カモマイルの悪魔 | ナノ


幸村は、簡単な業務報告をした綾希ににっこりと微笑んだ。ちょうどタイミングがいい。今度こそ、と幸村は腹に力を込める。
綾希は次の幸村の行動を察したのか、愛想の良い笑顔を消して嫌そうな顔になり、ふいっとそっぽを向いた。しかし幸村はこの程度の反抗で追求の手を緩めるつもりは毛頭なかった。

「それで?」
「……とは?」
「君が白岩家へ来た目的は何だい?」
「ずいぶんストレートですね」
「もう遠回しに聞く意味はないだろう?跡部は何が知りたくて君を送り込んだんだ」
「何を言っているのかわかりません」

幸村は綾希のあごをつかみ、無理矢理自分の方を向かせた。ごまかしなどさせるものか。幸村は笑っていない目を細める。
綾希は顔をしかめると挑むように幸村をにらみつけた。
──気骨がある。こんな性格だからこそ、白岩家に来たのだろう。
幸村は薄ら笑いを浮かべて言葉を並べた。

「じゃあ分かるように言ってあげよう。君は跡部家の者だろう?」
「まさか。私みたいな庶民が跡部家と関わりがあるわけないでしょう」
「ではなぜ跡部の者が不在の奥様に挨拶に来たのだと?」
「さあ。跡部家の方の考えることなど分かりません」
「……嘘をつくなよ、泉綾希」

幸村は声を低くしてゆっくりと凄むように語りかけた。
綾希はビクッと身をすくませるが、口はしっかり閉じたままだった。その忠誠心の厚さを幸村は喉の奥で笑うと、なだめるかのように再び優しげな声を出した。

「泉綾希。俺の顔に見覚えがないかい」
「知りません」
「よく見なよ。まあ君が覚えていなくても不思議ではないけどね。ヒントは、そうだな」

──ピピピピピ。

そう言い掛けたところで幸村の携帯がけたたましく鳴り始めた。綾希は幸村がそちらに気を取られたのを機に手をふりほどく。
幸村は話が中断されたことに苛立ちを覚えた。しかし無視するわけにもいかない。幸村は舌打ちをするとすばやく部屋から廊下に出、携帯を尻のポケットから取り出して耳に当てた。

「もしもし」
「幸村か。俺だ」
「真夜中に何の用だ」

思わずぶっきらぼうな返事が出た。よりによって話を邪魔したのは跡部だった。


***


電話を切った幸村は、自室へ入ろうとしていた綾希をすんでのところで再び捕まえた。腕をがっしりと掴んで廊下の真ん中まで引きずるように連れて行く。幸村から逃げ損ねた綾希は先ほどよりもさらに嫌そうな顔になった。

「なんです、幸村さん。もう話すことはありませんよ」
「それとは別件です」

幸村は自分が不快そうな表情を露わにしている自覚があったが取り繕う気にもなれなかった。綾希はいぶかしげに眉を顰めた。

「跡部から連絡が来ました。跡部がお嬢様とダブルデートをすることになったようですが、泉さんは何かご存じですか」

綾希は息を飲んで目を丸くした。そしてしばらくの沈黙の後、小さな声で自分の記憶を確かめるように呟く。

「いえ、何も」
「ほう。本当に何も知らないのですね。ふーん、そうか……いったいどういうつもりなのやら」

潤は綾希にも跡部のことを特に相談していないらしい。幸村は綾希から手を離すときびすを返して、イライラと階段を上った。
跡部が何を考えているのか全く理解できなかった。若い頃はともかく、今の跡部は女性に安易に心を許すことはないと聞いている。大企業を率いる御曹司らしく慎重で、遊ぶようなことはあっても深入りすることはないとのことだ。当然だろう、跡部の結婚は社長夫人を決めることと同義だから。
その跡部が潤に接近している。跡部財閥と取引もある「白岩家の娘」という潤の立場上、跡部の遊び相手としては不適切だ。その上、跡部はあろうことかわざわざ白岩社長にまで許可をもらっている。ただの遊びにしては異常だ。

──俺は本気だ。

跡部の言葉が思い出されて幸村は一層不愉快になった。
そもそも、潤と跡部の出会いは不可解なものだった。
あのパーティーでの出来事。主催者側の人間である跡部が足を痛めた客人の手当をする、ここまでは自然だ。だが跡部が潤を追いかけて小部屋に入った幸村を見ても驚かなかったあたり、潤が白岩社長の娘だと知っていたはずだ。跡部が写真で潤の顔を知っていたと仮定しても、初対面の潤にあれほど入れ込むのは不自然だ。一目惚れであったとしても、もう少し真摯な対応をしそうなものである。

幸村は潤の部屋の前で立ち止まると耳を澄ませた。部屋からは何の物音も聞こえない。幸村はノックもせずにそっと扉を押し開けた。

潤の部屋は静まりかえっていた。ベッド脇の大窓から煌々と白い月光が差し込んでいる。その照らされたベッドでは、掛け布団の上に潤が普段着のままで横たわっていた。右手のそばに携帯が転がっている。
幸村は洋ダンスの引き出しを開け、潤のパジャマを取り出した。それを脇に抱えて足音を立てぬようにベッドに近づき、無造作に転がっていた潤の携帯の電源を切ってサイドテーブルに置いた。それから潤の顔をのぞき込む。潤は小さな寝息を立てていた。赤らんだ頬には涙が一つこぼれている。いったい何があったというのか。幸村は顔をしかめると親指でそっとそれをぬぐい取った。

