カモマイルの悪魔 | ナノ


押し上げた窓から2、3の雨粒とともに涼しい風が教室に吹き込んできた。昼前から降り始めた雨は緑をいっそう濃くしている。雨が降っているとはいえ季節はすでに晩春だ。窓を開けたままにしても寒くはないだろう。
潤は外に向かって大きく深呼吸をした。そうすると肺の澱みが消えて体が軽くなる気がする。

「潤、風邪でも引いてんの?今日は深呼吸ばっかりしてるわね」

椅子に座って足を組んだ美波は、眉をひそめて言う。
潤は首をかしげたが、すぐに原因に思い当たった。風邪は引いていないが体力は確実に減っている。

「昨晩バイトがあってね、疲れが残ってるのかも」
「えっバイト始めたの!?昨日メールで言ってた『話したいこと』って、それ?」

潤はあわてて首を振った。バイトの話もしたいけれど、今回はもっと重要な話がある。彼女に逃げられないように直接話さなければならないことが。

「ううん。バイトの話はまた後で。この前、土曜日空いてるかどうか聞いたでしょ。そのことなんだけど」
「遊びに行きたいとか?」
「うん。その日アトベランドに行くことになったんだけど、一緒にいかない?」
「えっ、アトベランド!?行く、行きたい!いいの?やったー!よくチケット取れたね!」

美波は顔を輝かせて歓声をあげた。満面の笑みを浮かべている。
潤は美波の反応の良さにほっと胸をなで下ろした。万が一アトベランドが嫌いだったらどうしようかと思っていたが、それは杞憂だったようだ。さすが老若男女に大人気のアトベランドである。まず第一関門を突破した。問題は、この次。

「それでね、他に一緒に行く人がいて」
「うん、もちろん大丈夫よ!だれだれ?由奈?葉月?それともお姉さんとか?」
「ううん、そのー…………跡部先輩」

美波はぽかんと口を開けた。おにぎり弁当のふたに手をかけたまま固まっている。沈黙。
予想通りの反応である。潤が辛抱強く美波の反応を待っていると、数秒の沈黙ののち、彼女は猛烈に首をふって諫めるように叫んだ。

「ちょっと待って!跡部先輩とアトベランドって、デートじゃない!!」
「うん、まあ」
「そんな関係になってたの!?向こうから誘われたの?どこまで進んだの?今どういう仲に!?」
「え、えーっと」
「っていうかそれ、私を誘ったらダメじゃん!デートなら二人で行かなきゃ」
「二人じゃないの。樺地先輩も来るんだ。だから美波にも来て欲しくて」

樺地先輩と口にしたとたん、美波の顔色が変わった。おおっぴらにしていた好奇心をひっこめて、戸惑い、口ごもる。潤は激しく動揺している彼女の様子を伺いながら、慎重に言葉を選んだ。

「それでね、男2人に女1人だとバランスが悪いでしょ。跡部先輩も友達を連れて来いって言ってくれたから、だから──」
「樺地先輩は跡部先輩のボディーガートか秘書代わりなんじゃないの?それなら私は仕事の邪魔になるから……」

潤はさっそく返事に詰まった。鋭い。実際、樺地本人は、跡部に付き従う秘書としてアトベランドに来るつもりだろう。美波だけでなく樺地もまた、跡部と潤が共犯関係にあることを知らない。
ここからどう誘おう、どうしよう、と潤が迷っているうちに、美波は小さく呟いた。

「ううん、やっぱり、ダメ」
「そんなことないよ」

美波はかぶりをふって、スカートの上でぎゅっと拳を握った。

「ダメ。樺地先輩の邪魔になっちゃう。それは嫌だから……」

美波は切れ長の瞳をすうっと窓の外へ移した。少し眉尻を下げて、どこか遠くを見るように。その横顔は消え入りそうなほど透明で儚げだった。
潤は瞠目した。こんな彼女は見たことがない。潤の知る高原美波は自信と輝きに満ちていて、どんなときも堂々としていて、千石のような大人の男を相手にしても対等に渡っていける女の子だ。話がうまくて、真っ直ぐで、まるで太陽のような強さをもっている。そんな子が今や、まるでひびの入った磨り硝子の欠片のように脆く、危うい。それでいて川底の光のようにきらきらと繊細に輝いている。
これが恋の力か、と潤は不思議な気持ちになった。

