カモマイルの悪魔 | ナノ


光を受けてキラキラと輝くハイヒールのビジュー。喝采に混じる口笛。クイーンビークラブは香水、アルコール、音楽、踊り、そんなもので満ちていた。それは潤がいつも見ていた光景であるのに、今日はより一層自由で愉快に見えた。それは冗談を言う千石や眉間に皺をよせる亜久津、それを見て大笑いしているマスターのおかげだったのだろう。ほんの数時間がとても濃厚で楽しかった。
潤が興奮さめやらず車の中でぼんやりとしていると、助手席のドアが開いた。見れば河西が手を差し出している。いつの間にか家に到着していたらしい。潤は慌ててシートベルトをはずし、我が家の庭に降り立った。河西はそんな潤を見て小さな笑みをこぼした。

「お嬢様、楽しんでいらしたようですね」
「えっ。うん、そうだね。とても楽しかった。わかる?」
「はい、雰囲気が明るいので。それは、ようございました」

潤はドキリとしたが、河西は何かを察したようにそれ以上尋ねようとはせず玄関に向かって歩き出した。潤はほっとして、河西の後ろをゆっくりと歩いた。
桜色が散り始めると桜のうてなが赤く目立つようになり、それも地に落ちるころに芽吹き始める黄緑は日々深みを増していく。広い庭は真っ暗だったが、若いガーデンライトに照らされた木々にはすっかり大きく成長した葉が元気に茂っているのが分かった。春も中盤を過ぎた、この梅雨に入るまでの一ヶ月半。潤には今が一番良い季節に思えた。両親にも相談せず勝手にバイトをすると決めてしまったのに、心は軽かった。
潤はちらっと河西の背中を見た。バイトのことは河西には感づかれたかもしれない。しかし詳しく尋ねてこなかったあたり、彼はこの件に反対する気はないのだろう。しかし、もし潤がバイトのことを河西に話し、それを白岩社長に尋ねられたときには河西は正直に答えざるを得ないだろう。そしてバイトの件を白岩社長が知れば、白岩社長はそれを幸村に話すだろう。確実に。
潤は背筋を正して河西が開けた扉をくぐり玄関に入った。やっぱりバイトのことは秘密にしよう。河西や綾希に嘘をつかねばならないのは心苦しいが仕方がない。これも自立のためだ。

潤は自室へは行かずにキッチンへ向かった。アルコールを飲み過ぎたのか喉が乾いている。冷蔵庫からペットボトルを出して潤がペリエを飲んでいると、真剣な顔をした幸村がキッチンへ入ってきた。彼はつかつかと近寄って距離を詰めてくる。潤が一歩下がると、壁にぶつかってドンと大きな音がした。しかし幸村は気にせず近くへ寄ってくる。
彼は潤の肩口に顔を近づけると、顔をしかめた。

「アルコールの香りがする。酔っていらっしゃいますね。どういうことですか?」
「どうって、飲んできたからだけど」
「何故。誰とですか」
「大学のゼミの仲間と。自主ゼミだって言ったでしょ?その後みんなで食事がてら飲んできたの」

さらっと嘘をついた潤は挑むように幸村を見返した。

──本音を消す必要はない。もう少し年をとれば、お前も本音と建前を上手に切り替えられるようになるだろう。

かつて跡部のパーティーで榊に言われた言葉を思い出す。今までは幸村に上手く接しているつもりで、しかし実際は幸村と正面から衝突していた。これからは嘘をつく。どうせ幸村は潤の方など見ていない。罪悪感を抱く必要はない。彼はかつての幸村じゃないから。幸村が理解を示さないなら、従うふりをして彼に見つからないようにするだけだ。

