カモマイルの悪魔 | ナノ


パーティーは3時間ほど続いたというのに、潤は時間のほとんどを忍足や鳳と話すことで過ごしてしまった。話題になったのはもちろん跡部。忍足たちと跡部のつきあいは長いものの、まだ各々が知らないことも、そもそも誰も知らずに謎となっていることもたくさんあって、話題には事欠かなかった。

「なあお嬢ちゃん、知っとるか?跡部、ステルス機で学校着たことあるんやで」
「はあ!?ステルス機って、軍の!?」
「ははは、さすが跡部さんだよね。上空までそれで飛んできて、飛び降りて屋上に着陸したんだってさ」
「………。えーと、それはスタントの訓練じゃないんですよねきっと。それが跡部さんにとっての普通の登校ってことなんですか」

ただの思い出話と思いきや、驚きの連続である。キング発言が真実であったということを知ったときに、もう跡部が何をしても驚くまいと潤は密かに決心したつもりだったが、甘かった。あれだけ作り笑いをすることに慣れたというのに、今は驚きすぎて表情筋が痛い。

「さすがに普段は普通のリムジンで来てたよ」
「『普通の』リムジンですか」

潤は思わずツッコミを入れた。どうしてくれようこの違い。鳳だって感覚が麻痺している。これが本物のお金持ちだ。普通のリムジンって何だ!リムジンに普通も何も!と潤は心の中で叫んだ。

「リムジンなら個人所有ができるからね。でも、さすがに登校のために政府所有のステルス機を借りてくるなんてさすが跡部財閥だな」
「甘いで鳳。あれ跡部家のステルス機やさかいな」
「ええっ!」
「知らんかっても無理ないわ、普通はそうは思わんしな。維持費だけでもえらい金掛かってるっちゅう話聞いたで」

潤は密かに決心した。もう本当に何があっても驚かない。跡部がもし恋人に向かって「あの月はお前のもんだ」と言ったなら、それは風流な口説き文句ではなく本気だ。本気で月を所有しにいく。それくらいしてたって驚かない。

「モテようとしてヨットとかクルーザー買うって人がいるみたいですけど、そんなレベルじゃないですねもう……」
「せやなあ、もう趣味やであれ。それに跡部はもともとえらいモテるさかいモテよなんて考えたことないやろ」
「そういえば、白岩さんは氷帝出身なんだよね。俺たちが氷帝にいたころは跡部さんのファンクラブがあったんだよ」
「今でもありますよ、跡部様ファンクラブ。メンバーが自分たちのことを『雌猫』と自称してるあれですよね?」
「うわあ、まだあるんだ!すごいな跡部さんの人気は」
「そもそもなんで自称雌猫なんですか」
「跡部がテニスするときに『俺様の美技に酔いな!雌猫ども』と言っていたせいやな」

決心した通りもう驚かなかったが、潤は跡部のおもしろエピソードを聞くたびに驚きと呆れと笑いの混じった感情がわき上がってくるのは押さえられなかった。ついほほがゆるんでしまう。日本語の長い歴史の中でこれほど雌猫という言葉がポジティブな意味を帯びたことがあっただろうか。
忍足は新たに手渡されたグラスを鼻の前でゆっくり回して香りを楽しみながら、口調にからかいの響きを混ぜた。

「お嬢ちゃんは雌猫と違うんか?おっと、答えんでもええわ、違うんやなその顔は」

潤は慌てて自分のほほを押さえた。一体どんな顔をしてしまったのだろう。当の忍足はすました顔で、新作に出会ったソムリエのようにワインを堪能している。

「趣味は合わんかっても、お嬢ちゃんなら跡部と上手くやっていけそうやけどな」
「そうですかね、私と跡部先輩じゃ違いがありすぎてとても」
「跡部さんって気が強い女性が好みなんでしたっけ?」
「まあ、そうやな。でも要ははっきりものが言えてしっかりしてることが大事やからな、お嬢ちゃんなら」
「でもさっき、跡部先輩に好きな人がいるとかなんとかって話されませんでした?」

鳳は長身を生かして遠くにいる跡部を見つけたが、彼のそばにはあの女性の姿はやはり存在しない。忍足はワインを一口二口含むと、考えを整理するように静かな口調で言った。

「さっきからそれが気になって考えてたんやけどな。恋人同士でないにせよお嬢ちゃんをデートに誘ったっちゅうことは、前の女の子とはもう終わったってことと思ってええんやろ、たぶん」
「俺もそう思います。あの女性と結婚するのかな、とまで思ってたんですけどね」
「そうやなあ」

潤はふと、つい先ほどの跡部との会話を思い出した。
――跡部先輩、いかがなされました。
――なんでもねえよ。昔俺にお前と同じことを言ったやつのことを思い出しただけだ。
傲慢に見えるほど自信満々な彼の顔にちらりと見えた悲哀。自分の思い過ごしかもしれない。勘違いかもしれない。そもそも悲しんでなどいないのかもしれない。けれど、もしかしたら、もしかしたら。あの時跡部が言っていた「お前と同じことを言ったやつ」とは今ここにはいない彼女ことだったのかもしれない。
もしそうなら、きっと跡部は彼女のことを引きずっている。潤は少し心が痛むのを感じた。でも彼のためにできることなど何もない。

