。封筒の中には万札がずらりと収まっていた。

「な、な、なんじゃこれは!」
「不足だったかい?」
「んなわけあるか!1日の労働で、いくらなんでもこんなにもらえん」
「このごろバイト外の仕事もさせてるだろ。だからその報酬も含んでると思ってくれ」
「そうか……そんならありがたく頂くぜよ。助かった。これでPCが新調できる」

仁王はほうっとため息をついて封筒を鞄にしまった。忙しい研究と資金調達を両立するのは難しいことだったから、ボーナスがもらえるのはありがたかった。

「それに、今回は俺のポケットマネーから出してるから心配しなくていい」
「え?」

驚いた仁王は飲み下しかけたカモミールティーにむせそうになった。
白岩家ではなく幸村が金を出しているということは、今回の件は『執事としての幸村』の頼みというよりも『ただの幸村』としての頼みだということだ。幸村は白岩カンパニーの出世頭だが、まだ若いためそれほど給料は高くないはずだ。それなのに自分の頼みのためだけに大金をポンと出す、と、いうことは。
幸村にとってはそれほど重要な頼みだったということだ。
仁王は咳をしながらこっそり幸村の様子を観察した。幸村は熱心に写真を眺めているだけで特に変わった様子はない。

「それで、仁王。写真の他には?変なことはなかったか」
「特になかったはずだ。お嬢が跡部に抱き寄せられたりはしていたが」
「何?」
「あっ、いや、別にいちゃついていたわけではないぞ」
「当たり前だ」

幸村は冷たく言い放つと、パラパラとめくってそのシーンの写真を見つけ出してしばらく無言になった。沈黙が恐ろしい。仁王はゴクリと唾を飲み込んで、恐る恐る幸村に声をかけた。

「なあ幸村。お前さん、お嬢のこと、本当はどう思っとるんじゃ」
「は?」

顔を上げた幸村を仁王は真剣に見つめた。
幸村が単に執事として心配しているというには、やりすぎているように仁王には思えた。妖しげなチャラ男とデートだというならともかく、潤の相手は跡部だ。大枚はたいてまで監視する必要はないはずだ。
それに、幸村が昔はあれほど可愛がっていた潤との関係をここまで悪化させているのも不思議だ。潤は聞き分けの悪いタイプではないから、幸村が心配して過干渉になったというだけであれほどまで幸村を嫌うとは思えない。
つまり、それほど幸村を駆り立てる特殊な事情があるということだ。

「お嬢が好きだとか」
「馬鹿言うな。そんなわけないだろう。どうもこうもない」

迷いなくハッキリと否定した幸村の言葉に、仁王は頭をかいた。潤が絡むと幸村はどうにもおかしく、『どうもこうもない』ようには見えない。何かがあるはずだ。しかし今の台詞を聞くに、本心でそう言っているようにも思えた。

「俺はただ、しなければいけないことをするだけだ」

幸村は少し呆れたように笑う。その言葉はまるで幸村が自分に言い聞かせているように聞こえて、仁王にはますます幸村が分からなくなった。

「何をしたいのかわからんが、お嬢の全てを把握しようっていうのは無理ぜよ」
「そんなことは考えていないよ」
「なら、どうしてこんな頼みごとをした?」

幸村は一瞬逡巡して、真顔で「誰にも言うなよ」と仁王に忠告した。

「俺は跡部の出方を知りたいんだ。俺が跡部を信用していないというのもあるけど……、あいつのお嬢様に対する接し方が妙だ」
「妙?」
「うん。数ヶ月前に跡部財閥系企業の記念パーティーがあったの覚えてるかい?」
「ああ。そこで跡部とお嬢が初めて顔を合わせたと言っていたな」
「そうだ。跡部とお嬢様のそれ以前の接触はない。にもかかわらず跡部は異様になれなれしかった」
「幸村が知らんだけで、どっかで会っているんじゃないか?」

幸村は一瞬詰まったが、眉間にしわを寄せて首を横に振った。

「それはない、はずだ。あの時が初対面だ」
「跡部はあの性格だ、気に入った女に強引に迫ってもおかしくなかろ」
「昔ならね。今は違う。確かに跡部は強引だが、重要な取引先のお嬢様に無理に迫るほど馬鹿じゃない。絶対に何かある。何かたくらんでいるはずだ」
「……さすがに考え過ぎじゃないか?」
「なら、いいんだけどね」

幸村はため息をつくように囁くと、再び写真に向き直った。
仁王は頭を振って椅子から立ち上がった。仕事は終わった。もうおいとました方がよさそうだ。一眼レフカメラを再び首に下げ、鞄を持ち上げたところで仁王はふと余計なことを言った。

「跡部はホラーが苦手なんじゃな。ホラーハウスに入っていったから出口で張ってたんだが、あいつ、青ざめてたぞ」
「ふふっ、本当かい?写真は撮った?」

突然晴れやかにせせら笑い始めた幸村に、仁王は凍り付いた。最近の幸村は深刻そうな様子をしていることが多かったから密かに心配していたのだが、これはこれで怖い。

「あ、ああ。後ろの方にあるはずだ」
「跡部のやつ、自信満々なくせにお化けが怖いとか傑作だな。いい仕事をしたね、仁王。……ん、どうした?」
「い、いや、なんでも」

背筋が冷える。仁王は慌てて頭を横に振ると、手を挙げて足早に白岩邸を後にした。
──今幸村に対して抱いているもやもやの原因は、単に幸村の性格が悪くなったことに起因するのではないか。いや、もともとあんなものだった……か?
仁王は歩きながら身を震わせて、この件について考えるのをやめた。


***


自室の窓をわずかにあけると、隙間から涼しい風が入ってきた。跡部は窓枠にもたれ掛かって夜風が髪を揺らすに任せる。
仕事に忙殺される毎日に追われ、誰かのために丸一日休みをとったことなどずいぶん久しぶりに思えた。それだけ、大切なこと。
跡部は深く呼吸をした。庭の花の香りがする。それが味気なく感じるようになったのはいつからだったか。

「忘れたというなら、思い出させるまでだ」

跡部は風に花弁を乗せるようにそっとつぶやくと、ゆっくりと瞼を閉じた。
月のない夜だった。


(20141103)


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幸村の頼み事については、2章「予定外の言葉2」参照。

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