カモマイルの悪魔 | ナノ


ほんの少し欠けた月が明るい夜だった。空は薄い雲で覆われて月を隠したり出したりしている。白岩邸の前で自転車を止めた仁王は、鉄門の鍵を開けて音を立てぬようにゆっくりと押し敷地に足を伸ばした。彼が真夜中に白岩邸を訪れるのは初めてのことで、静まりかえって明かりの灯らない建物は普段彼が見ている屋敷とは別のものに見えた。
丁度出かけようとしていた河西と入れ替わりに屋敷へ入った仁王は、中はすっかり明かりが消えて薄暗いというのに、廊下の奥、キッチンからは蛍光灯の白い光が漏れていることに気がついた。仁王は首をかしげてキッチンへ向かう。キッチンでは、幸村が流し傍のスツールに腰掛け物思いに耽っていた。火のついたコンロの上ではやかんが激しく蒸気を噴き出して蓋がカタカタと踊っている。仁王は慌てて火を止め、幸村に話しかけた。

「幸村。まさか疲れてんのに俺を待っててくれたんか」
「ああ、いや、そんなことはない」
「ならいいが。すまんな、夜中に突然。昨日台所で教科書をちらちら見てたんだが、料理するのに棚の高いところに置いてそのまま忘れ――」

仁王は棚の上に手を伸ばして分厚い本を取り、幸村の方を振り返ったところで口をつぐんだ。彼はどこを見ているのやら、呆けたような顔をしていた。湯が沸騰していることにも気がつかないくらいなのだから、普通の状態ではない。
仁王は片眉をあげると、従業員用の棚からカモマイルティーを勝手に取り出してポットに入れ、湯を注いだ。幸村はハーブの香りに気がついて、ゆっくりと顔を上げた。

「最近はどうだ。泉さんは上手くやってるんか」
「ああ。とても、良い仕事をする人だ。たぶん彼女は白岩家に馴染んでくれるんじゃないかな」
「そうか」

仁王はそれ以上どう答えて良いものか分からず、黙って茶をカップに注いだ。今までのメイドがすぐに辞職していた原因を仁王は知っている。メイドが居着くというのはすなわち、幸村がメイドに手を出すのをやめたか、メイドが幸村をはね除けるタイプだったということだ。しかしいずれにせよ今の変な幸村に聞ける話ではなかった。
仁王からカップを受け取った幸村は、わずかに揺れる黄色い透明の湯をじっと見つめている。幸村は一口お茶を飲むと、はっきりした声で話し出した。彼はもう普段の様子に戻っていた。

「カモミールティーの色を見ていると立海中のジャージを思い出すな。あのころは楽しかった。中学といえばね、この前会社のパーティーで跡部に会ってさ、相変わらず馬鹿みたいに派手な男だったよ」
「はは、変わらんな。あの跡部が大人しくなってたらそれこそ驚きだがな」
「ああ。仁王は最近跡部には会ったかい」
「いや、雑誌で見かける程度だ。宍戸と鳳になら偶然街ですれ違ったが」
「跡部のこと、何か言ってたか?」

仁王が幸村の方を向くと目があった。その真剣な眼差しから、仁王は幸村が跡部の情報をほしがっているのだということに気がついた。跡部とトラブルでもあったのか、それとも逆に一緒に仕事でもすることになったのか。仁王は真面目に記憶を堀だそうと眉間に皺を寄せた。

「いや、なんも。たぶん」
「そうか。じゃあ白岩社長からは何か聞いてないか?」
「社長とはそもそもここんとこ全く会ってないな。俺がここへ来るのは夕方で、社長が帰宅すんのは夜中じゃろ」
「そうか。そうだな」
「何があったか知らんが疲れているように見えるぜよ。早く寝ろよ、幸村」

