カモマイルの悪魔 | ナノ


キッチンからは湯気が出ていた。まな板の音もする。いつも通り朝食の支度が行われている。だが中へ入った潤が見たのはいつものメイドではなくバイトの仁王雅治だった。そうだ。メイドの子は仕事を辞めたんだ。いつもなら朝食はメイドが用意していて、仁王は夕食の支度だけだったのに。今日は河西に頼まれて臨時バイトに入ったのだろう。
白いエプロンを着た仁王はベーコンを焼きながらサラダをガラスの器に盛りつけていた。彼は潤の足音に振り返るとにっと笑った。

「お嬢、早いな。おはようさん」
「おはよう、仁王さん。毎度突然でごめんなさい」
「ん?ああ、メイドのことか。こっちは仕事が多い方がありがたいぜよ、給料が入るしな」

彼は苦笑する。彼女が突然辞めてしまったことを知ってるのだろう。なぜ彼女が辞めてしまったのかも。幸村が彼女に何をしたのかも。乾物を入れている白い棚からカモマイルティーの茶葉を取り出すと、仁王は気を利かせてティーポットを出してくれた。

「カモミールティー?どうした。よう眠れんのか」
「……ううん。仁王さん、よく知ってるね」

カモマイルには安眠作用があると言われている。仁王はハーブティーになぞ興味がないと思っていたのに物知りだな、と思って口にすると、彼は頭をかいた。

「お嬢、それ好きなんか」
「うん。亡くなった祖母が眠るときにいつも飲んでて。私もときどき飲ませてもらったりして」
「そうか」

子供のころ悪夢を見て夜中に泣きながら起きる私を心配して、よくおばあちゃんが飲ませてくれたんだっけ。それから今に至るまでよく飲むようにしているけれど効き目はナゾだ。
しかし少なくとも懐かしい香りのするそれは潤を落ち着かせる作用があった。
彼はそれ以上聞いてこようとはせずベーコンとパンをお皿に移した。手を動かす度にしっぽみたいな後ろ髪がひょこひょこと揺れている。ひっぱってみたいとも思うが、さすがに潤の大学の先輩でもある彼にそんなことをする勇気はなかった。理系の彼は大学院に在籍しているが、今は学会前で忙しいはずだった。

「そっちこそちゃんと寝られてますか?最近、研究忙しいんでしょ」
「まあな。俺はもともと睡眠時間が短いから問題ない」

潤はカモマイルティーを一口含む。熱さがじんわりと冷え切った心を温めてくれるようだった。その熱に溶かされるようにしてつい、幸村の古い友人でもある仁王に本音を漏らしてしまった。

「仁王さん。幸村って昔からあんな感じだったの?」

仁王は仕事を終えると潤の前に座って、自分のカップにもカモマイルティーを注いだ。細く揺らめく湯気とともにハーブの香りがただよう。彼はふむ、と息をつくと首をかしげた。

「お嬢はどう思う。10年くらい前から幸村のこと知っとるじゃろ」
「あのころは、優しいお兄ちゃんみたいな感じだった」

幸村は最初、氷帝中を目指して受験勉強をする潤の家庭教師だった。神奈川から出てきて借りる部屋を探していた彼に、うちの離れを貸したんだっけ。彼は未成年とは思えぬほど穏やかでしっかりしていて優しくて、潤は幸村のことが大好きだった。亡くなったおばあちゃんと家を出たお姉ちゃんの隙間を埋めるように白岩家へ来た彼。家族みたいに思っていた。あのころは。
彼はしばらくしてお父さんの会社で働き始め、使用人になり、どんどん出世をして。そして彼は、変わった。

「今は違うんか」
「見たらわかるでしょ」
「お嬢、もう朝ご飯食べるか?」
「うん、いただきます」

仁王はサラダとベーコン、パンの乗った白い皿を潤の前に置いた。スープも付いている。焼いた肉とパンが香ばしい。嫌な朝も、こうやって誰かと話しながら美味しい食事を取れば良くなる気がした。
ほかほかと上がる湯気の奥で仁王もまたパンを手に取った。

「うちで誰かと食事するの、久しぶりかも」
「ん?幸村とはときどき晩ご飯一緒に食べてるじゃろ」
「まあ。でも、息が詰まって」

潤は肩をすくめた。昔からよく一緒に晩ご飯を食べるけれども、楽しかった昔と違って今は圧迫感ばかり感じてしまう。おかげで「お嬢様らしく」食事を取る習慣は付いたけれども幸せな時間ではなかった。作り笑いをする幸村、嫉妬心を抱えてぎこちなく微笑み給仕をするメイド、暗澹(あんたん)たる気持ちを隠してそつなく振る舞う自分。幸村の冷たい笑顔とメイドの嫉妬に挟まれてまるで地獄の時間だ。メイドがいなくなった今でも幸村と一緒にご飯を食べても楽しくはなかった。

「幸村は昔からたくましくて強情でだったな。厳しくて優しい男で周りから好かれとった」
「優しい?今とは全然違うね」
「どうだかな。根本的には変わってないと思うが」
「たくましくて強情っていうのはその通りだと思うけど、今は全然優しくないじゃない。女たらしだし」

仁王は困ったように頭をかいた。そして「確かに、昔はああいうことはせんかったが」などとぶつぶつ言っている。潤は先ほど見た幸村を思い出した。どこが優しいのか全く分からない。一体どうしてこうなってしまったんだろう。『あの事件』の時の幸村は確かまだ優しくて――でも、よく思い出せない。無意識にいやな記憶を封印したいと思っているのかもしれない。
潤はため息をついた。

「男ってわかんないわね。幸村って真面目な人だと思ってたし今だって真剣な顔してたら誠実そうに見えるのに人の気持ちをもて遊んだりして。仁王さんの方がチャラく見えるのに真面目だし」
「ピヨ!ひどいぜよ!」
「あっごめんなさいつい本音が!」
「プ、プリッ……お嬢だって、見た目と振る舞いに反して中身はお嬢様らしくないぜよ」
「うぐ。も、もともとお嬢様じゃないし!でもうまくそれっぽくなったでしょ?」
「まあな。お嬢、昔俺と会ったこと覚えてるか?」
「うん。インパクトあったから」

不思議な気分だった。あのときは幸村も幸村の友人もみんなうんと年上だと思っていたのに、自分が成人してしまうと7歳差というのは意外に近いものだ。仁王は真っ白な長髪を後ろで束ねていて、普通の小学生だった潤は最初びくびくしながら彼に挨拶をしたものだ。
そのときはまさかうちが使用人を雇うほどお金持ちになるとも仁王がうちで働くとも想像だにしていなかった。幸村が自分の執事になるとも、幸村がこんな男になるとも。

「お嬢は、振る舞いやら見た目やらは変わっても基本的な性格はあんまり変わってないだろ」
「うん」
「三つ子の魂百まで、ってな。それは幸村だって同じぜよ」
「そう、なのかな」
「ま、俺にもあいつがなんで憂さ晴らしするみたいに女で遊ぶのかはわからん。だが」

仁王はカトラリーを置くとお茶をまた一口、飲み干した。窓から入る光はだいぶ白み始めていて、人々の起きる時間が徐々に近づいてきている。

「やっぱり俺には幸村がそんなに変わったとも思えん。何か理由があるんだろ」
「理由って、ストレスを女で解消したいとか?」
「幸村の評価が最低ランクじゃな」
「女で遊ぶのは勝手にしたらいいけど、殴られるのは私なのよ」
「何」

きつい口調で言ってしまってからはっと気がつく。しゃべりすぎた。仁王は食事をする手を止めてこちらを注視している。彼は『あの事件』のことを知らないのかもしれない。幸村は仁王に何も言っていないのかもしれない。それなら言うべきじゃない。
潤は何でもない、と言いつくろって最後のパンの一切れを口に押し込んだ。慌ててお茶で流し込んで席を立つ。彼が何か言いかけたところにわざと言葉をかぶせた。

「ごちそうさま、美味しかった。仁王さん、今日は晩ご飯いらないです」
「ゼミか?」
「うん」
「体壊さんようにな。幸村にも伝えとく」
「ありがと」

潤は急いでキッチンから出た。広間を通るとすうっと冷えた風が吹き込んでくる。起きた河西が窓を開けて換気をしているらしい。外からほうきで玄関先を掃く音も聞こえる。まだ肌寒い、桜が散った春の早朝。
今日はできるだけ早く大学に行ってしまおう。このままうちにいれば出社前の幸村と顔を合わせることになるかもしれない。それとも、さっき潤の部屋に来たくらいだから早朝に用事があってもう出社しているのかもしれない。だがどのみち、今はうちには居たくなかった。あまり、幸村の気配を感じたくなかった。


***


お父さんと話をしていた彼は、振り返って私の姿を認めるとにっこり微笑んだ。少し腰を落として私に目線を合わせてくれる。やさしい目。この人が私の、はじめての家庭教師。怖い人だったらどうしようとか勉強についていけなくて怒られたらどうしようという不安はすぐに吹き飛んだ。

「精市くん、これが娘の潤だ。潤、ごあいさつは?」
「は、初めまして」
「初めまして。今度から家庭教師になる幸村精市です」
「幸村先生?よろしくお願いします」
「うん、これからよろしくね。潤ちゃん」

大きな手でゆっくりと頭を撫でられる。
私は、ほっとしたのだ。彼の雰囲気に、彼の優しさに。そして、彼の存在に。一人になることに慣れていなかった私は再び、一人じゃなくなった。彼が来たときから。


(20121126)

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ややこしくてすみません。設定盛りだくさん。

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