カモマイルの悪魔 | ナノ


帰宅時間が遅くなりすぎるとアルバイトを自主ゼミだとごまかすのが難しくなる。かといって、時間が早いと大学の授業とかぶってしまう。それゆえ、アルバイトのシフトが夕方の早い時間帯からに決まったのは、潤にとってとてもラッキーなことだった。月曜日の午後3時。
一人早足で大通りを歩いていた潤は細く湿った裏道に入ってくねくねと道沿いに進み、クイーンビー・クラブの裏口の前で立ち止まった。そしてお腹に力を込めて大きく深呼吸をする。なんせ潤にとって初めてのアルバイトだ。楽しみでもあり、少し怖くもある。
潤は気合いを入れて裏口の扉を押したが、扉の際でかがんで段ボールを漁っていた男を見てさっそくたじろいだ。大柄で頭は浮浪者のごとくぼさぼさである。見たことがない人だ、と潤は思った。アルバイトにしてはだらけた印象があるし、だがアルバイトではないならこの人は何をしいているのだろう?
──まさか、泥棒?
潤が入り口でためらっていると、分厚い黒縁の眼鏡を掛けたその男は振り返った。そして潤を見、目をしょぼしょぼさせてからおもむろに口を開いた。

「来たな。入んな」

潤に驚くでもなく普通の対応をしたその男の声に、潤は仰天した。

「えっ、マスター?」
「ん?ああ」

マスターだった。彼は立ち上がって大きなあくびを一つした。緩いジーンズにゆったりとしたTシャツを着た彼は、仕事中のダンディなバーテンダー姿とは大違いだった。
彼はぐいっと伸びをするといつもの引き締まった表情になって、屈託なく笑った。

「起き抜けなんだよ。潤ちゃん……潤でいいか?おし、動きやすい服装で来たな。このエプロンを来て、荷物はそっちの部屋のロッカーに入れろ。好きなとこ使っていいぜ」
「はい」

仕事はさっそく始まるようだった。
──マスターを泥棒と間違えたことは、黙っておこう。
心の中でマスターに謝り倒しながら、潤は店名のロゴが入った黒いエプロンを受け取った。仕事着を実際手にすると身が引き締まる思いがする。
──ここから始まるのだ、自分の道は。
潤は大げさな決意を新たに、人気のない店内を見回した。落ちた照明、部屋の隅に寄せられた機材、ところどころ床に転がった紙屑、無造作にまとめられたゴミ袋が三つ。開け放たれた窓からは新鮮な空気が入って、普段のたばこの煙が立ちこめ熱気が籠もった店内からは想像できないほど平和な雰囲気があった。
──初めての労働だ。頑張ろう。
潤は一つ深呼吸をすると、肩に掛けた鞄を持ち直してロッカー室のドアに手をかけた。



***


潤はアルバイト初日のことを思い返しながら、ロッカーで着替えをすませた。初日に比べると今日はだいぶ楽な気持ちで仕事ができそうである。マスターにまでびくつくとは、我ながら相当緊張していたらしい。一通りするべきことがわかっているというのは十分な安心材料になった。
お店のエプロンを身に付けた潤がクイーンビー・クラブのロッカー室から出ると、ふきんでカウンターを拭いていた亜久津が顔をあげた。今日は早くお店に来たらしい。
亜久津は目があったとたん潤を睨みつけると、チッと舌打ちをした。

「まだいんのか」
「え?私のシフトは今からですよ」

潤がきょとんとしていると、亜久津はイライラしながら「そういう意味じゃねえ」と返してきた。全く意味が分からない。潤は頭をひねりながらカウンターの中に入り、亜久津のそばにある棚を開けて在庫表を手に取った。在庫確認は今日もまだ大変そうだ。
亜久津はまた舌打ちをした。

「まだ辞めねえのか」
「辞めたいって思うほど働いてないですよ!今日で二回目ですし。あ、もしかしてまたバイトがすぐ辞めるんじゃないかと心配なんですか?」
「違え」
「じゃあ、えーっと?」
「さっさと辞めろ」
「私なんかミスしました!?ごめんなさい、すぐ直します」
「……違え」
「エ?」

亜久津は目を合わせてくれようともしない。亜久津が何を言わんとしているのかさっぱり分からず潤が困惑していると、シンクを磨いていたマスターがブッと吹き出した。

「潤、ジンはな」
「おい」
「潤がここでバイトするのは心配だから辞めろっつってんだよ。ったく素直じゃねえなあ」
「うるせえ、心配とは言ってねえ!」
「え」

驚いて潤が亜久津を見ると、彼は椅子を吹きながらも鼻に皺を寄せて、凶悪な顔つきになっていた。怖い。

「狼の群に子羊を放り込むようなもんだろうが。テメエまだ分かってねえのか」
「分かってないんでしょうか。でも、いつまでも子羊のままじゃダメだと思うんです」
「ああ?何言ってやがる」
「私はもう成人してるんですよ?いつまでも子羊だったら生きていけないじゃないですか。だから」
「ナマ言ってんじゃねえ」

