カモマイルの悪魔 | ナノ


あたりは霧に覆われていた。視界を晴らそうと目の前で手を動かしても、霧は手の動きに合わせてふわりと揺れては渦を巻いて元に戻る。数センチ先が見通せたのは一瞬のことで、すぐに白に覆われてしまう。
ゆらり、霧の奥に灰色の影が二つ動いた。見る間に影が大きくなってうっすら形が見えてくる。二つの人影。二人は私に背を向けて身を寄せるように立っている。子供の私は二人を見上げた。

右にいるのは細身で華奢な女性だった。茶色の豊かな髪が長くなびいて背中に流れている。きちんと着られたスカートやブラウスが、ハイヒールのパンプスが、その人が大人の女であることを物語っていた。彼女は横を向いて、隣のひとににこにこと笑いかけている。穏やかでうれしそうな顔。目は隣のひとに釘付けで、頬は赤く上気していた。ピンクのリップが似合う、美しい女性。

左にいるのは男性のようだった。
おじいちゃん?
私は前へ進もうとした。しかしそれはすぐにできなくなる。足がすくんだ。

彼は、年を取っているようにも若いようにも見えた。女性よりもさらに身長が高い。腕を伸ばして女性の腰を抱き、引き寄せる。彼の顔はまだ見えない。黒に近いグレーのスーツ、磨かれた革靴。無造作に結ばれた髪はゆるく波打ち、それだけでもお洒落な人なのだということが分かる。


男が横を向いて女性に顔を近づけた。若い男だ。その口元には笑みが浮かんでいる。
視覚を曖昧にさせていた霧が一枚、また一枚と紙をはがすように消えていく。


通った鼻筋、薄い唇、鋭くもやさしい目つき、浮かんだ笑み。



あれは――



はっと息を呑むと、その音につられるようにして女性が横目で私の方を見た。彼女は驚いたように大きく目を見開いて体をこちらへ向けた。

ぐにゃりと顔を歪ませて私を睨み付ける。

女性は甲高い声で何かを叫びながら見る間に私に迫ってくる。何を言っているかは分からない、でも罵倒されているのだということは分かった。罵声はどんどん大きく明確になる。

怖い。逃げたい。足が動かない。

――あんたなんか、なんであんたが!
――どうして私たちの邪魔をするの!!

間近まで迫った女性を見て私は絶叫した。つり上がって充血した目、振り乱した髪、呪いの言葉を吐き続ける口、手を大きく振りかぶって。

鬼。

手が、私の顔へめがけてまっすぐ振り下ろされた。



***



子供の私は布団の上に転がっていた。固く目をつぶってしゃくりあげながら泣いている。やめて。やめて。怖い。怖い。なんで私なの。私、何もしていない。どうして叩くの。なんで怒るの。
わけも分からずただ泣いていた。辺りは真っ暗で何も見えない。

とんとん、と床を歩く音がする。誰かが近づいてきてあやすように私の額を撫でた。ゆっくり、何度も何度も。私はしゃくりあげながらその人に身を任せる。温かい手に撫でられているうちに気持ちが落ち着いてくる。もう大丈夫。怖くない。私は徐々に、泣くのを止める。
目を閉じたままの私は、何か香りがすることに気がついた。

カモマイルティー?これは、おばあちゃん?

その手は指の腹で、私の頬に溢れる涙をぬぐう。深呼吸をすると、わた雲のように柔らかな布団はお日様のにおいがした。ああ、ここは大丈夫。お母さんが干してくれたお布団。荒れていた呼吸は規則正しく落ち着いたものに代わり、私はふたたび夢うつつの間をさまよい始める。
無力な私は羊水に守られた赤子のようにすっかり安心して、眠っている。

獏(ばく)が、私を悪夢から守ってくれる。




***



大きく息をのんで、潤は布団をはねのけた。身を起こして場所を確かめるようにあたりを見回す。椅子の背にかけられたガウン、豪華な彫りが入れられたクローゼットの扉、この部屋にやや不似合いなロココ調のドレッサー。サイドテーブルの時計を見ると、小さい金のヴィーナスに抱かれた文字盤は午前5時を指していた。潤は時計の横に置かれた銀の水差しを掴むと、注ぎ口に口を付けて一気に水を飲み干した。あごにしたたった水滴を手の甲でぬぐって気がつく。水じゃなくて涙だ。乱暴に頬をこすると思ったほど濡れてはいないことが分かる。夢で大泣きした割には、現実では泣いていなかったらしい。

ふう、と大きく息をつく。本当にしゃくりあげていたせいか胸のあたりが熱い。もう成人したというのに未だに夢で泣いたりして。憂鬱な気分でベッドから床に足を下ろす。冷たい床に一瞬足を引っ込めるが、それでもスリッパを履こうとせず潤は素足を床につけた。今は、全てを忘れたい。

あの夢は昔からよく見るものの一つだった。子供のころの二つの体験が混ざったもので、夢というより記憶に近いのだけれども。最近とくにこの悪夢を見ることが多い。理由はたぶん自分の年齢だろう。いわゆる「恋人が欲しいお年頃」で「結婚する子が出てくるお年頃」。大学に行っても恋人の話題が多く、家にも見合い話がくるようになった。