仁王は空になったカップとポットを受け取ると、手早く洗って水切り台に伏せる。教科書を忘れずに脇に抱えて歩き出したところで、幸村が独り言のようにつぶやいた。

「次の手を考えないといけないかもしれないな。相手が誰であれ、邪魔されるとやっかいだ」
「何のことだ。誰であれって、社長でもか?」

仁王はキッチンの戸口で振り返ると冗談めかして口を挟んだ。だが幸村はほほを緩めることもなく、無表情に暗い瞳を床の一点に向けていた。仁王は幸村の無機的な目つきに気がついてひやりとした。幸村とは長いつきあいであるというのに、仁王にも彼が何を考えているのか、それが良いことなのか悪いことなのかさえも分からなかった。

「幸村。おまん、何を考えとるんだ」

幸村は微動だにしない。仁王は口をへの字に曲げて頭をかいた。
仁王は、幸村が昔よりも頑固になったことに気がついていた。彼は人間関係においては決して不器用ではなく、むしろ言うべきことは素直に言い、黙るべきときは黙ることができる器用なタイプだったから友人とであれ恋人とであれ良い関係を築くことができた。しかし今ではその器用さが仇となって、自分の言いたいこともろくに言えないのではないかと思う。潤との関係でもそうだった。彼女は幸村の行動に不快感と不信感を抱いている。それ自体、今の幸村の不器用さの産物だ。少なくとも昔の幸村なら潤に不安を抱かせぬように行動を起こすことができたはずだ。
だからこそ、今の暗い目をした幸村が何を抱えて生きているのか、仁王は気になって仕方がなかった。

「首をつっこむ気はないが、俺にできることがあるなら言えよ」

仁王の言葉を聞いて、ようやく幸村は口の端を緩めた。

「ありがとう。じゃあ、頼もうかな」

次いで幸村の口から出てくる言葉に、仁王は熱心に耳を傾けた。


***


白岩カンパニーの本社ビルは、都内の会社らしく深夜だというのに煌煌と明かりが灯っていた。河西は従業員用のカードキーでビルの中へ入り、まっすぐ社長室を目指す。つやつやした木の分厚い扉をノックしたのち、中から聞こえる「どうぞ」という白岩の声に従って河西は入室した。机のそばには肘掛け椅子に腰掛けた白岩社長と厚いファイルを片手に立つ鈴木副社長がいる。
河西はお辞儀をするとにこやかな顔で一言、端的に告げた。

「『蜂』が進入しました」

鈴木は面食らったような顔をして机の上にファイルを置く。白岩はあごに手を当てて河西の目を見据えた。

「間違いないか」
「ええ」

白岩はそうか、とつぶやいて押し黙った。会話の内容について行けなかった鈴木は、しばらくしてようやく以前白岩に聞いた話を思い出した。

「蜂、とはもしかして以前話に出た『盗蜜者』のことですかい」
「いかにも」

河西は両手で眼鏡のつるを押し上げると、鈴木に向き直って説明した。

「蜜を盗みに来る輩がいるかもしれない。だから注意しておけと言われていたのです。社長のおっしゃる通りになりました」
「なるほど。しかし社長、その蜜とは一体何のことなんです?機密情報ですか、それとも取引先や人材とか?それに、どうなさるおつもりで」
「何をどこまで奪うつもりなのかは分からない。だが私たちの手の内にいる蜂が蜜を盗んで逃げてしまえば、こちらの大損害になるのは間違いない」

