カモマイルの悪魔 | ナノ


「……い、おーい。聞いてるか?潤」
「……。え、は、はいっ!」

しゃがみ込んで夢中で作業をしていた潤は、はっとして凝視していた在庫表から顔をあげた。きょろきょろと見回すと、部屋の奥で高い脚立に乗ったマスターが手を振っている。
いつの間にか日は暮れていて、クイーンビークラブの窓から見える向かいの古いビルは夕焼け色に染まっていた。そのせいか電気をつけていない店内は薄暗く感じられる。

「それ、終わったか?」
「あとはここだけです」
「そうか、終わったらこっちへ来い」

潤は慌てて作業を終わらせて立ち上がった。もう何か失敗をしてしまったのかとドキドキしながらしかめっ面のマスターに近づくと、彼は頭をぼりぼり掻いて指で床を指した。

「悪いがそこに立ってくれ」
「へ?立つだけですか」
「ああ、照明の具合を見たいんでな。そう、もっと左、そこだ」

潤は言われた通りに大きく開いた空間の真ん中に立った。今はただの床に見えるそこは、クラブの開店時間になると客が体を寄せ合って踊る場所だった。潤はいつもカウンターの端っこに腰掛けているばかりだったから、踊場から店内を見ると新鮮に見える。
脚立の上のマスターは思う通りにならないのか、口をへの字に曲げて照明をいじっている。その手の動きに合わせて、虹色の光が潤の頭上を行ったり来たりしている。
しばらくするとマスターは脚立から降り、今度は壁際の配線を触りだした。

「あの、マスター」
「まだそのままだ。……あー、こんなもんか。電気つけっぞ」
「わっ!」

パチパチとスイッチを入れる音がすると同時に、天井の四方から白くまばゆい光が潤に降り注いだ。潤は驚いて腕を顔まで上げ、ぎゅっと堅く目を閉じた。しかしライトの光は想像以上に強く、まぶたを通り抜けて目に届く。目が痛い。
マスターは愉快そうに喉を鳴らした。

「ハハ、眩しいだろ?」
「はい。こんなに強烈だとは思いませんでした」

潤は薄く目を開いた。刺さるような光が目に入る。暗いはずの店内は真っ白で、周りに何があるのかも分からない。何も見えない。薄目のまま見上げると、頭上から自分めがけてライトが当たっていることだけがわかった。
──そうか、ここで踊っている人たちはこんな強烈な光を浴びているのか。
潤は薄目を開けたり閉じたりしながら呟いた。

「お客さんたち、こんな状態でダンスしてるんですね。まぶしくて何も見えないのにすごいなあ。暗い店内で一際目立つし。私なら注目されただけで逃げてしまいそうです」
「好きならそんなもんさ。ま、慣れもあるだろうな」
「そんなもんですか」

マスターは「まだ調節すっから動くなよ」と言って、また何かをいじっているようだった。光の色が徐々に赤、黄色、緑、青と変わっていく。

「潤だってそうじゃねえのか。白岩カンパニーのお嬢ちゃんならある意味目立つだろ?俺ならダンスホールで目立つよりもそっちの方が耐え難いね」
「ああ……そうですね、その通りかもしれません」

潤は目を細めて見えぬマスターの方を向いた。
昔の自分と比べればお嬢さん扱いにずいぶん慣れてしまった。注目されることも、陰口をたたかれることも、壁を作られることも、あるいはすり寄られることも。慣れるまでは辟易したけれど、慣れればどうってことはない。
潤は少し笑ってマスターに問いかけた。

「マスターは、私の素性を知っても詳しく聞いたりしないんですね」
「ああ?まーな。いろんなやつが来るんだよ、ここには」

ライトは強くなったり弱くなったりしながら、潤を照らす。

「ここに来るやつらは潤から見たら誰も彼も酒にひかれた賑やかなミツバチどもに見えるかもしれねえが、一皮むきゃあいろいろある。話し出すときりがねえ。いろいろだ。ジンみてえに真面目な奴もいれば詐欺師もいりゃあ、チンピラもいる。お前さんみたいのだっている」
「私、みたいのも」
「ヤンチャなボンボンも来るんだぜ。知っての通り、客の人種だってばらばらだ」
「じゃあ、たまたまここに来た私も普通なんですね」
「特殊だとは思わねえ。平均的な客でもねえけど。まあ縁だな、縁」
「縁」
「そう、縁。そんなもんだろ」

