カモマイルの悪魔 | ナノ


観覧車の係員が扉を閉めると、二人を乗せた小さなゴンドラはわずかに振れながらゆっくりと上昇していった。人の頭の上、チケットブースの屋根の上、電柱の照明の上、もっと上へ。
潤は黙って景色を眺めた。傾いた太陽はあちらこちらに広がる水面に光を撒いてきらきらと輝いている。カモメが曲芸のようにくるくると旋回している。煉瓦作りの赤い屋根が並ぶ土産物屋の一角は異国情緒に溢れて、眺めているだけでも心が躍った。子供、風船、チュロス、ぬいぐるみ、パンフレット、カメラ、笑顔。遠目に見えるアトベランドの入り口からは次々と人が入ってきて、あたりの活気が衰える様子はない。

「何かいいことでもあったのか?」

感慨に浸っていた潤ははっとして跡部を見たが、その言葉が何を指しているのか理解できず小首をかたむけた。

「機嫌がいいじゃねえか」
「それはもう、楽しいですから!こんなに思いっきり遊んだのは久しぶりで」
「いや、それだけじゃねえはずだ。根本的に以前よりも元気そうに見えるぜ」
「そうでしょうか?」

潤は、確かに今日の自分は元気だったに違いないと思った。朝からアトベランドに行くのを楽しみにしていたからだ。しかし、跡部はそれは関係がないと言う。とすれば、思い当たることは一つ。

「跡部先輩、内緒にしてくださいね?」
「ああ」
「最近、アルバイトを始めたんです。父や幸村には絶対言わないでください」
「アルバイトだと?金には困ってないだろうが」
「ええ。でも、経験したくて」

跡部は体勢を崩して、背もたれ乗せた右腕で頭を支え、訝しげに潤を眺めた。青の双眸に日が射して、潤の心を見透かすかのように光った。

「何かあったのか?」
「ん……私がアルバイトすること、そんなに変ですか?」
「奔放なわけでもねえ潤が、あの物わかりのいい白岩社長に内緒にしてまでバイトをするんだ。何もないわけがねえ」
「う、鋭い……」
「俺様はごまかせねえぜ、アーン?」
「参りました」

満足げに笑う跡部に潤は降参した。跡部は鋭い。きっと自分よりも遙かに多くの人を見て、学んできたのだろうと潤は思った。

「いろいろ経験して、自分がどうあるべきかを見極めたいんです。このままじゃダメだと思って。本当に内緒ですよ」
「お前はそのままで十分いいもん持ってるぜ」
「そんなこと、ないです」

潤は思わず強く否定してしまって慌てて口を閉じた。弁明をしようと再び口を開くが、なかなか上手く言葉にならない。ぎゅっと拳を握って必死で考える。跡部は次の言葉を辛抱強く待っていてくれた。

「自分探しなんて大層なものではないんです。でも今まで流されるままに生きてきてしまって。その都度悩んだり楽しんだりはしているけれど、自分が本当は何をしたいのか、本当は何が好きなのか分からなくなってしまって」
「普通の学生ならそんなもんだろうぜ。本当にしたいこと、人生を掛けるほど好きなことを見つけられるやつなんざそう多くはねえよ」
「そうでしょうか」
「ああ。社会人だって大抵は惰性で働いている。それも悪いことではねえ」
「でも」

跡部は優しい目をしていた。焦るな、お前はそのままでいいのだと。しかしいくら今の自分を肯定されても、潤の気持ちは変わらなかった。焦燥感、劣等感、もどかしさ、無力感、様々な思いが胸中で渦巻いてこのままではいけないのだと叫び出す。

「私はそれじゃ嫌なんです。少なくとも私の両親やうちの使用人や……幸村も、跡部先輩も。皆、強い意志があって自分独自のスタイルで生きていると思うんです。私もそうでありたいんです。なんとなく生きるんじゃなくて」

抽象的な言葉の連なりだった。潤には具体的にどうすればいいかなんて分からなかったから、抽象的な説明になるのは当然だった。潤が自分の生き様を見つけようと始めたアルバイトだって、やってみたところで答えの足がかりになるかどうかなんて分からなかった。けれども、何かをせずにはおれない。
潤が必死で話をしていると、跡部は目を伏せてふっと優しく微笑んだ。

「そうかよ。それならせいぜい頑張りな。自分が自然と拘泥しちまうもんを妥協せずに探せばいい」
「はい!ありがとうございます」
「ああ……例えば、そうだな」

暖かい空気を纏っていた跡部の雰囲気が突然、がらりと変わった。潤はぎくりとして身をすくめた。油断していたところでこれだ。初めて会った時のような、女を取って喰いそうな、ぎらぎらとした男という雰囲気。
跡部は凍り付いた潤の様子をニヤニヤと堪能すると、身を乗り出して潤の両脇に手をついた。

