カモマイルの悪魔 | ナノ


3面のうち真ん中に位置するコートの端っこで、潤はやや緊張しながら二人を待っていた。両脇のコートではホテルの宿泊客らしき初老の男女や上品な中年のグループが和気藹々とテニスを楽しんでいるというのに、これから幸村と社長の息子が行う試合は真剣そのもので、潤の強い気持ちが掛かっていた。できることならあの傲慢男をこてんぱてんにしてもらいたい。
ただ幸村は、相手のメンツを慮って接待をするように相手に花を持たせるかもしれない。それが社員としてあるべき姿なのかもしれない。が、先ほどの笑みを浮かべた幸村は潤の望みを叶えてくれそうにも思えた。

「やあ待たせたね、潤ちゃん」
「失礼します」

真剣にこの先の展開について思いを巡らせていると、社長の息子と幸村が階段を降りてコートへ近づいてきた。二人ともホテルの名が入った紺色のジャージを着、手には真新しいラケットをボールを手にしている。
潤は幸村からホテルの新しいタオルを受け取る。正面からジャージの幸村を見て、潤はふと懐かしさを覚えた。
幸村が白岩家に来たばかりのころ、彼はよくジャージのまま大学から家に帰ってきていたっけ。授業が終わった後にテニスをしているのだと彼は説明していた。幸村のテニス仲間だと言って、何度か白岩家に仁王たち数名が遊びに来たこともあった。それはもう潤が来た人たちの顔も覚えていないほど昔のこと。そのころ潤は、まだ引っ越す前で狭かった家の庭で、幸村に少しだけテニスの手ほどきをしてもらったこともあった。グリップの握り方、スイングの仕方、足の運び方。――あのころは、幸村とはそれほど良好な関係だったのだ。手取り足取り笑いながらテニスを教えてもらえるほど。そんな過去の事実も今となっては信じがたい。

ラケットをぐるぐる回しながらニヤニヤ笑っていた社長の息子は、対面でストレッチをしている幸村にむかって呼びかけた。

「サーブ権は君にあげるよ。オレは泰造おじさんにテニス習ってたぐらいだからね、サーブまで取っちゃうのはさすがに可哀想だ」
「ありがとうございます、ご配慮傷み入ります」

幸村は彼の嫌みには全く反応せず冷静なままだった。潤は審判代の横へ移動して幸村の様子を密かに伺ったが、動揺している様子は全く見られなかった。
幸村はテニスが強かったらしいとは聞いている。仁王や丸井によれば「神の子」という二つ名で呼ばれるほど強かったそうだ。だが「強い」なんて言葉は曖昧なもので、いくら「強い」と絶賛されたからといって社長の息子より強いかどうかは分からない。でも、今の幸村の冷静な様子を見ても、普段の徹底的に何かを極めようとする様子を思い出しても、潤には幸村が社長の息子に負けるとは思えなかった。負けて欲しくなかった。

「1セットマッチでどうだい?あっという間に終わっちゃうかな、一試合ちゃんとした方がいいかい?」
「社長たちを待たせると申し訳ありませんから、1セットでお願いします」
「いいの?ま、オレはそれでいいよ。じゃあ準備もできたようだし、そちらから、どーぞ」

社長の息子はにやけた面を隠そうともせずサービスラインでラケットを構えた。その顔を見ているだけで怒りが再燃してきた潤は、顔を背けて幸村に視線を移した。
幸村が左手をすっと宙にあげると、蛍光色のテニスボールが青い空にまっすぐ上がった。ボールが晩春の光を受けてきらりと輝く。シュッとラケットが空を切る音がして、ボールはまっすぐ相手の元へ飛んでいく。乾いた音がして、社長の息子は易々と球を幸村に返した。

「球が軽いけど大丈夫?どんどん行っちゃうよ?」

幸村は返事をせず黙ってボールを打ち返す。一定の間隔を空けてラケットにボールの当たる音が鳴り響く。社長の息子はややゆるんだ顔で、幸村は真剣な顔でテニスをしている。
固唾を飲んで二人の様子を見守っていた潤は、最初こそボールの行方をいちいち顔で追っていたが、だんだん首が痛くなってきて頭を回すのをやめた。もう5分くらいは経っていそうだがどちらもミスする様子はない。社長の息子は大きな声で叫んだ。

「へえ、結構やるじゃん!でもキミ、そんなんで大丈夫かな?」

潤ははっとして二人の様を凝視した。ラリーがこれほど続くのだから二人は同等の強さなのかと思っていたが、二人の動きは明らかに違う。社長の息子はその場からほとんど動いていないのに対し、幸村はコートの端から端へ右へ左へと動き回っている。息子は幸村がいない方へとボールを返しているが、幸村はボールに追いつくので精一杯なのか球を息子がいる方へと打ち返してしまっている。
揺さぶられている。
幸村が、押されている?
潤は両手をぎゅっと握り合わせた。頑張ってほしい、勝ってほしい。



潤は祈るような気持ちで緊張していたが、その緊張はラリーが続くにつれ徐々に薄れ、それから5分ほど経過したときにはたと気がついてあっけに取られた。
まだ一球目のラリーが続いている。やたらとラリーが長いがそれはまだいい。それよりももっと注目すべきところは社長の息子が段々と息を荒げていうることだった。それに比べ幸村は汗一つかいていない。

