カモマイルの悪魔 | ナノ


潤が玄関から長い廊下の奥へ「ただいま」と声を掛けると、小走りで綾希がこちらへ向かってきた。おかえりなさいませ、と深々と頭を下げた彼女は満面の笑みを浮かべて潤から上着とバッグを受け取る。潤はこっそり彼女の様子をうかがったが、彼女はいつも通りにしか見えずその気持ちを測ることはできなかった。

「いかがでしたか、パーティーは」
「とても楽しかった!跡部先輩のご友人もみんな気さくでね、会社のパーティーみたいに堅苦しくもなかったし。そうそう、泉さん、ありがとう!」
「何のことでしょう」
「跡部先輩にもドレスよく似合ってるぜって褒められちゃった。選んでくれた泉さんのおかげでね」

三和土に立ったまま潤はドレスの裾を直した。別れ際にさりげなく伝えられた褒め言葉。言われた当初はぽかんとあっけにとられるばかりだったが、時間が経つにつれじわじわと嬉しさがこみ上げてきた。見え透いたお世辞を言われることはしばしばあったけれど、自然に褒められた経験があまりないから余計に嬉しく思える。全く、女性の扱いが上手いんだから、と潤は心の中で呟いた。

「やっぱり!よくお似合いでしたもの。跡部様とも親交を深められたようで何よりです」
「そういえば、そうね。前回パーティーで会ったときともだいぶ違った印象を受けたし」
「あら。今日は、どのような印象だったのですか」
「うーん、前見たのは跡部先輩の実業家の顔で、今日見たのはプライベートな顔だったのかもしれない。前回は怖いくらいで何を考えてるのかもよく分からない人というイメージだったんだけど、今日はとても優しい人だった。前よりもずっとね」
「優しい人」
「うん。それでね、事情があって跡部先輩たちとダブルデートすることにもなっちゃって」
「えっ」

綾希は目を見開いて驚いたように声を上げ、次に綺麗な笑顔になって「それはようございました」と言った。
間。潤は靴を脱ぐ手を止めて立ちつくした。綾希はさりげなく潤の上着のしわをのばしているが、彼女の言葉の間には妙な間があった。何もおかしなことを言ったつもりはない。潤は違和感の元を確かめるつもりで綾希と会話を続けようとしたが、その前に幸村の声が耳に飛び込んできた。

「おかえりなさいませ、お嬢様。どうぞ」
「ありがとう」

幸村は潤に手を差し出した。三和土から床に上がるくらい手なんかなくていいわよ、と潤は思ったがそれを口にはださず笑顔で手をつかんでスリッパに履き替える。部屋に戻ろうと幸村から手を離す。離そうとした、が、幸村は潤の手を強く押さえて離さなかった。そのまま彼は潤に上半身を寄せると、唇だけで笑顔を作って囁いた。

「愛してますよ、お嬢様」

ありがとう、といつものように反射的に呟こうとして潤は気がついた。近くに綾希がいる。慌てて彼女の方を見ると、幸村の肩越しに見えた綾希の顔は驚愕でこわばっていた。
聞かれた。どうしよう。綾希は幸村とさっきあれほど仲良くしていたんだから、いい気がするわけがない、綾希なら幸村が本気で笑顔を浮かべていないことくらい分かるかもしれないが今の彼女の位置からは幸村の顔は見えない。
潤が慌てて言い繕う前に、綾希はこわばった顔に無理矢理笑みを浮かべて「それでは仕事を済ませてきます」と呟き、長い廊下の奥へ小走りで消えてしまった。

「あ、待って、痛っ」
「まだ話は終わっていませんよ」

綾希を追いかけようとするが、潤の手は幸村に強く握られたままでその場に押しとどめられてしまった。体をよじって逃れようとしても離してくれない。幸村は執拗だった。潤は幸村から離れるのを諦めて、至近距離で彼を睨み付けた。

「ちょっと、どういうつもり!?なんであんなタイミングでそんなこと言うのよ」
「おや、何か変なことを申しましたか」
「わかってるくせに」
「さあ?何のことだか」

幸村は潤の怒りを軽くいなして、せせら笑った。嫌な男。本当に、悪魔のような男。

「それで?跡部先輩のことが聞きたいわけ」
「よくお分かりで」

幸村は男性関係にはうるさい。ただ潤を送った千石にもあの噛みつきようだ。そして幸村は前回のパーティーではあまりにも跡部に対して攻撃的で、まるでライバル視しているようにも見えた。潤は幸村が執事として「お嬢様」の男関係に気を配っているのか、それともそれ以上に跡部の動向が気になるのかは分からなかったが、ともかく「跡部とのダブルデート」が気になったのだろうということは直感していた。
眉間に皺を寄せる潤を見て、幸村は再び「愛していますよ、お嬢様」と呟いた。嘲るような笑いを浮かべながら。


***


綾希は広い物置部屋に飛び込んでドアを閉めた。部屋の奥の奥、今は使われていないタンスの影に入って両手で胸を押さえた。心臓が嫌な音を立てている。それだけショックが大きかった。白岩家に来てから信じられないほど穏やかな日々を送っていたのに、今日は衝撃を受けることが多い。深呼吸をして、潤はとりあえず、さっき聞いたことから情報を整理することにした。


幸村さんは、お嬢様に、なんて言った?