パジャマをベッドの端に置いた幸村は潤のブラウスのボタンに手をかけ、それから躊躇い、手を止めた。寝るならパジャマに着替えさせるべきだ。しかしいくらなんでも男である自分がするのはどうかと思うし、かといって綾希には頼めない。女性一人の力で潤を起こさぬように抱き上げて着替えさせるのは不可能だ。河西に頼むのは論外である。潤を起こすのも忍びない。結局幸村は潤を着替えさせるのを諦めて、ふうっとため息をついた。
仕方なく潤の背中に左腕をまわして上半身を起こし、起用に上着だけを脱がせる。そして膝裏に右腕を入れて潤を抱え上げると、ベッドの中央へ運び、めくってあった布団を掛けた。

月の光が布団からのぞく潤の顔を白く浮かび上がらせていた。幸村はその傍らに立ち尽くした。潤を見下ろす幸村は無表情だった。


***


綾希はあっけに取られて、幸村の背中を見送った。階段をのぼる音がして、足音が遠ざかっていく。しばらくすると扉を開ける音が小さく聞こえた。幸村が潤の部屋に入ったのだろう。
しばらくしてようやく、綾希は自室へ入った。後ろ手で静かに扉を閉めて、その場に立ちすくむ。

──跡部景吾は潤様に本気なのだろう。そうでなければデートなどと言い出すはずがない、あの人が。
──そして潤様は素直で、しかし芯のある良い女性だ。きっとうまく行くだろう、あの二人は。

綾希は頭をゆっくりと振ってからベッドに腰掛け、自室を見回した。8畳ほどの部屋。跡部家はもとより白岩家からも「小部屋」と呼ばれるサイズだ。
だが庶民である綾希にとっては十分な広さだった。大学入学のために上京した18歳のときからしばらく下宿していた部屋は5畳しかなかった。小さくて古汚い部屋で慎ましく暮らしたものだ。何に浪費するでもない生活をしていた。だがそれでも家賃や生活費、学費を自分で稼ぐのは大変だった。
そんな状況になった理由はしごく単純なもので、実家の家計が厳しかったからだ。両親は共働きだったからことさら所得が低いわけではないが、兄弟が多かったため必然的に学費や生活費は自分で稼がざるを得なくなった。
綾希はそんな自分の境遇に納得していた。夜遅くまでバイトをするのは辛かったが、幸い職場の人間関係には恵まれていたから乗り切れた。友人に比べれば労働時間は長かったが文句を言っても仕方がないし、自分と似たような境遇の子もいた。奨学金をもらって必死でバイトをすればたまに遊びに行く余裕はあった。だから、もう働きたくないと思うことはあっても、さして鬱屈した気持ちを抱いていたわけではない。
春になればお弁当を作って友人と花見をし、夏になれば花火を見に行き。秋には紅葉狩りで目を楽しませて、冬にはお金を貯めて温泉旅行に行った。商店街で安くていい品物を発掘したり、月末にはご褒美にお店のケーキを一つ買ったり。綾希は大変ながらも、そんな生活を楽しんでいた。

──あの時もし、普通に飲食店か何かのバイトを探していたら。もし、お屋敷で働いてみたいだなんて思わなかったら。そうすればあんな気持ちを抱くことはなかったのに。

でも、出会ってしまった。
跡部景吾に。
圧倒的だった。身分も、財力も、名誉も。能力も容姿も何もかも。自称していた通り彼は「王」だった。
跡部家で勤め始めたころの綾希は跡部を遠目に見て感激するくらいなものだった。こんな貴族めいた人間は本当にいるのだと、雲の上の人を見るかのように思っていた。だがお屋敷の中で働くことになって、跡部との距離が近づいた。綾希は必死で仕事をした。跡部のように堂々と生きたかったから、少しでもああいう人間に近づきたいと努力をした。跡部家の人たちはそんな綾希を高く評価した。
少しずつ重要な仕事を任されるようになって、跡部の目にも留まり、じきじきに用事を命じられるようになった。大学を卒業してからは正式にメイドとして働くことになった。

お金のことをさほど心配することなく、好きな仕事ができて。
幸せなはずだった。
それなのに、いつも惨めだった。
上の世界へ憧れて、上へ上へと登るほどに惨めになった。

跡部景吾に近づけば近づくほど、努力では埋められない差が目に付いた。あがいてもあがいてもどうしようもない。それどころか、その差はどんどん大きくなって自分に迫ってくるようだった。
時が経てば経つほど、綾希は苦しくなっていった。幸福感と惨めさに挟まれて混乱するばかりだった。だから逃げ出したのだ。秘密の『仕事』は格好の、自分に対する言い訳になった。

──自分に言い訳をしていると、分かっているのに。

「馬鹿みたいね」

綾希はぽつりと独り言を言うと、右手で顔を覆って長いため息をついた。


(20140413)

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