「あ、跡部先輩?」
「……潤」

跡部は口づけるかのように潤の耳に唇を寄せると、蜜のような濃厚で甘い調子で囁いた。

「潤。愛してるぜ」

潤はあっけに取られた。至近距離で跡部と目がある。透き通った青に、ぽかんとした潤の顔が写っている。以前も跡部からこう言われたことがあったが、ここまで本気に聞こえる口調で言われたのは初めてだった。

「好きなもんを探したいなら、俺を好きになればいい。潤がこの俺様に夢中になればなるほど、夢のような日々を送らせてやるぜ」

跡部は真剣な目をしていた。
真剣で、でも。潤は思わず声を上げて笑った。

「あはは、ありがとうございます」

潤は跡部の胸を軽く押してクスクス笑った。跡部の目を見れば「愛の告白」が本気でないことは分かった。本気で跡部は潤を愛していると言っているわけではない。きっと、悩む潤の気持ちを軽くするための真剣な悪ふざけだ。
潤は再び穏やかな気持ちになった。本当に、優しい人。

「……笑うところじゃねえだろ」
「ごめんなさい、嬉しくて。ありがとうございます。おかげさまで元気が出ました」

跡部は近くからのぞき込むようにして真剣に潤の目を見つめた。笑う潤をとっくり見つめてから、跡部は体を離して椅子に座り直し、満足げに目を細めた。

「そんなお前だから、俺は安心して──……できる」
「え?ごめんなさい、なんですか?」
「なんでもねえよ。ますます気に入ったぜ」
「……ありがとうございます?」

何がどうなって気に入られたのは潤にはいまいちよく分からなかったが、とりあえずお礼を言う。跡部は何がおかしいのか、楽しそうにクックッと笑っている。

「まあ、時間があるうちに存分に悩むんだな」
「はい、そうします」
「だが悩みすぎるのも禁物だ。悪夢になるぜ」
「そうですね。……跡部先輩。獏って知ってます?」

いつの間にか観覧車の頂点まで上っていたゴンドラは、空を泳ぐように揺れていた。太陽の光はいつの間にか赤味を帯び始めている。楽しい時間はもうそろそろ終わるのだろう。

「バク?動物のバクか」
「いえ、妖怪の獏です。悪夢を食べてくれる妖怪なんですよ」
「ほう」
「私、神経が細いのか、子供のころからよく悪夢を見るんです。獏に悪夢を食べてねってよくお願いしていました」
「フッ、そんな便利なやつもいたもんだな」
「ふふ。だから大丈夫です。ついでに跡部先輩の悪夢も食べてくださいってお願いしておきますね」

今度は跡部が目を丸くする番だった。それからしばらく目を伏せて、唇の端に小さな笑みを浮かべると、宝飾品を扱うかのような優しい手つきで潤の左手を握った。
軽く触れているだけなのに、跡部の掌から温もりが潤に伝わっていく。
潤は跡部の大きな手をじっと見つめた。こうして手をつないだのは久しぶりだった。最後につないだのはいつだっただろう。腕を持って引っ張られることはあっても、こうして優しい体温を感じたのはいつぶりだろう。
空の端が徐々に橙色に染まっていく。空はまだ水色で、しかしそれも深みを増していく。じきに日は落ちる。
二人を乗せたゴンドラは高度を下げて、だんだん地表へと近づいていった。

「跡部先輩!あの、もしよかったらなんですけど」
「言ってみな」
「その、友達になってくれませんか」

跡部はぽかんとして、たっぷり間を空けてから愕然と叫んだ。

「アーン!?今更それか!?」
「え、だって」
「だってじゃねえ!」
「跡部先輩、社長だし……」
「だから何だっていうんだ!テメエの親父も社長じゃねえか」
「でも、会社の関係もあるから優しくしてくれてたりとか」
「俺様がそんな面倒なことするわけねえだろ!」

跡部はこめかみをひきつらせた。

「樺地先輩と美波のこともありましたし」
「……潤はおまけじゃねえと言っただろうが!」
「言われましたけど」
「お前、素直に見えて妙に頑固だな」
「いたっ」

ゴンドラが地面に戻る。跡部は立ち上がるとピンッと軽く潤の額をはじいた。

「これで許してやる。降りるぜ」
「うう……はい」

潤は跡部に肩を抱かれてゴンドラから降りた。額を押さえつつ跡部を見上げると、跡部は呆れ顔で笑っていた。


(20141014)

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