白岩は顔をしかめる鈴木を笑い飛ばした。

「どうもしないさ。既に対策は済んでいる。後は待つだけでいい」
「はあ」

河西は終始笑顔を絶やさぬまま社長室から退去した。河西を見送った鈴木は、上機嫌で見通し不明な白岩の楽観主義に一抹の不安を覚えた。


***


嫌な体験をした日の翌朝はろくな状態ならない。
潤は二階の簡易洗面台で顔を洗って、タオルでごしごしと顔をこすった。窓からはいる早朝の白い光に照らされて鏡に映った自分の顔は、やや隈があるものの涙の跡はすっかり消えて泣いたようには見えない。もう大丈夫。そう思った潤は大きく息を吸い込んで階下へ向かった。
洗濯機を回す音がかすかに聞こえる。綾希は既に起床して仕事を始めているのだろう。そう思うと潤は足取りが重くなった。
昨日の夜は散々だった。幸村には跡部との話を根掘り葉掘り聞かれ、美波と樺地の件は隠し通したが、それが余計に幸村に不信感を与えてしまったようだった。針のような声で「立場を弁えて、いくら跡部景吾が相手でも先走ったことはしないように」と余計な釘をさされた。それに何より、綾希の気持ちが気がかりだった。彼女は幸村の「愛してる」を聞いてショックを受けたような顔をしていた。一体、どんな顔をして彼女に会えばいいのだろう?
廊下で悶々と考えていると、パタパタと軽い足音がして綾希がこちらへ向かってくるのが見えた。

「潤様!おはようございます」

ところが彼女はいつも通りだった。潤は挨拶をするのも忘れてまじまじと綾希を見た。表情も髪型も服装も態度もすべて普段と同じだ。
凝視された綾希は慌てて自分の服装をチェックし始めた。

「あの、私に何かおかしいところが!?」
「……おはよう、泉さん。あの、えーっと」

どこから話し始めればいいのだろう、と潤は逡巡した。いつも通りに見えていても、昨夜はあれほど愕然とした顔をしていたのだ、平気なはずはない。誤解は解いておかないと後々厄介なことになりかねない。

「昨日の夜のことなんだけど。そのー、聞いてたんでしょ?幸村の」
「えっ。ええ、はい、すみません」

彼女はとたんにばつが悪そうな顔をした。潤は急いで首を振って言葉をつなげる。

「違うの、聞かれたくなかったってわけじゃなくて。そもそも幸村は本気であれを言ってるわけじゃないから信じないで欲しくて」
「ああ、そういう話ですか。大丈夫です、本気じゃないことは分かっています」

あっさりと納得した綾希に潤は喫驚した。今までのメイド達ではありえなかったことだ。ほっとすると同時に、喉の奥が乾くのが分かって潤は唾を飲み込んだ。
幸村のあの言葉をすぐに戯れ言だと分かるくらい、幸村のことをよく理解しているということだ。綾希はまだ幸村と知り合って間もないというのに。――あるいは、昨晩見たとおり綾希と幸村は既に懇ろになっていて、幸村が潤を愛するはずがないと知っているか。
潤は大きなため息を一つついて、今度はゆっくりと言った。

「よかった。じゃあ泉さんが驚いていたのは、幸村があんなタチが悪い冗談を言ったから?」
「ええ、まあ……。潤様が幸村さんを苦手とされているのは、もしかして、幸村さんにああいうことを言われるからですか?」
「うん、そうなの。最初はあんな人じゃなかったんだけどね、幸村。あの愛の言葉に本気なんて一かけらもなくて、それに私が気がついているっていうことも知っているくせに。……あっ、ごめんなさい。朝の仕事中なのに」

忙しい時間に愚痴をたれてしまったことを謝ると、綾希は笑って頭を振った。

「いいえ、とんでもない。もし潤様がよろしければ、後でゆっくりお話しませんか」
「いいの?喜んで」
「もちろん、こちらこそ嬉しいです!そうそう、忘れるところでした。お手紙が届いておりますよ、潤様」

彼女はエプロンから真っ白な封筒を一通取り出す。それは上質な封筒で縁にはバラの模様が浮き彫りになっている。筆で書かれた差出人は知らない人物の名前だ。

「知らない人ね。何だろう」

その場で開いて手紙を取り出す。後でしっかり読もうと斜め読みし、しかし潤の目にある単語が止まった。

「は?」
「どうなさいました?」

会釈をして去りかけていた綾希が潤の声に引き留められて振り返った。
潤は自分の顔が引きつるのを感じた。思わず手紙を持つ手に力が入る。

「潤様?」
「お見合いの誘いが来たみたい」

その言葉にまた綾希も驚き、目を丸くした。


(20131104)
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変換ミス連発。申し訳ない…

boy-meets-girl

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