「おい、何しけたツラしてやがんだ」
「なんちゅう乱暴な物言いするんや、跡部」
「事実だろ、あーん?」

突然肩に手を回された感覚がして、慌てて張本人を見上げると潤はアイスブルーの瞳と目があった。笑みを浮かべながら、しかし怖いほど真剣でまっすぐにこちらを見ている跡部。潤は彼のそのサファイアのような瞳に意識が吸い込まれそうになった。ぐらりと自分の体がバランスを崩したのと、肩に置かれていた跡部の手が腰を押さえてくれたのを感じたのは同時だった。

「おい、酔ってるのか」
「すみません。跡部先輩の目が綺麗だなあと思ってぼけっとしてしまいました」
「……お前、なかなか言うじゃねーの」
「ヒュウ、お嬢ちゃん、跡部を近距離でくどくなんて、やるやん」
「口説いてません」
「でも、度胸はあるね」
「なっ、鳳さんまで!」

二人に抗議している間にだんだんおかしくなって、潤は笑い出した。それにつられたように跡部たちも笑い出す。おかしい。こんな冗談が言えるのも彼らが大人であるおかげだ。あったかい。幸村とは全然違う、酷い言葉を投げてくることもない、嘘偽りの愛の言葉も冷たい笑みもない。そしてこうやって普通に接してもらえるだけでこんなに楽しいものなのだ。でもその「普通」今の潤には何より貴重なものだった。
一通り笑ってから、潤は肩を抱かれたままもう一度跡部をじっくりと眺めた。彼は忍足たちと自分の近況や仲間の話を報告し合っている。氷帝テニス部のかつてのレギュラー達は社会人になってからというものなかなか合って話をする機会がとれないらしい。いつものように自信満々で、しかし目じりに懐かしさを浮かべている彼に潤は聞きたくなった。
私で、いいんですか。もしかして、彼女の代わりはいないと分かってはいても人が恋しいのではないですか。いいのですか、本当に。
だが潤はその疑問を口にすることはなかった。聞くことは出来ない。聞いたとしても、彼は本心を押し隠して「当たり前だろ」と言うに決まっている。そのくらいの気遣いは自然とこなしてしまう人だ。

「跡部先輩」
「何だ」
「楽しみにしてますね。美波たちとのダブルデートのこと」

今までの考えは全て推測だ。そもそも跡部は寂しいと思ってさえいないかもしれない。
曖昧な仮説は心の中にしまいこんで、潤はにっこり笑った。

「ああ。……悪いな」
「とんでもない!私の友達のためでもありますから」
「そうだな」

跡部は目を伏せて、今までみたどの微笑みとも違う、ふわりとした優しい笑みを浮かべた。


***


迎えに来てくれた河西と玄関前で別れて、潤は庭へまわった。高い塀で覆われた広い庭。塀を隠すように周囲にはぐるっと背の高いコニファーが植えてあり、バラやマーガレットが花を付けている。庭は屋敷の窓から漏れた明かりと所々においてある小さな照明によってぼんやりと照らされている。
だいぶ夏が近づいてきたが、まだ夜は涼しい。潤はおいしさのあまりつい飲み過ぎてしまったお酒の酔いを冷まそうと、瑞々しい草木の間で深呼吸をした。
目に映る庭は、かつて自分が住んでいた家の庭とはだいぶ違う。跡部家のそれとは比べものにならないが、それでも普段から使用人によって手が入れられ庭師によっても整えられる白岩家の庭も十分に立派なものだ。
お父さんが自分で手に入れた見事なイングリッシュガーデン。
潤は右手で左肩をそっと撫でた。酔っぱらっているせいか、まだ跡部先輩の手の感触が残っているような気がする。跡部先輩たちの優しさ。自信。輝き。どれも、自分にはないものだ。自分が持っているものもたくさんある、優しい家族に優しい友達、そして裕福さ。でも、それでもトゲのように心にささるものが多いのは何故だろう。自分が柔らかすぎるのか。私が何をした。何もしていないのに、いや何もしていないからこそダメなのだろうか。

一人で押し問答しながらぼうっとしていた潤は、目の端に何か動くものが映ったのを感じた。猫でもいるのかな、と視線を移動させる。動いていたのは窓から落ちる影だった。
一つに見えるほど寄り添っている二つの影。見上げれば部屋の白い照明がカーテンにくっきりと人影を産み出していた。この部屋は使用人の部屋。影の正体が誰なのか、考えなくても分かる。潤はふう、とため息をついて冷静に沈思した。
もう、そういう関係になったのか。今までもこんなものだったから不思議ではないが、それにしても手が早いことだ。嘘ばかりつく幸村。今度は本気なのだろうか?本気の愛なんてあるのだろうか、あの男に。もし泉さんが幸村の本気の愛を勝ち得たら、そしたら、幸村は私に愛の言葉を伝えることなどなくなるだろうか。


期待と不愉快さと、納得と嫌悪感。


もう家に入ろう。潤はぶるりと身震いをして、きびすを返した。綾希の態度が以前と変わっていないことを願いながら。


(20131020)

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