「なんで?幸村の方が動いているはずなのに」

幸村は息も乱れていない。それほど体力があるということ、だろうか。幸村が全く体力を消耗していないことに気がついた社長の息子の顔から徐々に余裕の笑みは消えていき、厳しい顔をして必死でボールを打ち返している。一方の幸村は涼しい顔でラケットを振るい、フットワークはますます軽くなっているように見える。縦横無尽にコートを駆け回り、どんなところへ打たれたボールでも危なげなく社長の息子の元へ返している。

「しまっ……!」

手元が狂ったのか、軽い音を立てて息子のボールが高く上がった。その落下地点では幸村が既にラケットを構えている。潤は歓喜で息を飲んだ。このスマッシュでついに点数が入る!
だが潤予想に反して幸村は球をバウンドさせ、普通の球と同じように打ち返した。

「え?」

ミスにしては妙なミスだ。スマッシュを打つのは簡単だったはずだし、何か間違えたようにも見えない、むしろ最初からスマッシュを打つつもりなどなかったかのようだった。潤と同じく疑問に思ったらしい社長の息子もまた一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、「ラッキー」と呟くと一際早くラケットを振るった。だが力が入りすぎたのか球はラインの外へ飛んでいく。社長の息子の舌打ちが聞こえた。
しかし、幸村はその球に追いつくと、またそれを息子へ打ち返した。

「なっ」
「何!?」

潤は息を飲んだ。明らかにアウトだったにも関わらず幸村はまだラリーを続けている。まさか、まさか……やっぱり、さっきスマッシュを打たなかったのも、ミスじゃなくて、わざと? 潤と同じことに気がついたらしき社長の息子もまた、愕然としている。
幸村は何も言わず、感情を表に出さずただ淡々とテニスを続けている。幸村がスイングするごとに鳴るボールとラケットの衝突音がどんどん低く迫力を増しているように聞こえた。

「ぐっ」

それからまた数分ラリーが続いた後のことだった。息を切らせた社長の息子が手元を誤ったのか、彼のラケットが間抜けな音を立てた。弱々しく宙を舞ったボールはあっけなくネットに掛かった。彼はボールがネットに掛かったのを見届けるや否や膝と手をコートについて頭を垂れ、肩を激しく上下させて荒く呼吸をしている。体力の消耗が目に見えて激しい。
まだ1セットは終わっていない。だが、試合は終わりだった。
潤はコートから出てこちらへやってきた幸村にタオルを渡した。幸村はふう、と一つ息をつくと真顔をひっこめて満面の作り笑いを浮かべた。そして相手のコートに入り、タオルを差し出して社長の息子の傍らに跪いた。

「さすが季楽選手の甥御さんでいらっしゃいますね!ミスに救われました」

幸村は試合前までの殊勝な様子はどこへやら、すっかり接待モードに入って、フォローのつもりなのか白々しいおべんちゃらを適当に並べている。当の社長の息子は疲労とショックでろくにものも言えないのか、すっかり大人しくなって無言のままタオルで顔を拭いている。
潤は深々と息を吐いた。潤には幸村が自分の頼みを聞いてくれたのか、それとも自分のプライドから負けたくないと思ったのかは分からない。だがどちらにせよ、幸村は負けずにできるだけ相手を接待するテニスをしたようだった。
幸村はまだ膝をついている社長の息子に一言二言語りかけた後、再び潤の元へやってきた。

「さあ、お座敷へ戻りましょう」
「季楽さんは?」
「彼はしばらくここへ残るそうです」
「わかった」

潤はちらりと社長の息子の様子をうかがった。あのにやけた顔はどこへやら、魂の抜けたような顔をしてコートに座り込んでいる。よほどテニスに自信があったのだろう。
社長の息子のことが少し可哀想になってそちらを気にしていると、潤は突然腰を押され歩くように促された。

「な、ちょっと、幸村」
「社長をお待たせするわけにはいきませんから」
「分かった、分かったから」
「お嬢様らしくしてくださいと言っているでしょう」

聞き慣れたとげとげしい言葉。潤が隣を歩く幸村を見上げると、彼は笑顔で、しかし笑わぬ目をしていた。いつも通りの、潤が知っている幸村精市。
潤は早足で歩きながらもうつむいた。普段通りの幸村。試合前にみた幸村の笑顔は本物だったように見えたけれど、もしかしてあれは幻だったんだろうか。かつての幸村が見せた、作り笑いでもなければ女を落とすときのような笑みでもない、心からの笑顔。
幸村にテニスを教えてもらったときは、その笑顔が当たり前のものだと思っていた。当たり前のはずだった。でもいつしか幸村は潤に冷たくなり、潤も幸村が嫌いになった。
どうしてこうなってしまったのか。
潤が考えて思い当たるのは、あの幸村のかつての彼女に殴られたあの日のことだけだったけれど、それでもまだ、幸村と潤の関係がここまでこじれてしまった原因はよくわからなかった。


(20131124)

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