タオルで手を拭いていてたマスターは再びブッと吹き出して、ゲラゲラ笑い始めた。シンクは今日も銀の清潔な輝きを放っている。

「ハハッ、狼が子羊を説教してるぜ」
「うるせえ!潤、テメエは役に立たねえから帰れ」
「役に立ってるぜ。あの崩壊していた在庫確認、潤のおかげで昨日からだいぶ進んだぜ」
「何」

亜久津は潤の手から在庫表を奪い取ると、念入りにチェックし始めた。亜久津は紙をめくって一通り確認すると、小さく舌打ちをして、潤に押しつけ、「倉庫から酒を取ってくる」と呟くと裏口から出て行ってしまった。
潤がマスターを見上げると、彼はパチッとウインクした。

「潤はジンがかわいがってる後輩と似てんだ、世間ずれしてねえって意味でな。だからつい世話焼いちまうんだろ。でも、ま、良かったじゃねえか、潤?ジンに働きを認められて」
「認めてもらったんでしょうか。私、まだろくに仕事してませんよ」
「在庫確認、めんどくせえだろ。うちは小さいクラブだが扱ってる酒の種類も食い物の種類も多いからな」
「まあ、確かにそうですね」

潤は手にしていた在庫表を一別すると、頭を押さえたくなった。PCで管理すればもう少し楽だろうにデジタル化はまだされていない。
マスターはニヤッとして自分の額を指さした。

「しわ、眉間に皺寄ってるぜ、潤」
「えっ、ほんとですか」

潤は慌てて眉間の力を緩めた。無意識に難しい顔をしていたらしい。お酒や食料の在庫確認の仕事は思っていたよりも細かく、おまけに最近は人手不足ゆえに雑な管理しかできていなかったようで、現状を記録するだけでも一苦労だった。チェックする分量は多く、似た名前のものも多いためややこしい。殴り書きの表、整理の行き届いていない棚、微妙に間違った数字、売り上げと在庫状況の対比。しかも気合いをいれて素早く終わらせないとあっという間に開店時間になって今度はホールスタッフとしての仕事が始まってしまう。単純作業ではあるが神経を使う。これならカウンターを拭いたりゴミを分別したりする方がはるかにたやすい。
今は潤と亜久津の二人で在庫管理をしているが、それでもまだ忙しいくらいだった。アルバイト初日にすることはどうせ掃除か何かだろうと潤は思っていたが、予想以上に重要な仕事が振ってきた。

「大変だったろ?後回しにしてたらあんな状態になっちまってよ。だが潤は投げ出さねえな。得意か?」
「そうかもしれません。大変なんですけど、こういう作業は嫌いじゃないです」
「そいつぁ良かった。面倒な上に地味なもんだろ、裏方ってのは。ここんとこバイトに来たやつはカウンターで派手にシェイカーふる仕事がしたかったのか、それとも数字が嫌いだったのか、在庫確認まかせたらすぐに根をあげやがった」

最近は人手不足ゆえにマスターと亜久津が細切れに裏方の仕事をするより他なく、てんてこ舞いだったのだと言う。聞けば、事故や病気が理由でたまたま同時期に複数の社員が抜けて、その穴をアルバイトで埋めねばならなくなり、しかしなかなか適材が来ず、という状態だったらしい。潤が客としてクラブに来ていたときはマスターも亜久津もそんな大変さはおくびにも出していなかったので、潤はとても驚き、同時に関心したものだった。

「だが、おかげでなんとかなりそうだぜ」
「お役に立てて良かったです」

潤はマスターににっこり笑いかけながら、ふと、亜久津の凶悪な表情を思い出した。
確かに在庫管理は重荷だが、副店長である亜久津も一緒にやってくれるからそこまで気を張る必要はない。亜久津はことあるごとに相手を睨み、凄む癖があるが、根は優しい。いや、根は優しいが凄む癖があると言った方がいいか。亜久津が優しいことを知っていれば全く恐れる必要はないとわかるが、初対面の人が亜久津に凄まれたら見たら怖じ気付くかもしれない。……むしろ亜久津と二人だからこそ、アルバイトは逃げ出したくなるのかもしれない。


(20140524)

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