「お嬢様、飲むならば」
「幸村。先生も一緒だったのよ。学業の延長でしょう。そんなことまで規制するつもり?」
「いいえ」
「そう。ならもういいでしょ」

潤は腕を押して幸村を押しのけようとした。幸村は潤の腕を掴むと、引き寄せていつものように作り笑いを浮かべた。

「愛していますよ、お嬢様」
「幸村」

潤は一瞬動きを止めて幸村の目を見据えた。冷たい目。かつての優しい幸村とは違う。かつての潤は幸村の目を見るたびに悲しくなり、幸村の作り笑いを見るたびに胸が痛んだ。でも今は違う。これは成長だ。
自分を守るために嘘をつく。そして、自分が疲れるような嘘をつくのはもうやめだ。
息を吸い込んで、はっきりと言い放つ。

「その言葉はいらない」

幸村は潤の腕をますます強く掴むと、笑みをはりつけたまま眼を鋭く光らせた。

「おやおや、どうかいたしましたかお嬢様」
「どうかしているのはそっちでしょ。そんな言葉、言っててむなしくならないの?」
「本心ですから。信じて頂けないとは悲しいですね」
「嘘つき。私が幸村の嘘に気が付いてるってことに、幸村だって気が付いているくせに」

幸村は突然ニイッと笑った。作り笑いではない。ぎょっとした潤が身を引くと、幸村の手はあっさりほどけた。彼は片手で顔を覆うと、薄ら笑いを浮かべて嬉しそうなため息をもらした。

「そうですか、ではもう終わりにしましょう」

なぜ。どうして。何を考えている。わからない、わからない。
潤は突き飛ばすように幸村を押しのけてキッチンのドアを乱暴に開け、逃げるように階段を駆け上がった。目の端に、驚いた様子で小走りにやってきた綾希と、綾希に嬉しそうに話しかける幸村が映った。


***


潤は二階の自室に飛び込んで、ベッドの上に仰向けに倒れた。お酒のせいか頬が熱い。しかし鼓動が早いのはアルコールのせいだけではなかった。幸村がどうして愛の言葉を囁いていたのか、結局その本心はわからないままだった。愛してなどいないくせに、問うても嘘をつく。昔はそんな人じゃなかった、と思う。少なくとも白々しい愛の言葉が人を傷つけることくらい知っていたはずだ。
目をつぶって大きく深呼吸をした潤は、さきほど幸村が優しげに話しかけていた綾希に意識を移した。
綾希と幸村。にこにこと楽しそうに話している二人はとても素敵なカップルに見えて、そして能力の高さや卒のなさを見てもお似合いだった。以前潤がさりげなく尋ねたときは、綾希は好きな人はいないと言っていた。しかしそれは建前だろう、あれほど仲がよいのだ。綾希が白岩家へ来てから二ヶ月も経過していないが、潤は何度も二人がこっそり会っているのに気が付いている。それも、今までの幸村とメイドよりも頻繁に。
潤は、自分の喉が詰まったような感覚に陥った。
幸村と付き合い始めたところで、たぶん綾希は変わらないだろう。彼女は真面目である以上に賢いし、潤と幸村が険悪な関係であることも理解している。だから今までのメイドたちのように潤に嫉妬することも嫉妬で苦しむこともないだろう。
それなら、何の問題もない。
幸村が誰を好きになろうと誰と恋愛をしようと、こちらに影響がないなら、関係ない。

ブーッブーッと携帯が鞄の中で震え始めた。どうやら電話らしい。美波だろうか。潤は身を起こした、部屋の電気をつけて鞄の中に手を入れる。

「もしもし」

急いで電源を入れて耳に当てる。すると予想外の声が聞こえてきて、潤は携帯を落としそうになった。

「よお」

慌てて携帯のディスプレイを確認すると、くっきりと『跡部景吾』の文字が光っている。

「おい、聞こえているか?」
「聞こえてます!」
「今いいか」
「もちろんです、ふふ」
「アーン?」
「すみません、嬉しくて」

潤は自然と自分が笑顔になるのが分かった。さっきとは180度反対の気分でベッドに転がる。クイーンビーの件といい、跡部から電話が来たことといい、今日は良い日だ。
潤はちらりと幸村と綾希の顔を思い浮かべたが、頭を振って跡部との会話に集中した。胸中でわき起こる、正体不明のもやもやとした感情は脇へ押しやって。


(20140309)

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