カモマイルの悪魔 | ナノ


からかうのが好きなのか恋愛脳なのか。潤には、華やかな千石がどちらに属すのかさっぱり検討がつかなかった。分かるのは目の前の亜久津がこめかみをぴくぴくとひきつらせていることだけだ。亜久津は腹立たしそうにため息をつくと「掃除道具を取ってくる」と言いおいてカウンターの奥に引っ込んだ。

「うん、やっぱりね。亜久津のやつ、寛大になったなあ」
「やっぱりって。わざとからかったんですか」

潤が千石を軽く睨むと、彼は相好を崩してふにゃふにゃと笑った。

「うん。昔の亜久津だったらキレてただろうにね。時の流れは偉大だねえ」
「まったく」

亜久津はすぐに箒とチリトリと手に戻ってきて、しかし千石につっかかるわけでもなく黙々とカウンター内にちらばったガラスの破片を片づけ始める。メンゴメンゴと頭を下げる千石に亜久津は舌打ちで返事をした。
潤は気を取り直すと、先ほどのプチ騒動を愉快そうに眺めていたマスターに問いかけた。

「マスター、バイトの詳細はお問い合わせ下さいってありましたけど、具体的にどんな子を希望なさってるんですか」
「実はぜんぜん決めてねえんだ」
「へ?」
「うちは年中いつでも人手不足だからなあ、真面目にやってくれんなら週1で短時間でもアリだぜ」
「えっ。本当にそれでいいんですか?」

潤は自分が長時間バイトをするのは難しいだろうと分かっていた。バイトを秘密にしてゼミだの勉強会だのとごまかすには限界があるからだ。それゆえ、バイト先をなかなか見つけられないのではないかと内心危惧していた。しかしこの返事である。
マスターの想定外の答えに潤が慌てていると、ガラスを拾い終えた亜久津が不機嫌そうに言った。

「いいも何も仕方ねえだろ。最近は根性がねえガキばかり来やがる、ろくに連絡も入れねえで次々辞めやがって」
「あちゃー、それは大変。なんでそんなに辞める子多いんだい?客からのセクハラが酷いとか?」
「それはねえな、そんなんあったらジンが叩き出すからよ」
「ちょっと仕事させただけで根を上げやがって」
「マスター、亜久津さん!私じゃダメですか?」

潤は勢いよく訪ねた。次々と辞めるくらいだから大変な仕事なのだろう。もしかしたら亜久津は仕事に関してはめちゃくちゃ厳しいのかもしれない。でも、働くならここしかない、と潤は思っていた。
大学の友達には様々なバイトをしている人がいる。家庭教師、飲食店のウェイトレス、引っ越し業。スタジアムの売り子なんかもいる。潤は両親や幸村に内緒でバイトをすると決めてから、様々なバイトの募集要項を見たり体験談を聞いたりしていた。しかしどれもしっくり来ず、結局一番働きたいと思ったのがこのクラブだった。

クラブとしてはかなりおとなしい方であるらしいクイーンビークラブでさえも潤にとっては別世界だった。潤にとっての日常の世界とはすなわち、ビジネスの利害関係が重視され、上品なクラシックが流れ、宝飾品のすばらしさを競い合い、にこやかな物腰の裏にどす黒い嫉妬や謀略が渦巻く、そんな世界だった。そんな拘束が多く気疲れが多い日常とは違ってここは自由だ。その分荒っぽい人も多いし守られてもいない、危険も多い。クイーンビークラブは治安が良いとはいえど、酔いつぶれて全裸になったり男が女と一夜限りの関係を結ぶなんて程度は当たり前だから潤にとっては十分クレイジーだ。
しかしそれでも、いや、それだからこそ、なによりも魅力的だった。

潤の言葉に誰よりも早く反応したのは千石だった。彼は慌てた様子で身を乗り出した。

「ちょ、ちょっと、潤ちゃん、ここで働きたいの?」
「ん?はい、働きたいです」
「本気で?幸村くんはなんて?」
「もちろん幸村には内緒です。秘密にして下さいね、千石さん!」
「えっ、えーと、秘密にするのはいいけど、それでいいの?」

潤が両手を合わせてお願いすると、千石は頭をかいて、助けを求めるように亜久津を見た。砕けたコップを片づけ終えた亜久津は、千石の言葉を聞いて怪訝な表情になった。

「幸村?立海のあいつじゃねえだろうな」
「大当たり」
「白岩、テメエ幸村の親戚か?」
「あれ、亜久津は知らないの?」
「ああ?」
「潤ちゃんは白岩カンパニーの社長のお嬢さんなんだよ」

マスターはカクテルを亜久津とは別のウェイターに渡すと、意外だと言うかのようにピュウと口笛を吹いた。
潤は千石の言葉にビクッとして、亜久津を見た。なんと言うだろう。彼はほかの男達のように取り入ってきたりはしなさそうだったが、逆に今度からよそよそしくされるかもしれない。
だが当の亜久津はナナメ上の反応を示した。

「白岩カンパニーだと?」
「うん、あの白岩カンパニーだよ」
「知らねえな」
「ええ!!亜久津、それは冗談ではなく……?」
「興味もねえ」

亜久津はそもそもビジネスに興味がないようであった。
唖然としている千石の隣で、潤は反応の変わらぬ亜久津にほっとして胸をなで下ろした。

「そ、そうなんだ。亜久津、幸村くんは潤ちゃんの執事をしてるんだよ」
「執事?よくそんなタルいことやってられんな。……白岩、テメエ、マジで言ってんのか」
「はい」
「マスター、どう思う?」
「俺は歓迎するぜ。ジンの知り合いで、ジンのダチのダチでもあるっつうならなんも問題ねえだろ」

マスターは無精ひげを一撫ですると、潤に向かってウインクして見せた。あったかい。潤は自然と自分の顔がほころんでいくのが分かった。困惑していた千石は一呼吸置くと、「まあいいか、亜久津もいるし」と呟く。

「おい白岩。あれを見ろ」

潤はカウンターの椅子を少し回して、亜久津の指さす方向を見た。頭を振って曲を流すDJ、きわどい格好で踊る女性、体を密着させてキスしている男女、口汚くヤジを飛ばしている男性。ここではよく見られる光景だった。

「お嬢さんだがなんだか知らねえが、ここはこういうとこだ。俺はこの店で暴れるやつは潰すがテメエを守るつもりはねえ」
「はい」
「覚悟できてんのか」
「はい」
「ジン、大丈夫ダイジョーブ。潤ちゃんは常連だからわかってんだろ。ま、心配なら裏の仕事でもさせっかな。カクテルの作り方も覚えてもらうけど、いいよな?潤ちゃん」
「もちろんです」
「いつから来れる?」
「来週からでもいけます」
「よし、それじゃあシフト調節するから、連絡先教えてくれ。ジンの連絡先は知ってるのか?」
「はい」
「なら大丈夫だ」

マスターは仕事を亜久津に任せると、潤をカウンターの隅に呼んで細々とした話を始めた。亜久津は素早くシェイカーを振って次々とカクテルを作り始めた。
千石は少し離れたところで真剣に話をする潤とマスターから目をそらして、目の前の亜久津を見、その見事な仕事さばきに感心した。そして、改めて時の流れを実感する。数年前にテニス部の皆で合ったときは、亜久津を含めみな成長したとは思っていたが、職場で真面目に働く亜久津を見るとよりいっそうそれが強く感じられた。千石は頬杖をつくと、旧知に悩みでも打ち明けるように小さい声で話しかけた。

「あーあ、俺、情けないなあ」
「あ?」
「いやー、殻を破ろうとしているんだなあってね。俺は潤ちゃんの友達なんだから、かごから出ようとする潤ちゃんの背中を押すべきだったのにね」
「ふん。……白岩は毎週、カウンターで酒を飲んで帰って行きやがる。誰と話すでもねえ、何が楽しいのか分からねえ。だがいつも来やがる」
「そうなんだ。潤ちゃん、窮屈なのかもね。幸村くんは彼女を大切にしてるみたいだから余計に。あー、俺、幸村くんに殺されるかもしれない!」
「テメエが黙ってりゃいい話だろ」
「それで済めばいいんだけどね。あの幸村くんならここを捜し当てかねないっていうか。亜久津、もし幸村くんがここを襲撃したらどうする?」

なんとなく発した台詞だったが、千石は幸村が剛速球でクイーンビークラブのドアをやぶりドス黒いオーラをまとって笑顔でやってくる姿をリアルに想像してしまい、額を手で押さえた。幸村のことをさして知らない亜久津はシェイカーを振る手を止めると、沈んでいる千石を怪訝な顔で眺めた。


***


同じく金曜日。潤がカフェで時間をつぶして千石を待っていたころ、白岩社長と鈴木副社長は河西から「ある報告」を受けていた。
いつものように穏やかな微笑みを浮かべて柔らかな口調で報告をする河西だったが、鈴木はその報告の不穏さに胸がざわつくのを感じた。春のきつい西日が自分たちごと部屋を染め上げて、それがまるで「終わり」を暗示しているかのように感じられた。

「……そして張本人である幸村と泉は、既にお互いを疑い合っているようです。今回分かったのはこれくらいで」

河西が報告を終えて口をつぐむと、しばしの沈黙が落ちた。鈴木は微笑みを浮かべたままの河西を一瞥すると、次の言葉を待つように白岩を見た。これは、とんでもないことだった。
幸村は無断で書斎を漁っていた。泉は跡部家と何らかの関わりがあるかもしれない。どちらの話も、不可解だった。幸村は白岩カンパニーの社員であり、社長に可愛がられている。だから調べたいことがあれば社長に頼めば良いのに、それもせずに、秘密裏に何かを探していたのだというのだ。泉はただのメイドのはずなのに、跡部家が接触したがっている節がある。泉が本当に「ただのメイド」であるならばありえない話だ。二人とも、何かを隠している。
ところが白岩は落ち着いたもので、たっぷり時間を置いた後でただ一言、「そうか」と言っただけだった。

「そうか、って、社長。そんなんでいいんですかい?」
「と、いうと?」
「幸村と泉が何をしているか、ちゃんと調べなくていいんですか」
「ああ、問題ない」
「問題ないって。そんなわけないでしょう」

白岩は気を揉む鈴木に微笑みかけて、椅子から立ち上がった。そしてゆっくりと大窓の前に立って、夕暮れの街を見下ろした。

「もう手は打ってある。鈴木、依然話したことは覚えているか?」

白岩はゆっくりと振り返ると、鈴木に向かってひとつ頷いて見せた。

「盗蜜者、のことだ」


(20140303)

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