カモマイルの悪魔 | ナノ
潤は手紙を握りしめ、目を皿にしてそれをよく見つめた。だが先ほどの認識に誤りはなく、手紙にはしっかりと「見合い」の三文字が刻まれている。「見合い」の三文字に驚いて一瞬足を止めた綾希も仕事へ戻ってしまい、潤はただ一人呆然と立ち尽くした。いつかお見合いをするとは思っていたけれど、予想以上に早い展開だ。だってまだ大学2年生なのだ。
しばらく立ちすくんでいると、階段を降りる音とともにガウンを羽織った白岩社長が現れた。いつも日曜日は接待で留守にすることが多いというのに今日は何もないのか、彼はのんびりと伸びをしている。
「おはよう。朝からそんなところで棒立ちになって、何があったんだね」
「お父さん!おはよう、あの、これ」
潤が手紙を掲げて見せると、白岩はちらりと封筒の差出人を確認し、あくびをした。
「ああ!堂本からか。ようやく時間が空いたんだな」
「何か知ってるの?どういうこと?」
「私の昔の同級生でね。彼は前から潤に見合いを奨めてくれていたんだ。見合い相手が悪くないなら会ってみる分には悪くないかと思ってな。時間が空いたら世話人をしてくれと言っていたんだ」
「そういうことね……」
つまり、堂本さんとやらが仲介役になって、見合い相手を紹介してくれるということらしい。そんな具体的な話があるならちゃんと伝えてくれればよかったのに、と潤は内心文句を言う。そうして眉間に皺を寄せて手紙を眺めていた潤は、ある一点を目に止めて凍りついた。
「へ?」
「何だ、潤」
「お見合いの相手、季楽ってまさか……」
「そうだ。KRKプロダクツ社長の息子さんだ。KRKは知っているな?最近一部上場したあの会社だよ。そうそう、季楽社長といえば、彼の弟は元プロテニスプレイヤーの季楽泰造だったはずだ。幸村くんは知っているんじゃないか」
唐突に幸村の名前が出たので潤は飛び上がりそうになった。だが直後に本当に幸村の声が聞こえたので潤は心身ともに凍りついた。
「ええ、まあ。季楽選手は存じております。季楽社長のことも多少は。社長の息子とやらは知りません」
「最近彼はお父さんの会社で勤め始めたそうだよ。次代の社長なのだろうね」
庭掃除でもしていたのか、いつのまにか玄関に立っていた幸村は軽く服を払ってこちらへ近づいてくる。潤は手紙をよく読むふりをして白岩の影に隠れた。昨日の今日だから、朝っぱらから幸村と正面から向き合いたくはなかった。
「幸村くんはどう思う?」
「KRKですか。少なくとも今の社長は辣腕で有名ですし、良い話ではないでしょうか」
潤は自分の気分がどんどん沈んでいくのが分かった。男性絡みのお見合い話でも幸村は乗り気だ。それはつまり、幸村がこのお見合いを「社長令嬢にふさわしい」と判断したということ。勝手に判断しないでほしい、まだ見合いなんて考えてなかった、と言いたくなるが、しかし潤にははっきりと見合い話に反対する理由もなかった。
「浮かない顔だね。嫌なら嫌と言いなさい、潤」
「うん」
「もしや好きな相手でもいるのかい」
「まさか。ちゃんとお相手ができるかなってちょっと心配になっただけ」
気遣ってくれる父親に潤は微笑みを返した。乗り気にはなれないが、一度お見合いをしたからといってその相手と結婚しなければならないわけでもない。それに、どうせ好きな人なんていないんだから。
「では白岩社長、見合いの準備をしなければなりませんね」
「ああ。堂本への返事は私からしておくが、その他の手配は君と河西に任せることにしよう」
「かしこまりました」
幸村は白岩と潤に頭を下げると、きびきびとした足取りで執務室へ向かっていった。続いて白岩も、潤の頭をぽんと叩くとダイニングへ向かっていく。
今朝のたったの数十分で、お見合いに向けて大きく前進してしまった。
潤は幸村の背中を見ながら、昨夜のパーティーで見た美波の顔を思い出していた。あれが恋する乙女の顔だというならば、やはり自分が恋をしてあんな瑞々しい表情をするようになるとも思えなかった。誰かとお見合いをして、誰かと結婚をして。そうして最後まで熱烈な愛情も強烈な不満も抱くことなく、淡々と人生が過ぎていくように思えた。
***
潤は眼前の白紙をギンギンに冴えた目で睨み付けていたが、ついにそこに一文字も書くことなく机に突っ伏した。部屋はすっかり闇に包まれ、デスクライトだけが潤の顔の周りを小さく照らしている。見合い相手に渡すプロフィールが書けないのだ。昼間からプロフィールをあれやこれやと考えたにもかかわらず全く書けぬまま、夜中になってしまっていた。課題のレポートより難しいじゃん、と潤は一人文句を言って、突っ伏したまま大きなため息をついた。まだ大学生だから経歴はたいして書くことがない。問題は趣味や特技についてだった。