「正直、行きたい、けど。でもやっぱり……」

うつむいてしまった美波の姿を見て、潤は大きく息を吸った。ええい、いちかばちかだ。こんなに早く「最終兵器」を使わねばならないとは思わなかったが仕方あるまい。
「美波のために」と言えば彼女が遠慮することは目に見えていた。だったら「私のために」来て、と言えばいい。

「美波。あのね。私、跡部先輩のことが好きなの!」
「え?」

美波はびっくりした顔で潤をまじまじと見た。
潤は内心ガッツポーズを取った。美波の気を引くことに成功した。跡部が好きだというのは大嘘だが、今の動揺している美波は嘘に気がつかないに違いない。これで畳みかけるしかない。

「だから、できたら二人っきりになりたくて。美波が樺地先輩の相手してくれたら私も跡部先輩と二人になりやすいかなって思って」
「えっ」

美波が真顔になった。真剣に何かを考え込んでいる。
潤は冷や汗をかいた。彼女が冷静になれば自分の嘘などすぐに見抜かれてしまうだろう。この嘘は賭だった。だが幸いながら美波は潤の話を疑ってはいないようだ。いいぞ、このまま、このまま。
ダメ押しをしようと、潤はパンッと手のひらを合わせて頭を下げた。

「こんなお願いしちゃってゴメン!でもこんなこと頼めるの美波しかいないし、樺地先輩と美波は仲良さそうだし」
「よっ、良さそう、かな?それならいいんだけど」
「仲いいじゃん!性格も合ってそうだし、美波と話す樺地先輩は楽しそうだって跡部先輩も喜んでたよ」
「跡部先輩が?そっか、そうかな……ねえ、本当に私が行ってもいいの?」
「もちろん!跡部先輩も私も望んでるし、樺地先輩も喜ぶよ」
「じゃあ、行く」

こわばっていた美波の顔はようやくほころんで、その頬は徐々に薄紅色に染まってきた。ミッションコンプリートだ。
潤はほっと安心して笑顔になった。美波はそんな潤を見て何を思ったのか、くすっと笑いをこぼした。

「まさか、ガードの堅い潤に春が来るとはねえ」
「い、いいじゃない別に」
「喜んでるのよ。で、跡部先輩のどこが好きなの?」
「えっ……えーと、うーんと……」
「はっはーん、全部好きってやつ?恋する乙女ねえ」

先ほどまでのしおらしさはどこへやら、美波はニヤニヤと笑い始めた。
なんて答えればいいのか、潤は焦った。どこが好き?顔?自信家なとこ?服装の趣味?どれもピンとこない。これはまずい。非常にまずい。美波は鋭い。跡部との関係を詳しく聞かれたら、実は恋などしていないとバレかねない。恋愛経験が豊富だったら適当に恋情をでっちあげられるだろうが、生憎そっちの方向にはとんと縁がない。

「そ、それより!バイトの話!」
「ふふ、照れちゃってー。まあいいけどね、私は潤の恋を暖かく見守るから」
「……それはどうも」
「それでバイトって、何してるの?お父さんの会社で事務とか?」
「ううん」
「じゃあカテキョ?塾講師?」
「ううん。亜久津さんのところで働き始めたんだ」
「ハア!?」

美波は目を見開いて喫驚した。ガタンと椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
話題を逸らすことに成功した潤はほっと息を吐いた。「お嬢様」な潤が跡部に恋することよりも、亜久津の元で働くことの方がインパクトがあるに違いないと思っていたが、予想通りの反応が返ってきた。

「ちょ、ちょっと待ってよ!本気?冗談でしょ?」
「本当だよ。昨日が初日。美波に早く報告しようと思ってたんだけど」
「報告してよ!びっくりしたじゃん!でも大丈夫なの?お父さんとか幸村さんに反対されない?」
「内緒でバイト始めたんだ」
「ハア!?え、ええ、内緒って、……マジで?」
「マジで」

美波は再び椅子に座り込むと、乾いた笑いを漏らした。

「妙に大胆なとこあるお嬢様よね、潤って」

潤はにっこり笑って、初めて経験したバイトについて話そうと口を開いた。
いつの間にか、雲の切れ間から光が射している。


(20140504)

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