カモマイルの悪魔 | ナノ


「どうして今の進路を選んだのかということを教えて欲しいんです。参考にしたくて」

勢いよく言い切った潤の言葉を聞いて、仁王は大きく息を吐き出し脱力した。その様子に潤が首を傾げると、仁王は椅子の背もたれから身を起こしてぐったりした様子で「なんじゃ」と言った。

「そんなことか。お嬢が人生などと大げさなことを言うから、何のことかと思うたぜよ」
「あら、ごめんあそばせ」
「こんなときだけお嬢様言葉になるとはふざけちょる、まったく。で、なぜそんなことを聞く?就活はまだじゃろ。幸村になんか言われたか?」

潤は苦笑した。鋭い。自分の好きなことさえよく分からない、なんて情けなくて人に話したくはなかったのだが、こちらがお願いして話を聞く立場である以上は秘密にすることもできまい。見合いの席で考えたことを話すと、目をつむって話を聞いていた彼はふむ、と相槌を打った。

「なるほど。しかし俺の進路は参考にならんぞ。適当に決めたからな」
「え、適当?ホントに?」
「ああ。大学にはいっとくか、理系の方が好きだ、って程度で大学を決めて、気が付いたら大学院の博士課程に進んどった」
「ええー!もうちょっとかっこいい理由はないんですか、科学の力で世の中だまくらかして生き抜こうと決めたとか」
「……お嬢は俺をなんだと思うとるんじゃ」

仁王は首に手を当ててぽきぽき肩を鳴らした。外の雨が一層強くなったようで、二人が座っている席の傍らにある窓は雨足に叩かれてぱたぱたと音を立てた。

「そうは言うがな、普通はそんなもんじゃろ。なんとなくこっちが好きだ、こっちが合いそうだ、そうやって決める」
「これが好きだからこう生きたい、とはっきり決めて生きてるわけじゃないってことですか」
「そうだ。お嬢、手塚国光と越前リョーマは知ってるな?」
「もちろん。日本を代表するテニスプレイヤーですよね、二人とも十代から活躍してる」
「手塚は俺たちと同い年でな、中3のとき、俺たち立海は手塚の率いる青学と全国大会の決勝で戦ったんじゃ。越前もその青学のレギュラーに入っていた」
「ええっそんな超有名選手たちと!?まさか仁王さんと幸村にそんな過去があったなんて」
「ははは、ちょっとテニスやってただけだと思うとったじゃろ。ま、結局俺たちは負けたがーーそれは横に置いておくがともかく、手塚と越前はテニスが好きで好きで、一生をテニスにそそぎ込む道を選んだわけだ」

仁王は懐かしそうに目を細めて自分の左手をながめた。彼は軽く手を握るような仕草をして、あのときは手のひらが豆だらけになってな、と呟いた。

「俺や幸村、そんとき強かった他の連中もほとんどはプロのテニスプレイヤーにはなっていない。プロにならんかった俺たちのテニスに対する情熱がプロになった手塚たちと比べて劣っていたとは思わん。情熱を燃やしたからこそあそこまで行けた。だが、プロにはならんかった。そんなもんじゃ」
「でも仁王さんは結局今の研究が好きだったから院にいるんですよね」
「そうだな」
「じゃあ、好きなことが見つからない人は?」
「一生の力をそそぎ込むほど好きなことを見つけられるやつなんてそうそうおらん。自分の仕事だって、熱中するほど好きになれるなやつは珍しい」
「そう、ですか」

潤は急に自分がまた迷子になってしまったかのような気分になった。確かにその通りなのかもしれない。自分の友人を見回してみると、将来こうしたいという強い思いがあったり、将来につながるほど執着するものがある人はあまりいないかもしれない。でも彼らにはそれなりに好みや生き方があって、それと比べれば自分のなんと個性のないことだろう。
仁王は元気をなくした潤の様子に慌てて、お湯をわかしていた河西に話を振った。