趣味、と言われても何も思い付かない。カラオケや音楽鑑賞は好きだったけれど、胸を張って趣味と答えられるほど熱中しているわけではない。熱心に真面目に取り組んでいることといえば大学の勉強くらいだが、それもまた趣味ではない。だが無趣味というわけではないし、第一、無趣味だったとしても見合い相手に堂々と「趣味はありません!」と言えるはずがない。
潤は頭を抱えた。バドミントンやテニスも少々たしなんだし、登山や水泳もする。でもどれも気が向いたときに少しだけといった程度で趣味とはいえない。
つまり、趣味といえるほど好きなことなど何もないのだ。
潤はお茶でも飲んで考え直そうと立ち上がった。ライトを消して部屋を出、階下のキッチンへ向かう。屋敷は消灯していて薄暗いというのに、キッチンからは白い蛍光灯の光が漏れ出していた。中には案の定、綾希がいて、彼女は紅茶を片手に料理の本を熱心に読んでいた。
「泉さん?」
「あら、潤様!いかがなされたのですか」
「ちょっと、行き詰まっちゃって。お茶でも飲もうかなと思って」
綾希は素早く立ち上がるとやかんを火にかける。潤はお気に入りの真っ白で丸いポットを棚から取り出すと、中へ黄色いカモマイルを豪快に放り込んだ。
綾希は潤の気取らない態度にクスリと笑って、優しく尋ねた。
「こんな時間まで起きていらっしゃるのは珍しいですね。レポートの締め切りでも迫っているのですか」
「ううん。お見合いの釣書」
「つりがき……自己紹介を載せた書面のことでしたっけ」
「うん、そう。上手く書けなくてね」
やかんの口から細く湯気が登っていく。潤は肺の底から重い息を吐き出した。どうしていいのかが分からない。
「ね、泉さん、趣味は?」
「そうですね、観劇でしょうか。最近はなかなか行けていないのですが、ミュージカルやオペラを見るのが好きですね」
「そっか。私は行ったことないなあ」
「私も、見に行くようになったのはつい数年前からですよ。潤様も機会があれば見に行ってみてください」
綾希は嬉しそうにお薦めの演目について語りながら、ポットにお湯を注いでくれる。
潤は綾希の姿を見て、ますます自分が分からなくなった。好き、という感情は自分にももちろんある。登山だってバドミントンだって楽しかったし、どちらかと言えば好きだ。だが潤の「好き」と、綾希や美波の持つ情熱的で継続的な「好き」の間には天と地ほどの差があるようにも思えた。バドミントンも登山も水泳も音楽も、人に奨められるままなんとなく楽しんでいただけで、誰かに熱心に語れるほど詳しくもないし好きでもない。
潤は綾希から紅茶のカップを受け取って、中を覗き込んだ。わずかに揺れる水面に映った自分がまとまっては千切れてを繰り返している。まるできちんと形を持った女の子などそこにはいないかのように。
潤の口から自然と言葉が転がり落ちた。
「ねえ、綾希さん。人を好きになるってどんな気持ち?」
綾希は一瞬吹き出しそうになって、ようやく口に含んでいた紅茶を飲み込み、そして顔を赤らめた。
「ご、ごめん。タイミング悪かった」
「いいえ。えーと、そうですね……」
潤の目の前で赤くなっている綾希は、眉尻をかすかに下げて視線をうろうろと動かし、その姿は恋する女の子のように見えた。
冷静を装ってカップに口を付けた綾希は、彼女は幸村に恋をしているのだと確信した。潤から見ると幸村と綾希の関係は対等で、決して綾希が一方的に幸村を追いかけているようには見えない。でもこの綾希の顔は、今まで幸村に夢中になったメイドたちが見せた顔と同じだ。幸村も綾希には真摯な対応をしているようにも思える。
つまり、やっぱり、そういうことなのだ。
綾希は頬をやや赤くしたまま真顔に戻ると、小さくて明確な声で答えた。
「いつの間にかその人のことを考えてしまう、その人のことを思うと幸せな気分になる、でも同時に恋には不安や悩みもつきもので、それで」
綾希は唐突に言葉を切って息を飲んだ。先ほどの幸せそうな様子はどこへやら、顔に狼狽の色を浮かべている。
「泉さん?」
「…………あ。すみません!なんでもありません。仕事を少しやり残したことを思い出しまして」
「あら。でもよくあることだから、そんなに気にしなくていいのに」
潤がわざと明るい口調で言うと、綾希は小さく頷いた。彼女は深呼吸をするとその場で真剣に何かを考え出したが、綾希は彼女が珍しくも微かに不安定になったのを感じ取った。
幸せに安定しながら不幸せに不安定。これが、好き、ということなのだろうか。
潤は目を閉じてカップを一気に煽った。好きな人もいなければ好きな趣味さえもない。
私は一体、何なのだろう。
(20131110)
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KRK→KiRaKu。見合い相手は緑山のオキラクちゃんの従兄という設定。特に深い意味のない設定。オキラク本人はたぶん出てこない。
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