徐々に光に目が慣れてくる。潤があたりを見渡すと、うっすらと店の内装が見えた。しかしまぶしさでよく見えないし、マスターの表情ももちろん読みとれなかった。潤は不思議な気分になった。

──隣に誰かが立っていてもぼんやりとしか分からないかもしれない。

いつものようにカウンターの薄暗い陰の中に腰掛けているときは、すべてがよく見えた。隣に座る人の服装も、マスターの笑顔も、お酒の色も。明るいダンスホールで踊っている人のことは一層もよく見えた。しかし、陰の中にいると光を受けて踊る人はあんなにも輝かしく見えるのに、光の中にいる当の本人には何も見えないのだ。

陰は暗く、しかし周囲を繋げていく。
光は輝かしく、しかし孤独にする。

ただ輝くだけの虹色の光の海の中で、潤はふと跡部のことを思い出した。彼はまさにあらゆる光を一身に浴びているように見えた。育ちも、地位も、美貌も、能力も。彼は自信ありげな笑みを浮かべていつだって堂々と光を浴びている。事実、彼は自分の持ったものを上手く使いこなして、しかもそれを楽しんでいるのだろう。
けれど、だけれども。
跡部がわずかに見せた寂しそうな顔、そして潤に気があるようなことを言う割には愛がないように見える跡部の行動がどうしてもひっかかる。そこに光の孤独を見た気がした。

──思い過ごしかもしれない。跡部先輩を理解しているかのような思い上がり。こんな失礼なこと、本人には言えない。

しかし潤の脳裏には、大勢に囲まれているのに何も周りが見えない、そんな光の中で跡部が一人で立っているようなイメージが浮かんで消えなかった。

「もういいぜ、悪かったな」
「わかりました。トイレ掃除まだですよね?」
「ああ、頼んだぜ」
「はい」

潤は一つ頭を振って、仕事に集中することにした。


***


「お疲れさまでした!」

仕事を終えた潤は裏口から出て、店の入り口が接する表通りに出た。街頭が煌々とついた表通りは、夜だというのに昼間のように明るかった。しかし一歩踏み出したとたん潤は誰かにぶつかってしまい、慌てて頭を下げた。

「すみません!」
「いや、こちらこそ悪い……ん?」

潤が下げた頭をあげると、目の前にいたのは長身でスキンヘッドの肌が浅黒い青年だった。彼は潤の顔を凝視している。

「お前、どこかで俺と会ったことないか?」
「え?」

潤は逆光で見えにくい彼の顔をまじまじと見つめた。きりっとした目元には優しげな光が宿っている。何人なのかよくわからない。日本人にも見えるがラテン系にも見える。日本語が流暢だから日本人なのだろうか。こんなところにいるということはクイーンビー・クラブの客なのだろうが、話しかけられたことはないはずだ。
潤が頭をかしげていると、少し先を歩いていた別の男性が振り返って彼に声をかけた。

「おい、ジャック!ナンパしてんじゃねえぞ」
「ナンパじゃねえっつうの」

言い返した彼の横顔を見ながら潤は唸った。どことなく見たことがある気もするが、ジャックという名前に覚えはない。

「ごめんなさい、たぶん人違いだと思います」
「そうか?おかしいな。あー、いや、悪かったな」
「いいえ、大丈夫です。失礼しますね」

潤は軽く頭を下げると彼の横を通り抜けて帰路につく。すまなさそうに眉をハの字にした彼の顔に、やはりどことなく覚えがある気がする。会社の関係者かもしれない。帰ったら河西に聞いてみよう、と潤は思った。


(20140602)

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