「なあ、河西さんは?あんたはなぜこの家で執事やっとるんじゃ」
「私ですか、長いお話になるのですが」
「それ、私も気になる。よかったら教えて」
「かしこまりました。そうですね、3時過ぎですからお茶を飲みながらお話いたしましょう」

河西は手早く用意した紅茶とビスケットをテーブルに並べ、キッチンの端から小振りなスツールを取ってきて自分はそこに座った。仁王はビスケットを長い指でつまみあげると、空いた左手の人差し指をちょいちょいと動かした。

「実はずっと気になっていた。ぱっと見、代々白岩家に仕えてきましたって顔しとるが昔お嬢のうちに遊びにきたときはいなかったしな」
「あのときはまだうちに使用人いなかったしね」
「そのころの私、白岩家へ来る前は別の家で使用人をしていました。更にその前は普通の会社員でした」
「会社員?生まれながらの執事肌に見えるぜよ」
「昔は言葉遣いも身なりも今よりずっと粗暴だったと思います」

河西の懐かしそうな話しぶりに、潤は目を丸くした。うちへ来たときの河西はすでに今と変わらぬ様子で、当時の自分は河西を「とても執事っぽい人だ」と思ったのだ。彼の綺麗に撫でつけられた髪は一糸の乱れもなく、真っ黒な靴はぴかぴか光っていて、皺のないスーツはマネキンの着ているそれに見えた。初めて彼にお嬢様、と呼ばれたときはお嬢様呼びになれていなかったせいもあって飛び上がったものだ。

「粗暴?紳士そのものだというのに、河西がそういう風だったなんて信じられない」
「ふふ、私は本当にそのあたりにいる普通の会社員でした。しかし40にさしかかるころ勤めていた会社が親会社の経営悪化のあおりをくらって倒産してしまったのです。慌てて転職活動をしたものの思うようにいかず、たまたまツテで始めたのが使用人という仕事でした」
「ほおう、なら河西さんも執事になりたかったとのではなくたまたま今の仕事についたってわけか」
「ええ。最初は何度も辞めようと思いました」
「なに、どうして?」
「窮屈に感じたのです。使用人なんて堅苦しい、息苦しい、俺には絶対に合わない、ほかの仕事を見つけてさっさと辞めよう。そう思っていたのにすっかり慣れてしまって、今ではこの通りです」

河西は苦笑して紅茶を一口含んだ。それにつられて潤がビスケットをかじると、全粒粉の素朴な味が口の中でぽろりと崩れた。紅茶を飲もうとカップを傾けると、不安定に揺れる自分の前髪が水面に映って見えた。

「今では満足しとるんか、この仕事に」
「ええ、とても。庭仕事から秘書まで幅広い仕事がありますが、どれも楽しいです」
「ふうん、そういうこともあるのね。我慢していたら楽しくなる、ってことも」
「私の場合は運が良かったのでしょう、仕事に慣れたところで肌に合わないということはよくありますから」

潤はなるほどね、と一言呟いて再びもくもくと口を動かした。
仁王と河西は結局、少なくとも今のところは自分の好きな道を歩いている。自分の父親のように確固たる意志を持って進むべき道を決めているわけではないようだが、それでも。しかし結果的に良い方向に進むことをただ願うだけではダメなのだろう。ということは、まずはやはり、自分の価値観を整理してみるべきなのだろうか。でも、どうやって?
いつの間にか手も口も止まっていた。潤はビスケットを摘んでいた手を堅く握りしめた。紅茶を飲みながら潤の姿を眺めていた仁王は、動かなくなった潤を見て口を開いた。

「なあ、お嬢。『赤の女王仮説』って知ってるか」
「ううん」
「河西さんは?」
「いいえ、残念ながら」
「赤の女王は知っとるじゃろ、『鏡の国のアリス』に出てくる赤の女王ぜよ」
「あのトランプの兵を連れてる?」
「ああ。赤の女王仮説というのは進化論で使われる言葉なんだが、赤の女王がアリスに言った台詞から名付けられているらしい」

赤の女王いわく、『その場にとどまりたくば、全力で走り続けよ』。

潤は仁王の言わんとすることが理解できなくて河西の方を見たが、彼は納得したように頷いていた。その場にとどまりたくば走り続けよ?とどまりたいなら立ち止まるべきだし、全力で走り続けたら前へ進んでしまう。
仁王は困ったような潤の顔を見てニヤリと笑った。

「周りの人間たちも、生物も無生物も。すべてが時間とともに進んでいる。じっと立ち止まっていたら置いて行かれて、今自分が居る場所も失うことになる」
「なるほど、仁王くんが言いたいことが分かりました」
「河西は分かったかもしれないけれど、私にはなにがなんだか」
「お嬢様はするべきことはしてきたでしょう、だからたとえ進んでいるように思えなくても少なくともその場に留まることはできている、ということですよ」
「何もしてないよ」
「勉強はしているだろ、家庭教師だったときの幸村が誉めていたぞ」

潤は息を飲んだ。優しかったころの幸村。あの時の自分は受験で頭がいっぱいだったけれど、幸村からはそう見えていたのか。確かにそれは仁王の指摘する通りだ。勉強についてはそれなりに真面目にやってきたし今でもその、はず。
……しかし、それではまだ足りない。大学のカリキュラムに従順になって勉強ばかりしていても仕方がないのだと、それではまだ何者にもなれない。
まだ納得がいっていないような潤の顔を見て、河西はぽんと手を打った。

「そうだ、あれこれ考える前にやってみるという手があるではないですか」
「どういうこと?」
「お嬢様、アルバイトはされていませんが、旦那様に禁止されているのですか?」
「ううん、お父さんからはされてないけど」
「それならば様々なアルバイトをしてみて、自分にとって何が楽しくて何が楽しくないか探ってみるというのはいかがでしょう。お金に困っていなくとも、自分でお金を稼ぐということには一段と喜びを覚えるものです」

河西はいかにも名案といったような口調だが、そこにばつの悪そうな仁王が口を挟んだ。

「あー、もしかして、幸村から禁止されとるんか?」
「禁止、というか。大学入学したころに家庭教師とか飲食店のバイトとかしてみたいと思っていたんだけれど、あれこれ理由つけられて反対されちゃって。変な家に教えに行くはめになるかもしれないとか、悪質な客に絡まれるかもしれないとか」
「それは……」

河西は困ったような顔をし、仁王は一つ唸った。

「過保護きわまりないな、幸村は。気持ちは分からんでもないが……お嬢はもう二十歳なんじゃからそろそろええと思うんだ」
「あ」
「どうなさいました」
「……ううん、なんでもないわ」

潤は紅茶を飲むふりをして慌てて顔を隠した。いいことを思いついてしまった。そうだ、なんで気が付かなかったんだろう。アルバイトをしたくても保護者に許可を取らねばならず、両親にアルバイトの話をすれば自然と幸村に伝わり、両親は反対しなくとも結局幸村に反対されるのだ。しかし私はもう成人している。保護者に許可を得る必要はない。
つまり、自由。


***


『from:千石清純
 sub: Re8:
 オッケー、じゃあ金曜日に♪繁華街の方は危ないから交番の前で待ち合わせはどうだい?』

『to:千石清純
 sub: Re9:
 それで大丈夫です、ありがとうございます!多国籍な感じで自由な雰囲気のあるお店なんですよ〜、顔が怖いお兄さんもいますけど(笑)
では、おやすみなさい。当日楽しみにしてます』

『from:千石清純
 sub: Re10:
 俺も楽しみで眠れなくなっちゃいそうだよ!顔の怖いお兄さんは恐ろしいけど(笑)
 おやすみ〜良い夢見てね、潤ちゃん♪』


(20131223)


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※トランプの兵を連れているのはハートの女王でした……アホな勘違いすみません/(^o^)\ ご指摘ありがとうございました。本筋には影響がないので当面は訂正はしないことにします。

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絶滅せずに生き残るには絶えず進化し続けなければならない、という仮説です。

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