愛してますよ、お嬢様。


まだ心臓は大きな音を立てている。綾希は落ち着かなくて両手でエプロンを揉みしだきながら頭を働かせようとした。
幸村。彼はとてもよくできた男だ。仕事ができるだけではない、他者への気遣いもよくできるのだ。仕事を教える時は丁寧に、失敗する時はきちんと叱りはするようだが相手の人格を傷つけるようなことも言わないし、客人をもてなすときはまさに相手の痒い所に手が届くような行き届いた配慮をする。

そんな彼が、私の目の前で、お嬢様に愛の言葉を囁いた。
さっき、お嬢様が帰ってくる前に、甘い笑顔で私のことを口説いたその口で。

明らかに不自然だった。あのタイミングで、あの場所で愛を語れば綾希に聞こえることなど分かっていたはずだ。綾希に対する感情が遊びだったとしても、わざわざ綾希に聞こえるようにお嬢様に愛の告白をする必要はない。もし本気でお嬢様のことを愛しているなら綾希を口説くはずはないし、やっぱり綾希の前で愛を語る必要はない。
つい言ってしまった、というのも考えられない。あれほど気の回る幸村がそんなミスをするとも思えない。
綾希は再び心臓が嫌な音を立て始め、背中に汗が流れるのが分かった。

「おや、こんなところにいたんですか。どうかしましたか、泉さん」

一歩、また一歩、足音をさせて幸村が近づいてくる。潤は姿勢を正してにこりと微笑んで見せた。

「いいえ、どうにも。……幸村さん、距離が近いです」

綾希が一歩下がると幸村は一歩距離を詰めてくる。そして彼は綾希を壁まで追いやって、顔の横に手をついた。

「すみません、つい。様子がおかしいので心配になってしまいましてね」

ぬけぬけと言い放つ幸村の冷えた目を見て、綾希は全身の毛穴から汗が噴き出たような気がした。綾希は無意識のうちに暖かい目をしていた前の主人と幸村を比べ、ぞっとして青ざめた。なんて暗くて無機的なんだろう。刃のような冷徹な目。深い穴をのぞき込んでいるような真っ黒な闇。
綾希は両手をぎゅっと握りしめて、そして意を決した。どうであれ『仕事』はしなければならない。ひるんでいる場合ではないのだ。

「幸村さん、なぜお嬢様にあんなこと、言ったのですか」
「あんなこととは?」
「愛してます、と言ったことですよ」

幸村はゆっくりと綾希の耳に唇を寄せて囁いた。近くで感じる幸村の体温が潤には恐ろしく感じた。何を考えているのか、分からない。

「焼き餅ですか?心配しないでください、私は貴方を」
「そういう意味じゃありません!何を考えているのですか、幸村さんは」

どん、と綾希は強く幸村の胸を押した。綾希は笑顔を消して、案外あっさりと身を離した幸村を睨み付けた。

「おや、つれませんね。貴方を好いているというのも本心ですよ?」
「どの口が言うのですか」
「貴方が『そういうタイプ』で心底嬉しかったのですよ、私は」
「どういう意味です」

何を言わんとしているのかも分からない。幸村は睨み付ける綾希を見て楽しそうに喉で笑い、しかし質問に対して答えようとはしなかった。幸村は笑いを納めると、声を一層低くして真正面から伺うように綾希を見つめた。

「――最も貴方には他の問題があるようですが」
「問題?そんなもの、何も」
「おや、しらを切るつもりで?」

幸村の唇がゆっくりと動く。

唇が紡いだ言葉がゆっくりと綾希の脳髄に染みこんでいく。先程まで不安や混乱で熱く荒れていた心が、その言葉によって冷やされ硬化していくのを感じる。研ぎ澄まされる感覚。綾希はゆっくりと目を閉じた。



気がつかれたか。



綾希は自分が案外冷静であることを感じ取った。いつかはこうなるかもしれないと、予期していたからかもしれない。意外とその時は早かったが、ただそれだけだ。
綾希は思わず声を立てて笑っていた。おかしな話だ。幸村に気がつかれたら困ることだというのに、さっきまでのショックの方が遙かに心に響いた。

綾希は意表を突かれたような顔をしている幸村に、にっこり微笑んで見せた。

「なんのことでございましょう?私にはさっぱり分かりませんわ。幸村さん、私はお嬢様のお風呂の準備をして参りますね。それでは失礼いたします」

綾希はうっかり情に流されかけた自分を少し恥ずかしく思った。幸村がそのつもりなら容赦する必要はない。さすが、白岩家の使用人にして期待されている社員だけある。気配りができるだけあって人の心を読むのも上手い、ってね。どんな事情があるにせよ、自分は情報を集めて冷静に『仕事』をするだけだ。
潤が物置部屋の入り口で一礼すると、幸村は「泉さん」と声を掛けてきた。

「何でしょう?」
「先ほどの質問の答えです。私がお嬢様に「愛している」と言う理由。それは私が『本当に』お嬢様を愛しているからですよ。それ以外、理由なんてないでしょう?」

部屋の奥にいる幸村の表情は伺えなかった。しかしその声色から、綾希は彼が薄ら笑いを浮かべている様子が手に取るようにわかった。
綾希は返事をせずにきびすを返す。

さて、どうしようか。

心臓の鼓動はすっかり落ち着いていた。


(20131027)

[back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -