カモマイルの悪魔 | ナノ


微弱な熱を発するスマホの向こうから、跡部の、子供に言い聞かせるような優しい声がする。潤は酔いの回った頭でぼんやりと天井を見上げた。周りの空間がゆらゆらと揺れて見える。飲み過ぎてしまったのかもしれない。そういえば今日は、千石や亜久津と楽しく話をしていたせいかお酒がおいしくて杯が進んだ。

「白岩夫人は長らく家をあけているそうだな」
「そうなんです、姉の育児の関係で。よくご存じですね」
「まあな。白岩社長も多忙な人だ、普段は家にいねえだろう。なんならうちにでも来るか?」

潤は跡部邸とそこで働く大勢の人たちを思い浮かべて、軽い笑いをもらした。跡部にとっては客人を住まわせることくらい容易なのだろう。それでも、申し出はありがたい。
やはり自分は周りから気遣われているのだ、と潤は思った。それでもこの思いは消えてはくれない。

「ふふ、ありがとうございます。確かに両親はいませんが使用人も友人もいますから」
「無理はするなよ」
「大丈夫です。……跡部先輩、私、恵まれていると思うんです。私がこうなったのは途中からですけれど」

ぐるぐると回ってきた視界に、精巧な細工が施された天井の模様が飛び込んできた。万華鏡のように綺麗な模様に見えるそれは、潤の母親がこだわって作らせたものだった。白岩一家がかつて住んでいた家の天井はただの杉の板張りで、あちらこちらに黒いしみができていてボロボロだった。それを母親は嫌がっていたのだ。だが潤の祖母はその中で一番大きなしみを差して「獏はあんな形をしているのだ」と教えてくれたものだった。だから、潤は嫌いではなかった。
あのころと、今。全てが変わっている。変わるべきなのだ。潤もまた、変わる決心をした。

「確かに今は家族となかなか会えないけれど、私はもう成人してますし。私の様子を尋ねるメールはよく来るんです。仲良くしてくれる友達だっているし、遊びに誘われたり、こっちから誘ったり。使用人だってみんな優秀だし、それだけじゃなくて私のことを心底気遣ってくれているなあって」

自分のことをぺらぺらしゃべってみっともない、と潤は頭の片隅で思った。しかし話を続けてしまう。酔っぱらって口が軽くなっているせいもあるが、跡部には本音が話しやすかった。自分よりもずっとお金持ちで実力者で美形な跡部に対しては、何を言ったところで自慢にもならないし嫌みにもならない。跡部のような立場の人になら「恵まれているんだから不満を言うな」とも言われないだろう。
跡部は黙って耳を傾けてくれているようだった。やっぱり、優しい。

「でも、でも、それなのに」
「満たされない、か?」
「はい。満たされないんです。寂しいんです。なぜなのか分からないんです。人にも物にもかこまれてるのに。大切にもされているのに。それなのに何かに飢えていて、何故なのかが分からない。自分がないからなのかなと思って……それで、私も……跡部先輩みたいに自分の道を見つけたくて……」

だんだん頭が重くなってきた。体は暖かく、視界が黒く染まっていく。潤は瞼をゆっくりと降ろした。

「潤?」
「積極的に……何かしてみようって……でも、それでも……」
「酔ってるのか?」
「今日は少し……飲んで……」

遠くで跡部の声が聞こえる。子守歌のような声音。それはまるで帰れない昔の日々を懐かしむように感じられた。


***


跡部は携帯を握りなおして立ち上がった。カーテンを引くと欠けた月が煌々と広大な庭を照らしていた。

「潤、寝たか?」

返事はなく、ただ小さな寝息が聞こえる。今日の潤がややテンション高く思えたのは酒のせいか、と跡部は合点した。窓から庭を見下ろすと、潤に贈った薔薇が花壇の一角で蔓を延ばし絡み合っているのが見えた。跡部がことさら大切にしていたその薔薇を、しかも花束に向いているわけではないその薔薇をわざわざ切って贈ったのは、それだけ「思い」があるからだった。負けるわけにはいかない思いが。

「またかわされた、か」

跡部は小さく呟いて通話を切った。そのまま手早く操作をして再び携帯を耳に当てる。ワンコール、ツーコール、スリーコール。さして待つでもなく電話は繋がった。

「もしもし」
「幸村か。俺だ」
「真夜中に何の用だ」

普段の幸村と比べるとずいぶんぶっきらぼうな返事に跡部はククッと笑いを漏らした。幸村が跡部を良く思っておらず、それが潤との一件のせいであることは明白だ。

「そんな態度でいいのか、アーン?お前の大切なお嬢様のことだぜ」
「何」
「潤が寝ちまった。ブランケットも被ってねえ可能性がある。万が一風邪でも引かれたら困るからな、様子を見てやれ」
「なぜ跡部がそんなことを知っているんだ」
「潤と電話をしていたからだ」
「……そうか。教えてくれて感謝する」
「おい、待て切るな。話はまだだ」

跡部は笑いをかみ殺した。今の幸村はなかなか手の内を見せない。めったに動揺することもない分ビジネスにおいては交渉しにくい相手だ。しかし、潤のこととなるととたんに感情がむき出しになる。それが跡部には滑稽に見えた。よほど箱入りにしたいらしい。

「仕事のことならまた後日に」
「いや、潤とのデートの件だ」
「は?」
「再来週の土曜日だ。俺様は潤とデートにいく。いいな?」
「いいわけないだろう。白岩社長に」
「すでに話は付けてある。白岩社長は諸手をあげて喜んでいたぜ」

幸村は沈黙した。跡部の予想通り、白岩社長の許可がでているとなれば何もいえないようだった。それに乗じて畳みかけるように言葉をつなぐ。猶予は与えない。

「なあ、幸村。何が不満だ?」
「はあ?」
「潤のことだ。言っただろうが、本気だと。潤の相手としては俺様なら十分だろう?」
「まあ、社会的地位はね」
「白岩社長も潤も納得していて、社会的にも問題がねえならなぜ邪魔をする」
「跡部の性格が気にくわない」
「……言うじゃねえの」

一瞬の沈黙ののち、感情のこもらない幸村の声がゆっくりと聞こえてきた。

「女性についた噂は消えにくいから執事として慎重に対応しているだけだ。白岩社長が望むなら、俺は問題ないと思っている」
「そうかよ。言いたかったことはそれだけだ。じゃあな」
「ああ」

跡部は通話を切ると、ソファに座り込んだ。しんとして何の音もない部屋。ただデスクライトの弱い橙と月光の白が部屋を満たす。月の光は不思議だ、と跡部は思った。明るいくせに色がない。照らされても物は灰色に輝くだけだ。
幸村と話しているときは「成し遂げた」満足感に浸っていたというのに、こうして一人になったとたん、迷いや後悔、寂寥、そういったものに体が支配されてしまう。跡部はふうっとため息をつくと、力なくソファに身を預けた。ギシ、とソファがたわむ。

まだだ、まだ。まだ足りない。

脳裏に先ほど潤がたどたどしく紡いでいた言葉がよみがえってくる。恵まれているはずなのに、満たされない。その気持ちは跡部にはよく理解できた。締め付けられるような寂しさ。物に囲まれていても人に囲まれていても、それでもなお足りない。子供のころはそう感じたことはなかった。自分の欲しいものはすべて自分で手に入れてきた。それなのに。今まではそんな気分になったことはなかったのに、『あれから』、どうしようもなく乾くようになってしまった。飢えている。足りない。どうしようもなく。

背後から小さなノック音が聞こえた。跡部が「入れ」と呟くと、樺地が静かに入室してきた。樺地は何も言わず、ドアを閉めて入り口の横に控えた。

「なあ、樺地」

跡部は言い掛けて、言葉を詰まらせた。思わず両手で顔を覆う。声にならない思いが渦巻いて跡部を責め立てていく。

「なぜだ、なぜなんだ」

跡部のささやくような小さく掠れた声は、震えていた。
樺地は無言のまま跡部の斜め後ろ、ごく近くまで歩み寄り、そこで足を止めた。跡部が嗚咽をこらえている間、樺地は跡部を見つめて静かに側に寄り添っていた。まるで王を守るかのように。


(20140331)

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