カモマイルの悪魔 | ナノ


一日の仕事をすべて終え、良い香りのするバスソルトを入れた風呂に入り、綾希はベッドに体を横たえた。安らかな眠りにつけるはずだった。しかし脳裏には昼間に潤に話したことがちらついて、ちくちくと心を責め続けた。

夢のような日々だった。
幸せだった。
でも逃げた。あの場にいつづけるのが怖かったんだ、私は。

綾希は寝返りを打って頭まで布団をかぶった。太陽の香りがしてふわふわな布団なのに、気分はどんどん落ち込んでいく。
最初はのんきなものだった。自分も努力していれば、あの人──かつての主のようになれると思っていた。努力をした。身なりを整えて、雑な仕草も直して、新聞や本を読んで、教養を学んで。でも、努力をすればするほどあの人は遠くなっていった。知識や経験を身につけることで、あの人がどれだけすごい人物か分かってしまった。だから、遠い。遠くなっていく。

──せめて私が潤様と同じくらいの生まれであれば良かったのに。

潤とて元は庶民、いわゆる良家の出ではない。しかしそうであっても、今現在繁栄を極めている白岩家出身の潤と、どこの馬の骨ともわからぬ綾希には天と地ほどの差があった。自分の体には庶民が染み着いている、と綾希は思った。それは元・庶民である潤とは比べものにならないほど強い。そんな自分を見つめれば見つめるほど、自分の矮小さに耐えられなくなる。
綾希は昼間に見た潤のほがらかな笑顔を思い浮かべた。彼女は今、自分で自分を変えようとしている。自分が分からないと、そういう彼女は苦しいだろうに前を向いて歩こうとしている。困難に立ち向かおうとしている。

──でも私は逆だ。逃げて、逃げて、ずっと逃げて、ついにここまで来てしまった。今度は『仕事』を言い訳に白岩家に潜り込んで、潤様を騙して、そしてまだ逃げている。逃げてもなお、苦しい。

──いけない。夜に考え込んでもろくなことにならない。

綾希は深呼吸をすると、布団をめくって起きあがった。ホットミルクでも飲もうかと自室から出て、キッチンへ向けて薄暗い廊下を歩く。柱時計がボーン、と一つ鳴って空気をふるわせた。そして二階へ続く階段の下を通りがかったとき、綾希は誰かの気配を感じた。
ぴたりと足を止めてあたりを伺う。

──二階だ。

夜中の1時。潤はもう寝ているはずだが、寝付けないのだろうか。それとも、泥棒?
綾希は眉根を寄せて、足音を立てないようにゆっくりと階段を登った。息を殺してそっと忍び歩く。潤?いや、違う。気配は白岩社長の書斎の方からする。そちらへ近づくと気配はますますくっきりと感じ取れる。書斎の扉の下からは明かりは漏れていなかった。しかし、小さく紙をめくる音がする。おかしい。

──潤様じゃないとしたら、まさか?

深呼吸をして、書斎の扉をそっと押す。普段は鍵がかかっているはずのその扉はあっさり開いた。
部屋には煌々と明かりが灯っていた。綾希の目に飛び込んできたのは書斎の机に分厚いファイルを広げて熱心にそれを見ている幸村の背中だった。彼はまだスーツを着ている。幸村はゆっくり振り返ると綾希を認めて笑顔を浮かべた。

「……驚かれないんですね、幸村さん」
「貴方の気配がしましたからね。こんな夜中にいかがなさいました、泉さん?」
「それはこちらの台詞です。社長の書斎の鍵は幸村さんも持ってる、とは伺っておりましたが」

綾希は二、三歩進んで扉の裏側を見た。そこには丸められた小さな絨毯が転がっていた。廊下から室内の光が見えなかったのは、扉の下に丸めた絨毯が置かれていたからだと分かる。

「ええ、その通りです。ちょっとした調べ物ですよ」
「嘘!本当に調べ物なら、わざわざ扉の下から光が漏れないように細工なんてしないでしょう」

綾希は小さく叫ぶように断言した。直感もいいところだが、確信がある。
前に勤めていた家の習慣で気配にはかなり敏感であるはずの自分が、今の幸村の気配にはほとんど気が付かなかった。つまり、今の幸村はわざわざ気配を殺して何かを探していたということだ。もし白岩社長に隠さないでもいいようなことならば、もっと堂々と書斎を使うはずだ。
幸村は体をゆっくりとこちらへ向けると、口の端をつり上げた。

「おやおや。名推理ですね、と一応誉めさせていただきましょうか」
「そのファイルは、何なのですか」
「さあ?」
「答えてください」
「あなたには関係のないことですよ」

綾希はぐっと拳を握りしめた。冷たい目をしてへらへらと笑う、この男。
一筋縄ではいかないとは思っていたが、予想外だった。幸村の潤に対する態度からして、幸村が何かを抱えているのではないかとは思っていた。しかし機密情報もたくさん書いてあるであろう書斎の資料を勝手に見ているとは思わなかった。

「白岩社長からは、幸村さんが書斎を使うとは聞いていません」
「そうですか。でも、それが?貴方こそどうなんですか」
「え?」
「貴方はずいぶんと気配に敏感なようだ。貴方こそ、『なぜここにいる?』」

幸村の言葉には含みがあった。その意味を理解したとき、綾希は自分の顔がこわばるのが分かった。喉が詰まったようになって何も言えない。何か言わなきゃ、何か。
幸村は机に広げていたファイルを手早く棚に戻すと、まるで他人事のような口調で言った。

「貴方は河西さんから聞きましたか?跡部ホールディングズの役員のこと」
「……いいえ」

ようやく絞り出したような小さな声がでる。幸村は今はこちらを向いていないはずなのに、幸村の意識がこちらに集中しているのが分かった。
綾希は足の先から全身が凍り付いていくような気分になった。血の気が引いていくのが分かる。そんなことまでばれてしまった、のだろうか。

「昨日、この屋敷を尋ねていらしたそうです。奥様はいらっしゃいますか、と。その役員は、仕事で近くに立ち寄ったから挨拶に伺ったと言っていたそうです」
「……それで?」
「白岩社長のみならず、奥様も白岩カンパニーには大きな影響力をお持ちだ。そして跡部ホールディングズは近頃、白岩カンパニーに急激に接近してきている。ですから、跡部の者が奥様に挨拶にくること自体はおかしくありません。
だが、不自然だ」

幸村は笑顔を消した。そして仁王立ちになると、猛獣のような鋭い目をぎらつかせて綾希を見据えた。空気が凍る。綾希と幸村の距離は何メートルも離れているというのに、綾希は刃物を突きつけられているような気分になった。体が動かなくなって、全身の毛穴から汗が噴き出す。

「奥様は上のお嬢様の出産のためにだいぶ前から家をあけていらっしゃる。その事実を、奥様が長らく不在であるということを、あれだけ情報収集に長けた跡部家が知らないはずがない」
「たまたま、知らなかった、のではないですか」
「いいや。そんなことにも気が付かないはずがない、あの跡部が。だから、跡部の者がこの家へ来たのは他に何か理由があるんじゃないかと思うんだ。
そう、たとえば……白岩家に送り込んだスパイの様子を見に来た、とか」

綾希は自分の体が小さく震えるのが分かった。顔をこわばらせて素早く思考を巡らせる。どうしよう、いや、どうしようもない。今すぐにここから出た方がいいか?いや、しかし跡部の者がここへ来たということは。でも、負けている場合ではない。幸村を前にして萎縮しそうになる自分を叱咤激励して、綾希は必死で言葉を紡ぎ出した。

「……こっそり書斎で書類を漁って。社長の意志に背いているのは貴方でしょう、幸村さん」

幸村は目を見開くと、ぐにゃりと顔を歪めた。彼は片手で顔を覆うと、おかしくて堪らないという風に笑い出した。くくっと喉をならして、しかし手の隙間からのぞく幸村の顔に浮かんでいるのは嘲笑以外の何物でもなかった。
しばらく笑い続けた幸村はようやく笑いを納めると、呆気にとられていた綾希に向けて笑顔を浮かべた。いつものような優しい作り笑いを。

「俺の邪魔はしないでもらおうか、泉綾希。君が誰であろうと、邪魔をするなら排除するよ」

でもその声は、いつもよりもずっと冷酷だった。


(20140202)


girl-meets-nobody.
少女は誰にも出会わない。

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