ずっと目を反らしていたことから、もうそろそろ逃げられなくなってきている。

潤はパジャマを脱ぎ捨てた。下着も脱いで床に放り投げる。春の寒さに全身の鳥肌が立ったが気にしなかった。
カーテンの裾から薄い光がぼんやりと入ってくる。潤はカーテンを引いてバルコニーに面したガラスの扉に手をついた。外の冷気が伝わってくる。バルコニーの手すりに樫の大木が枝を伸ばしていた。まだ太陽は出ておらずあたりは仄暗い。ここからは近隣の建物が何も見えない。バルコニー越しに見えるのは我が家の庭だけ。大きな木と薔薇の茂み、花壇、鉄のベンチ、そして高く成長した常緑樹の垣根。使用人が手入れをする美しい庭。
すっかりこの景色にも慣れた。それなのに自分はちっとも成長していないらしい。こつん、と額をガラスの扉につける。体の熱を冷ましたかった。

ふいにコンコンと扉が叩かれて幸村の声が小さく聞こえた。

「お嬢様?起きているのですか」

潤は返事をしない。何も言う気になれない。再び幸村の声がする。

「お嬢様?」

静かに扉を開けた幸村は、潤のあられもない姿を見て一瞬立ち止まった。パジャマと下着が散乱しているのに気がついて彼は眉を顰めた。そして感情のこもらない声で、言う。

「何をしているのですか。社長令嬢がそんな格好をして」

潤は振り返りもせずに唇をゆがめた。幸村は、いつもこうだ。人前では笑顔で愛の言葉まで囁くくせに、二人きりになると冷酷で高圧的に小言ばかり言う。社長令嬢がそんなことをしてはいけません、社長令嬢にふさわしい振る舞いをしてください。いいかげんにしたらどうですか、と。昔からこんなに嫌な男だっただろうか。幸村とは9年前から一緒に暮らしているのに、彼に慣れるどころか最近どんどん嫌になってきている。
社長令嬢にふさわしく。そんなこと、自分が一番よく分かっている。
潤は体ごと振り返って、幸村に頓着せずドレッサーに近づいて引き出しを開けた。幸村は一瞬目を見開いて、それから目を反らした。手早く床に落ちた潤の服を集め始める。

「恥ずかしくないのですか、まったく」
「どうせ幸村しかいないじゃない。それに女の裸なんて見慣れてるでしょ」

潤は内心しまった、と思う。つい言い過ぎた。でも本心でもある。
幸村は女性にもてる。幸村はことさら女性に優しく接する。鋭い目付きを和ませて笑い、低い声でゆっくり囁けば面白いくらい簡単に女性はこの男に落ちた。

だからこそ、若いメイドが次々と辞めていくのだ。幸村に囁かれて、幸村に恋をして、幸村が私にこの上なく優しげに微笑みかけるのを見て、でも私を見る幸村の目がちっとも笑っていないことに気がつかずに、上手くいかない恋に苦しんで。幸村に焦がれて焦がれて、勘違いしては嫉妬をし、しかし嫉妬を露にすることも相談するわけにもいかず、仕事にも手が着かなくなって、ついには耐えきれずに辞めていく。若い女性で一緒に暮らしながらこの男に恋しなかったのは、潤の知る限り、お姉ちゃんだけだった。もう何人メイドが辞めたことだろう。人手が足りないというのに幸村は彼女たちをもて遊ぶ。女心を玩具のようにして、都合のよい相手にしてはあっけなく捨てる。
お父さんが幸村を諫めれば彼は止めるだろう。でも、お父さんはそうしなかった。家令の河西も何も言わない。潤もまた、注意する気はなかった。ここは幸村の仕事場だけでなく生活の場でもある。恋愛は幸村の自由だ。たとえどんなに女をもてあそぼうとも。彼にも問題はあるがメイドにだって問題はある。酷い話だとは思うけど。
ともかく、女性が絡むとこの男はろくなことにならない。そんな本心が漏れ出た。幸村は綺麗にたたんだ服をベッドの上に置いて、冷たく言った。

「早く服を着てください。風邪をひきますから」

幸村は潤に一礼して扉の向こうに消えた。
潤は詰めていた息を大きく吐く。ぶるっと身震いをして、ドレッサーの椅子にかけてあったガウンを羽織る。引き出しの奥から古びた半紙をとりだすと、それをひと撫でしてじっくり眺める。半紙の真ん中には四つ足の動物が大きく描かれていた。毛足が長く、ずんぐりした体躯。象のように鼻が長く、その脇から猪のような角が二本生えている。

獏。悪夢を食べる空想の魔物。子供のころからしょっちゅう悪夢にうなされる潤を心配して、おばあちゃんがどこかから探し求めてきたおまじない。
潤は半紙を枕の下に入れると部屋から出た。扉を押した瞬間、ふわりとカモマイルの香りがした気がした。


(20121116)

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