カモマイルの悪魔 | ナノ


リムジンは水面を滑るようになめらかに走り出した。黒い透明の目隠しがされた車窓からは、外の景色は海の底のようでよく見えない。
潤はスカートを整えて座り直しつつ、窓から目を離して横目で樺地と美波を伺った。
二人が座るソファを覆う艶やかなロイヤルブルーの布地は、美波が落ち着かず身じろぎをするたびに海のように揺らめいて色味を変化させている。一方の樺地はまばたき一つすらせず岩のように固まっている。
様子は異なれど、潤には二人とも緊張しているのが伝わってきた。二人の間に流れる空気は悪くないものだったが、もう少し打ち解けてほしい。潤がどうしたものかと思案していると、隣に座っていた跡部は腕を伸ばして再び潤を抱き寄せ、低く優しい声で囁いた。

「おい、できるだけ寄り添え。『俺様のことが好き』なんだろう?アーン」
「そうでした」

跡部のフォローがありがたい。潤は跡部にコソコソと囁き返すと、大人しくされるがままになった。
潤はしばらく考えなしにリムジンの豪華な空気を楽しんでいたが、車がカーブを曲がって体が跡部に押しつけられたときにふと、跡部の吐息を肌で感じ取れるほど密着していることに気が付いて今更ながらドキッとした。愛の言葉を囁かれることには慣れているが、男にもたれかかるように寄り添うことには慣れていない。

規則正しくあまやかな跡部の息づかい。
腕に触れる彼の薄紅のシャツは優しく艶やかな絹。
なめらかで心地の良い声。

初めて潤が跡部と出会ったときも今と同じようなシチュエーションになったが、あの時の潤はお嬢様らしく振る舞うことに必死で胸を高鳴らせる余裕がなかった。
だが今は違う。好きなわけではないのに、なのに。

「ククッ、心拍数があがってるぜ」
「……跡部先輩が平然としすぎなんです」
「お前、こういうことには慣れてねえのか」
「それは、もちろん。恋人もいませんし」
「幸村はどうなんだ」
「え」

とっさに怪訝な声が出た。なぜそこで幸村が出てくるのか、全く意味不明だ。潤には跡部が何を言わんとしているのかが分からなかった。
ところが当の跡部は、そんな潤の不可解そうな顔を見ても納得したように一つ頷くだけで、何の説明をするでもなくあっさり話を変えた。跡部は一層声を低くする。

「あいつらの方は見るな。樺地は視線に敏感だ。あいつらを伺うようなそぶりをすれば樺地はリラックスできねえだろう」
「わかりました。どんな様子ですか、美波と樺地先輩は」
「まだ動きはないようだな」
「そんな。初対面のときは話せてたのに……どうしましょう?」
「じきに慣れるだろ、このまま二人っきりにさせておけば」
「それなら予定通り、こちらはこちらで盛り上がっていればよさそうですね」
「ああ。あいつらが二人にならざるを得ない空気を作る」

潤は跡部と何を話そうか思案しているうちに、甘く、しかしくどくない上品なローズがほのかに香ることに気が付いた。おそらく跡部の香水だろう。そして潤は、跡部に言わなければならないことを思い出した。

「跡部先輩!先日は失礼しました。私ったら・パーティーに招待されたことにばかり気を取られて、まともにお礼も言っていなくて」
「アーン?何の話だ」
「花束のことです。あんなに大きなバラの花束を頂くなんて初めてで、まるでドラマみたいだなあって。 とても嬉しかったんです」

ここ数年のお嬢様生活で豪華な花束を贈られることはしばしばだったが、真っ赤なバラの花束にメッセージカードというベタな演出を見事にキメてきたのは跡部くらいなものだ。

「……礼を言われるほどのことでもねえよ。律儀だな」
「そんなことないです」

慌てて頭を振って潤が否定すると、跡部は小さく笑ってわずかに目をそらした。潤はそんな跡部の一瞬の仕草を見逃さなかった。先ほどとは別の意味でドキッとする。

──また、だ。

跡部の目に寂しさのような切なさのようなもの悲しげな色が宿ったように見えた。それは瞬きをする間に消えてしまったが、普段の跡部からは想像もできないその色彩は潤の心に強く刻み込まれた。
前にも見たことがある、悲しそうな青。
潤は心がざわつくのを感じた。以前のパーティーの時にも同じ色を見たことがある。その時も、潤と跡部が話している最中のことだ。

