カモマイルの悪魔 | ナノ


潤が顔を上げて3階の窓から外を見やると、門の前から続く下り坂のあたりに、ちょうど高原美波らしき女性が坂を登って白岩家へ向かってきているのが小さく見えた。潤は本を閉じて立ち上がった。空には青が広がっている。梅雨の終わりかけた季節。タイミングよく雨の狭間に今日が来て、青空の下でアトベランドに行けるというのは幸運だった。

美波を迎え入れるために潤が玄関の扉を開けると、瑞々しい朝の空気が庭から流れ込んできて全身を包んだ。昨晩の雨で庭木はしっとり濡れて、玄関脇のバラの葉に乗った水滴が朝日を受けてキラキラと輝いている。門へ向かって歩くと、木々が揺れるにつれて葉上の冷えた水滴が脚にぱらぱらとこぼれかかってきた。気持ちのよい日だ。
しかしデート作戦のターゲットである肝心の美波は、門の前で立ち尽くして顔をこわばらせていた。

「美波、おはよ!入って」
「おはよう……」
「大丈夫?あまり寝られてないの?」
「うー、大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」

美波は門の中へ入って来るも歩き方がぎくしゃくしている。潤はそのあまりの緊張っぷりに吹き出しそうになった。合コンでも堂々としていた美波はどこへ行ってしまったのやら。

「なんで。跡部先輩とも樺地先輩とも初対面じゃないじゃん」
「そうだけど」
「ふふ、恋する乙女だねえ」

思わず潤がくすくすと笑うと、美波は潤をべしっと叩いて小声で抗議した。

「仕方ないでしょー緊張するもんはするの!そういう潤は何で緊張してないのよ、好きな人とデートするのにさあ」
「あっ」

跡部に恋しているという設定、忘れてた。

「えーとえーと、だって、跡部先輩優しいし!緊張よりも期待が上回ってるわけよ!うん!」
「……そーなの?」
「うんうんそうなの!それよりほら、跡部先輩が迎えに来るまでまだ時間あるからお茶でも出すよ!」
「そうする、ありがと」

美波の背中を押して玄関へ向かいながら、潤は冷や汗をかいた。デジャ・ビュ。また危なかった。美波が緊張してなかったら見破られていたに違いない。美波と樺地をくっつける作戦を成功させるには跡部に恋してるふりをしなければならないとわかってはいるのだが、いかんせん嘘なのでその設定をすぐに忘れてしまう。
しばらく緊張でぎくしゃくとしていた美波だったが、潤が玄関に招き入れたとたん、ハッとした面もちできょろきょろと辺りを見回し始めた。こわばっていた先ほどまでとは打って変わって何かを探しているような様子に、潤は首をかしげた。美波は潤に身を寄せると、辺りを警戒しながらぼそぼそと耳打ちをする。

「家の人、いないの?」
「? 父さんは今日出かけてるんだ。母さんはまだお姉ちゃんのとこに行ってるし」
「えっと、そういう意味じゃなくて……スパ村さんのこと。まさかと思うけどデートに付いてこないわよね?」
「すぱむらさん?」
「スパイな幸村さん」

変な顔をしていた潤は美波の答えに吹き出した。噴飯ものの造語である。美波が初対面の幸村に警戒心を抱いたことは覚えていたけれど、まさかまだ引きずっているとは思ってもいなかった。

「ぶっ、ははは!なにそれ!」
「ちょっと、私は真剣なんだけど」
「いや、だってスパ村さんって!まだスパイだと思ってたの」
「そうよ!だってあの人、最初はイケメンっぷりにごまかされそうになったけど怖いじゃん!笑ってても感情こもってなさそうだし」
「それは……その通りなんだけどさ。幸村は今日はいないよ」

ふてくされたような顔をしている美波を応接室へ案内する間も潤の笑いはなかなか収まらなかった。応接室のコーヒーテーブルには、河西が入れてくれたのか、暖まったお湯のポットとティーポット、カップ、茶葉が几帳面に置かれている。
潤がなんとか笑いを収めながらお茶を準備していると、美波は潤の隣に座って不可解そうな顔をした。

「そっちこそ何かあったの?なんかされた?」
「ん?何の話?」
「幸村さん」
「え」
「幸村さんのこと話す潤、前と違う気がするんだけど」

潤はドキッとした。美波の顔が見られない。紅茶を入れることに集中するふりをして潤はうつむいた。全く、彼女は冷静になったとたん鋭い感覚を発揮する。

「前と違う、って」
「前は嫌がってたじゃん、でも今は……遠巻きにしてるっていうか?そんな感じ」
「当たらずとも遠からず、かなあ」

最近はあまり幸村のことを考えないようにしている。意識的に避けていた。もちろん幸村が執事である以上は避けられないことも多いが潤は適当な笑顔でしのいでいた。
それに。

──ではもう終わりにしましょう

そう言い放った幸村の顔が目に浮かぶ。あれから、何より幸村自身が潤を避けているように思えた。

「幸村ね、最近あんまり絡んでこなくなったんだよね。いい加減にしてってはっきり言った甲斐あったよ」
「そうなの?よかったじゃない、嫌な言葉って精神的にじわじわ来るし」
「うん、楽になった」

楽になったものの、腑に落ちないようなもやもやが心の隅に残っている。
潤は幸村と綾希の話も美波にしようとしたが、ぐっと喉が詰まった。幸村が絡んでこなくなったのは潤が明確に拒絶したためでもあるだろうが、それ以上に幸村が綾希に本気になったせいではないだろうか。少なくとも潤にはそれが真実であるように思えた。

綾希は今までのメイド達と違って幸村の本性を見抜いているし、洞察力の優れた幸村のことだ、おそらく幸村だって綾希に見抜かれていることに気が付いている。しかし幸村は一考に気に介さず綾希に執着している。潤は、ただの同僚と話すにしては近い距離で幸村と綾希が話しているところを何度か目撃しているし、今思えば、綾希が白岩家に面接に来た時から幸村はことさら彼女を気に入っていた。
本気だから、「愛している」と嘘を付くのをやめたのではないだろうか。
そう言おうとしたが、気管支がぎゅうっとせばまったような息苦しい気分になって言葉が出てこない。落ち着こうと潤が紅茶を口に含むと、口内に広がって奥へ落ちていく紅茶の芳香と共に喉まで出掛かった言葉が消えていってしまった。

「じゃあ他の使用人さんは?」
「河西は家にいるよ。でも今日は忙しいらしくてお父さんの会社と家を往復してるみたい。メイドの泉さんはお父さんの頼みで、幸村と一緒に買い出しに行ってる」

そう自分で答えておきながら、潤はドキッとした。思えば不思議な話だ。今まで白岩社長がメイドと幸村に買い物を命じたことなどあっただろうか? いや、そもそも二人に買い物を頼む理由なんてあるのだろうか。荷物が重いならお店から家へ直接配送してもらえばいいだけの話だし、幸村一人で行かせたっていいはずだ。
なぜ、二人で?
──お父さんは、もしかして、二人がそういう関係だと知っていて。
潤は慌てて頭を振って、考えるのをやめた。自分には関係のないことだった。

「ふうん、そっか。潤がお嬢様だって知ったときはさ、大勢のメイドさんたちにかしずかれてホーッホッホッホって感じの日常を想像してたのに、ホンットに全然違うわね」
「ふふふ、いくらなんでもそんな人いるのかな……あ、榊先生ならしてそう」
「してそう!玉座に座って美人メイドにワイン注がせてそう」
「それでボトルが開いたら『次のワインを持って来なさい。行ってよし!』とか?」
「言ってそう!そんな感じだったよね榊先生」

潤と美波が与太話に花を咲かせて大笑いしていると、外からクラクションの音が聞こえた。おそらく跡部だろう。美波はギクリとした様子で、再び顔をこわばらせている。
潤はさっさと立ち上がって荷物を持ち美波の手を引いた。まごまごしている美波をつれて玄関から門へ向かう間にも自然と笑みが浮かんでしまう。アトベランドに行くのも楽しみだし、跡部と話ができることも楽しみだし、美波と樺地の背中が押せることもまた楽しみだった。


***


門の側には真珠色のリムジンが停まっていた。リムジンの横にはスーツを来た白手袋の運転手が背筋を伸ばして控えている。彼は潤と美波の姿を見るとほほえみを浮かべて腰を折った。
運転手にリムジンのドアを開けてもらうと、中からはオーケストラの調べが溶け出すように聞こえてくる。
ドアの中をのぞけば、跡部がリムジンのソファにもたれ脚を組んで傲岸な笑みを浮かべていた。奥の方に樺地らしき人影もある。

「来たな」
「おはようございます!よろしくお願いします」
「お、はようございます。よろしくお願いいたします」

潤はぎこちない美波の背中を押してリムジンに乗り込んだ。車内は細長い空間になっていて、5人は優に座れそうなL字型のソファが一つ縦に置いてあった。後部には3人掛けの小振りなソファもある。跡部はL字型のソファに、樺地は小振りな方に座っていた。横向きに何列もシートが並んでいる乗用車の内装とはずいぶん様子が違っていて、小さなホテルのように見えた。
潤は思わず美波と顔を見合わせた。スペースが広すぎてどこに座ったらいいのか分からない。
跡部はそんな二人の気持ちを読んだのか、ククッと笑って立ち上がった。そして潤の腕をつかむとぐいっと抱き寄せて、そのまま後ろに倒れるようにしてソファに座った。突然のことに抵抗できなかった潤は、跡部が座った際の衝撃で跡部の肩に額をぶつけた。痛い。

「ぶっ」
「フ、悪いな高原。コイツは俺様の隣だと決まってるんだ」

潤は死にたくなった。笑うしかない。そういう設定なのだから跡部にうっとりしてみせるしかない。潤は必死で自分に言い聞かせた。
──私は跡部先輩が好きだ跡部先輩が好きだ好きだ好きだ。
そんな潤の心情を知ってか知らずか、跡部は愉快そうに振る舞う。

「高原はそうだな、少し狭いが樺地の横でいいな?アーン」
「あ、はい!」

潤は跡部の太股に手をついて、ようやく跡部の胸から身を起こした。初っぱなから酷い展開だ。潤が跡部から体を離してソファの腰掛け、そこで初めて目に留まったのは小さなソファに几帳面に座る樺地と、その隣で緊張した面もちをしている美波だった。


(20140623)

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