カモマイルの悪魔 | ナノ


午前10時。潤はがらんとしたダイニイングテーブルで遅い朝食を取っていた。家族全員で使っても広く感じる8人掛けのテーブルは、一人で使うとことさら大きく思えた。潤は普段はキッチン内の小さなテーブルを使うが、たまにはダイニングテーブルで食べようかとこちらへ移動してきた。でもやっぱり、一人で使うには寂しすぎる。白岩社長と幸村は仕事、河西は庭仕事、綾希は家事で家の中を動き回っているから、ダイニングルームはがらんとしている。潤はオレンジを乗せたトーストにかぶりつきながら、昔住んでいた家を思い出していた。あのとき家族で使っていたテーブルはぎりぎり4人が座れるくらいの大きさで、祖父と祖母がいたころはぎゅうぎゅう詰めだった、と思う。しょっちゅうお皿とお皿が当たったりひじ同士がぶつかったりと不便なことだらけだったけれども、そうやって毎食、皆で当たり前のようにテーブルを囲んでいたのはぜいたくなことだったのだろう。

「潤様、おはようございます。給仕もできず申し訳ありません」

朝の家事を終えたらしき綾希が一礼してダイニングへ入ってきた。片手にはクッキーと紅茶を乗せたお盆を持っている。潤は否定するように片手を振ってみせると、トーストを飲み込んでから挨拶をした。

「おはよう。いいのいいの、食事を用意してくれただけで有り難いから。そもそも人数少ないんだから、給仕はお客さんが来たときだけ気にしてくれればいいのよ」
「ありがとうございます。昨晩クッキーを焼いたのですが、いかがですか」
「いいの?ありがとう、もらう!……あ、綾希さん、これから用事ある?」
「いいえ。何かいたしましょうか」
「えーと、よかったら一緒にテーブルについてお茶がてら、話を聞かせてもらえないかと」

潤は見合いの席で考えたことと、先日仁王や河西と話したことを綾希に伝えた。綾希はクッキーと紅茶を潤の前に並べると、ちょっと困ったような顔をした。

「私のことを話すのは構わないのですが、使用人がご主人様方が食事をなっさるダイニングテーブルに付くのはちょっと」
「気にしなくていいのに。でも気になるならキッチンに行こう」

キッチンのテーブルでクッキーをかじる。口の中でサクッとこぼれるそれはシンプルな味なのにとても美味しく感じられた。

「おいしい!焼きたてでもないのにお店で売ってるのよりおいしい。綾希さんってすごいのね。丸井さんといい、私、お菓子づくりが上手い人と縁があるわ」
「お褒めいただきありがとうございます。実はこのクッキー、以前の主人のご学友に教えて頂いたものなのです」
「へえ、ずいぶん腕のいい方なのねえ」

潤はクッキーをしげしげとながめた。正方形をしたそれは黄がかったクリーム色で、一見何の変哲もない。この中にこれだけの旨味が詰まっているのは不思議だ。バターの香りがするが油っぽくもなく、しっかり甘いのにくどくない。
丸井のケーキといい綾希のクッキーといい、美味しいお菓子に恵まれているとつい食べ過ぎてしまう。太ってしまいそうだ。

「ええ、とても。それで、この仕事を選んだ理由でしたっけ」
「うん。確か面接のときに、学費を稼ぐために使用人のバイトをしたのがきっかけだったって言ってたよね」
「そうです。それが、最初は庭の清掃だったんですよ。しかも屋敷の周りではなくて、敷地のはしっこの方の雑草を取るお仕事で」
「えー!ベッドメイクとか洗濯とかじゃなくて?」
「そうなんです。お給料が良くて、しかもメイドさんの仕事だって聞いたから飛びついたんですよ。私は普通の学生だったので上流社会なんて縁がなくて、だからこそ面白そうだと思ったんです。大きなお屋敷でメイド!華やか!しかもお給料もいい!って」

苦笑する綾希につられて潤も笑った。その気持ちはよく分かる。自分だって昔は普通の家の子だったのだ。氷帝に入学するのでさえドキドキしていた。

「それなのに雑草取りですよ。しかもススキとか堅くて除去しにくい草ばっかり生えてて、泥だらけで汗だくで仕事がすごくきつくて」
「お給料がいいってことは、スキルが居る仕事か、人があまりやりたがらない仕事ってことよね」
「その通りです。辞めようかとも思ったのですが時給は良かったし、お屋敷の人は厳しくとも理不尽を強いることがなかったので、学費稼ぎ終わるまではがんばろうかなって」
「なるほど。理不尽じゃない、ね」

潤はふと跡部のことを思い出した。跡部は見るからに性格がきつそうだ。でもパワハラみたいな理不尽なことは嫌いそうに見える。「合理的じゃねえ」とかなんとか言って。跡部景吾とはメールのやりとりはしているものの直接会ったのはたったの2回だ。それなのに彼がどういう人物なのかはっきり分かる。実力主義、合理主義、だが人の合理的でない部分も理解している、理想主義に見えて実は超現実主義。それほど跡部は強烈でこだわりが強く、ある意味一つ筋を通す男だった。
あの跡部の下で働くのは大変だろうが、人間の尊厳が踏みにじられるようなことは絶対にないだろう。

「一生懸命働いていたら、同じようにがんばっている使用人仲間と連帯意識も出てきてしまって。そうしているうちにお屋敷の中で働かないか、と声をかけて頂いたのです」
「働きを認められたんだね」
「ええ。軍手でジャージの世界から一転、本当にメイド服を来て働けるようになったんですよ!仕事は相変わらず清掃でしたけど、壮麗なお屋敷で働けるのが楽しくて楽しくて。それで結局、そのお屋敷で採用して頂いたという流れでした……私は結局、逃げてしまいましたが」

綾希は声のトーンを落とすと、静かに目を伏せた。綾希の唇に浮かんだ薄いほほえみ、さきほどまでの晴れやかな笑みとは明らかに違うそれに潤はドキリとした。一瞬、泣いているように見えた。
潤は焦って冷めかけた紅茶を飲むふりをした。呼吸を整えて、そっと尋ねる。

「逃げた?」
「ええ、逃げました。きらびやかな世界から」

綾希は一端言葉を切って窓を見上げた。太陽はすっかり高く上っている。

「実力がない、実力をつけるための努力もできていない、それなのに高望みしてしまうようになったのです。だからもう身を引こうと、使用人という仕事を辞めようと思ったのです」
「ああ、なるほど……うちならあんまりきらびやかでもないしね」
「私はそうは思いません。白岩社長にはそう言われましたが」
「うちは地味だから、って?」

潤がおどけて尋ねると綾希は苦笑した。

「ええ。使用人を辞めて、次の仕事を探している間にばったり白岩社長にお会いして。気に入らなかったら転職活動をしながら勤めてくれても構わない、だからまずはうちへ来てくれないかと。……しかし結局、ずっとこちらでお世話になることになりそうです」
「ふふ、お世話してもらってるのはこっちだよ?それに、泉さんが来てくれたから私もほっとしたし」
「ありがとうございます。私のお話、こんなので役に立つのでしょうか」
「もちろん。ありがとうね。結局、好きなことを探すにはやってみるしかないってことなのかな」
「そうですね。私や河西さんは偶然にこのお仕事にたどりつきましたが、お嬢様の場合は、まずはいろいろなことにチャレンジしてみてはいかがでしょうか」
「そうねえ……あ、もう出なきゃ!」

潤はあわてて椅子から立ち上がった。思いの外話し込んでしまった。授業に遅刻してしまう。潤はキッチンから飛び出そうとしたが、今一歩のところで踏みとどまった。ふりかえって、嘘をつく。

「今日は授業の後で、友達の家で勉強会やろうって話になって。少し遅くなると思うわ。晩ご飯も皆で食べてくるからいらないわ」
「かしこまりました。駅までは迎えにあがりますので、どうぞお気をつけて」
「うん、ありがとう」

潤はほほえみを浮かべて見せて、今度こそキッチンを出た。
本当は千石さんと出かけるんだけれどね。潤は心の中で綾希に詫びた。本当のことなんて言えやしない。


(20140111)

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