──もしかしたら、私のせい?まさか。

わからない、わからない。気持ちが混乱していく。潤は自分を落ち着かせようと声をあげた。

「でも、びっくりしちゃいました。茎の間に招待状が隠されているとは思わなくて。うちの河西も驚いていました」
「フ、綺麗なものの下にはあらゆるものが秘められているんだぜ?アーン」
「あはは、なんですかそれ。バラをかき分けたらカードがあるって素敵な演出ですけれど、気が付かなかったらどうするつもりだったんですか」
「それはねえな。気が付くと分かっていた」
「え」
「事実、気が付いただろう?」
「まあ、そうですね」

見つけたのは潤ではなく綾希だったが、跡部の自信満々な様子に潤は何も言えなくなった。冷や汗が出る。あのまま招待状のカードに気が付かず、枯れたバラと一緒に捨ててしまっていたらとんだ失礼になるところだった。

「トゲで怪我はしなかっただろうな?お前の使用人に忠告したはずだが」
「大丈夫です。あれ、トゲは少なかったように思うのですが」
「ああ、そういう種類だからな」
「なんていう品種なのですか?とても綺麗だったので気になって。今はもうポプリにしちゃいましたけど」
「キングローズだ。どうだ、まるでバラ界の俺様のようだろう?気に入ったなら何よりだぜ」

跡部の得意顔に潤は思わず笑ってしまった。ここでもキングにこだわるのか。キングな跡部にキングローズ、そのまんまだ。そんな台詞を衒いもなく言ってのけるのもまた跡部らしい。
潤が笑うと跡部はとたんに上機嫌になって、喉をそらして潤を抱き寄せていない方の左手で髪をかきあげた。そのとたんちょうど流れていたクラシック曲がクライマックスに到達したので、ポーズを決めるタイミングを図っていたのではないかと潤は疑いたくなった。こんなキザな仕草まで似合うのだから何とも憎い男だ。

「あれは蔓バラですか?花が小振りで、茎は細めで」
「そうだ。大きい花束には向かねえ種類だが……大事なバラでな」

跡部は目を細めて吐息をこぼすように笑った。普段とは違う、優しい微笑み。
潤には跡部がそのバラを本当に大切にしているのだと分かって、暖かな気分になった。いつも自信満々で傲慢ささえ感じさせるような男が、こんなに優しい顔ができるのだ。

「ありがとうございます、そんな大事なバラをくださったんですね。跡部先輩みたいなバラかあ……育てるのが難しそう」
「……どういう意味だ」

跡部はじろりと潤を見た。
潤はハッとして口を閉じたが時すでに遅し。だって跡部先輩グルメだし服や家にもこだわりが強くて難しそうだし、と内心で思うがまさか口には出せない。

「あっ、う、何でも、そうだその、肥料がたくさん要りそうだなあっていう意味です!あはは」
「…………お前な。まあいい、難しいバラじゃねえよ。むしろ初心者向けだ」
「そうなんですか?意外です。キングというくらいですから、てっきり」
「どんな場所でも逞しく枝葉を広げ、どんな場所でも薫り高く咲き誇る。だからこそのキングだ」
「なるほど」

環境が悪くてもいじけず、上へ向かって伸びてみせる。
王者たる自負の中に、ただ頂点に立っているというだけではない、跡部の強い心意気が込められていることに潤は初めて気が付いた。
跡部はたとえどうなったとしても、跡部なのかもしれない。
潤は、恵まれているにも関わらず汲々としてしまう自分と比べて跡部が羨ましく思った。


(20140726)

[back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -