カモマイルの悪魔 | ナノ


カフェの時計は夜の6時半を指していた。潤はコーヒーの最後の一口を飲み干して、ふと真横にあるガラスの大窓から外を見た。気が付けばすっかり日が暮れている。カフェの中は比較的空いているというのに、金曜日の駅周辺は飲み屋に入るサラリーマンでごった返していて一週間の終わりを喜ぶ静かな熱気に包まれていた。目前の交番ではお巡りさんたちが次々と人に道を教えている。もう飲んでいるのか、赤ら顔のサラリーマンが窓の前を通り過ぎていった。

潤はガラス窓に映った自分と外にいる大人たちを見比べて、自分はなんて幼いのだろうと思った。みな必死で現実を生きているというのに、自分はまだ子供の悪夢から抜け出せずに「おまじない」なんかにすがって生きている。獏がいればいいと思った。悪夢だけ食べてくれる獏が。でも、そんな魔物などいやしない。おばあちゃんが獏を縛ってはいけない、獏を頼りすぎてはいけないと言ったのは、おまじないにばかり頼らず自分で努力せよという意味ではなかったのか?

潤はカップをテーブルに置いて物思いに耽った。まだあの悪夢を見ることがある。突然冷酷になった幸村にも納得はいかない。でも納得できなくても、その事実を飲み込むことはできるはずだ。そして先へ進まねば。悪夢を食べるのは、自分自身しかいない。

トントンと音がして、潤はハッと意識を引き戻された。
カフェの外、ガラスの向こう側に笑顔の千石がいて「おーい」とこちらに手を振っている。潤は千石に笑顔を向けて、そっちに行くとジェスチャーをした。急いで持ち上げた鞄は、いつもよりも軽く感じた。


***


千石は仕事終わりの疲れも見せず、屈託ない笑顔を浮かべた。

「ごめん、待たせた?」
「大丈夫です、思ってたより早かったくらい。7時過ぎるかもって仰ってたから」
「そりゃあもう!潤ちゃんとデートだもん、頑張って早く仕事終わらせて来たんだよ」
「ふふ、ありがとうございます」

潤は早速吹き出した。相変わらず重さを感じさせない人だ。しかし千石の軽さは相手に負担を掛けないための計算された軽さであるように思えた。だからこそ潤は千石のその態度に居心地の良さを覚えた。

「その穴場のクラブだけど、道はこっちでいいのかい?」
「はい。その大きな黄色い看板のところを右に折れてください」
「了解。うーん、しかし、このあたり」

千石は人混みではぐれないように潤の肩を引き寄せた。女の子の扱いに慣れているなあと潤が千石を見上げると、彼は不思議そうな顔で頭をひねっていた。

「どうかしました?」
「なんか記憶にひっかかるんだよね」
「もしかして前に来たことがあるとか?」
「いや、このへんには詳しくないし来たことがあるはずはないんだけど」

そうこうしているうちに二人は例のクラブの前までたどり着いた。クラブは既にオープンしていて中からはノリの良い音楽が聞こえてきている。
千石は入り口の上に光るネオンの文字を見て、ますます困惑したような表情になった。

「『The Queen Bee Club』?女王蜂(クイーン・ビー)ねえ……なーんか聞き覚えがあるなあ。おかしいな、確かに来たことはないんだけど。デジャビュ?」
「ふうん、なんでしょうね?ま、とりあえず中に入りましょう、千石さん!」
「そうだね。こういうところ来るの久しぶりだから楽しみだよ」

扉を押すと中から音楽がわっと漏れ出てきた。クラブの中は薄暗く、いつものように多国籍な人々で溢れかえっている。店の中央部では艶やかなロングヘアの日本人らしき女性が一際注目を集めているところだった。
潤はいつもどおりに部屋の隅にあるカウンターを目指して人の間を縫うように歩いた。千石は物珍しそうにあたりを見回していたが、ずんずん先へ進んでいく潤を見て慌てて後を追った。

「ちょ、ちょっと潤ちゃん、ずいぶん慣れてるね。よくここに来るの?」
「あら、そうですか?ときどき、ですけれど」
「えーと、君が?」
「?はい。ああそっか、意外に思われますよね」

潤はからかうようにおどけてみせた。お嬢様、地味、真面目の三拍子が揃った自分がこんな場所に平気で入り込んでいるのだから驚くのも無理はない。当の潤自身、もっと落ち着いたクラブであればともかく、このような混沌として激しい曲が鳴り響くようなクラブに自分が居着いていることが不思議だった。それもこれも、亜久津と出会ったおかげである。
千石はお酒を注文してカウンターに腰かけると、隣に座る潤をまじまじと潤を見つめた。

「意外というのもあるけれど、こういう場所へ来ること、よく幸村くんが許可したなあと思ってさ」
「内緒で来てるんです」
「本当に!?……なかなか大胆なんだね、潤ちゃんは」
「そうでもしなきゃやってけないですよ、幸村はあれするなこれするなって父よりもうるさくて」
「ははは、それじゃあ俺が潤ちゃんとここへ来たってことがばれたら酷い目に合わされそうだな。幸村くん、君をずいぶん大事にしていたもんねえ」

潤は千石の言葉を素直に喜べず言葉に詰まった。ちょうどタイミングよく例の国籍不明マスターが「ドウゾー」とお酒を出してくれる。潤は手元に来たグラスの中で真っ赤なカンパリソーダの泡が絶え間なく浮き上がるのを見つめた。
ぷくぷく、ぷくぷく。永遠にわいてくるように見える泡も一晩経てばすべて消えてしまう。同じことを延々考え続けるのも終わりだ。諦めよう。前に進まなければ。
潤は一つ深呼吸をすると、噛みしめるように、しかし努めて明るく言い放った。

「幸村は私のこと嫌いなんです」
「え、な、ぶえっ」

余程その言葉が予想外だったのか、彼は口に含んだばかりのお酒を吹き出しそうになった。潤は慌ててハンカチを差し出したが、千石は大丈夫だとジェスチャーすると手の甲で口を拭った。

「ぐ、うう、いきなりなんてことを言うんだい潤ちゃんは!そんなことないだろう、まさか」
「いいえ。もちろん私は幸村が仕える主の娘だから。だから大切にもしてくれます、幸村が厳しいのは私の身を案じているのもあるでしょう。でも、分かるんです」
「幸村くんはむやみに人を嫌うタイプじゃないと思うけれど」
「理由はあります」

分からない、分からない、分かりたくない。でも何度考えても原因はそれしか考えられない。そんなに悪いことをしたつもりはなかったけれど、あの優しかった幸村が豹変したことを思えばこちらが悪いのだと思う方が自然だった。それが、今の今まで認められなくて。
幸村があの女性を、子供の潤からは鬼のように見えた女性を心底好いていたならば、彼女に手を振り上げさせるようなことをしたその子供を受け入れることは簡単ではないだろう。その上、自分が悪いなんてこれっぽっちも思わず甘え続けたその潤を。そして彼は嫌でも潤に仕えなければならなかった。

「今思えば、幸村からしたら私に腹が立つだろうなって。迷惑をかけて、ろくに何もできなくて。でももうどうしようもないことだから。だから後はせめて、立派な人間になれるように頑張るしかないんだと思います」

潤は千石から目をそらしてグラスに口を付けた。カンパリの薬草臭い冷たさが喉を伝って落ちていく。その真っ赤の液体の苦みが、まるで今の自分が抱えた過去の味であるかのように感じられた。

「潤ちゃん……大丈夫かい?何があったのか詳しいことは聞かない方がいい?」
「大丈夫ですよ。うーん、話したくないわけじゃないんですけど、全部話しちゃったら今度は千石さんに甘えちゃいそうだから」
「甘えてくれていいんだよ」
「ダメですよ!どこまで優しいんですか。千石さんこそ、すごく私に気を使ってくれていますけれどそこまで気を」
「おいテメエ!そいつに何やってんだ!!」

突然、会話を遮って声が千石背後から飛んできた。その声は大音量の音楽にかき消されたが潤には誰だかがはっきりわかった。
千石の真後ろに立って眉間に縦皺を寄せた亜久津は、目をむいて凄むとぐいっと千石の肩を掴んだ。
こちらを向いていた千石も不愉快そうに眉根を寄せると、首を回して文句を言った。

「いったい何だい、いきなり。この子は俺の連れなんだけど」
「あ?……ああ!?」
「あ……ああっ!!」

亜久津が目をむいたまま口の端をひきつらせて硬直した。千石も不愉快そうな表情を一転、驚きに染めて同じく硬直した。
潤は大声を出して固まった二人を見て、目を瞬かせた。なんかこの光景、前にも見たことがある気がする。


(20140210)

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