カモマイルの悪魔 | ナノ


白岩家の屋敷の2階、潤の部屋の隣には潤専用の小部屋がある。小部屋はウォークインクローゼットとなっており、室内には上質なドレスやワンピースがところ狭しと掛かり、床の上にはパンプスや草履の入った箱がつみあがっている。どれもこれも普段は身に着けないよそゆき用の品だ。部屋の奥には金の蔦文様で縁取られた大きな楕円の鏡が設けられている。その鏡には今、困った顔の潤が映っていた。
ノック音に潤が返事をすると、綾希がドアからひょっこりと顔をのぞかせた。

「潤さま?お呼びですか」
「泉さん、パーティーとかドレスとかに詳しい?」
「どうでしょう。前のお屋敷ではパーティーもドレスもある程度は見てきましたが、詳しいかどうかはわかりません。何かあったのですか」

思い出すように首をひねる綾希に、潤は弁解するように言葉を重ねた。

「今度の土曜日にね、跡部さんに招かれてるの」
「跡部会長にですか」
「ううん。今回は跡部先輩、跡部景吾さんに。会社というよりも跡部先輩個人が主催するパーティーなんだって」

驚いたような綾希の顔を見て、潤も半笑いになった。自分だって信じられない。突然お嬢様になってしまったはいいもののお嬢様仲間なんていなかったものだから、今まで出たパーティーといえば会社関係のものばかりだった。お父さん抜きで、しかも個人的なパーティーに出るのは初めてだった。

「そういうパーティーではどういう格好すればいいのかよくわからなくて。服とアクセサリー選びの手伝ってくれない?」
「そういうことでしたか。もちろん喜んでお手伝いいたします!」

ドレス自体は好きだが、どれを選んだらいいのかいまいち潤にはピンとこなかった。今まではパーティーがあるたびにお母さんに選んでもらっていたが、お母さんは今はうちにいないし、お父さんのセンスはあまりアテにならない。
綾希はどうやら潤と違ってドレス選びが好きらしく、嬉々としてクローゼットに入ってくると、ざっとドレスを見回していくつかを取り上げた。

「そうですねえ……これはいかがでしょう?ん、こっちもいいかな」

綾希は次々とドレスを潤の体に当てる。最初に手にした数枚はどれも彼女のお眼鏡にかなわなかったらしく、別のものを探し始める。しばらくして綾希は、あるドレスに目をつけた。それを手に取り潤に当ててみせる。

「これ!これがいいと思います!シックで上品で、でも地味じゃなくて。潤さまにもよくお似合いだと思います」

適当に購入したせいで把握しきれないほど服がある中でも、そのドレスには見覚えがあった。薄いグレーのシフォン地でできたAラインのロングドレスで、胸元には斜めに小さな花が飾り付けられている。歩くとさらさらと水のように流れる布の動きがきれいなドレスだ。

「もしかしてこのドレスは奥様のお見立てですか?」
「ううん。幸村」
「幸村さん!?」
「うん」

3年ほど前だったか、急遽潤がドレスを着なければいけなくなったときに幸村に買ってきてもらったのがこれだ。手作りの一点もので間違いなく良いものであるとは分かっていたが、そのころ既に冷たかった幸村の見立てたドレスを着る気にはなれなくて、潤はそれっきりこのドレスを着ていなかった。
なんとなく気は進まないが、ドレスに罪はない。

「そうだね、たまには着てあげないと。これにするね。ありがとう」
「はい!お役に立てて何よりです。幸村さんはセンスもいいんですね」

潤はうきうきと幸村を褒める綾希に複雑な感情を抱いた。確かにその通りだけれど、素直に認められない。自分は綾希のように素直に幸村を認められない。だって、あんなことをして。綾希には幸村はそういうことはしないのだろう。幸村は前のメイドたちよりもずっと綾希のことを気に入っているようだし、もしかしたら笑顔だけでなく本当に優しくしているのかもしれない。

「すごい方ですよね。仕事も万能で、運動神経もよくて、センスもよくて」
「本当にね」

ついそっけない声が出てしまった。あわてて取り繕う前に、綾希は潤の顔をのぞき込んで優しい声で尋ねた。

「潤さまは、幸村さんのことが苦手でいらっしゃいますよね」
「……まあ、ね。どうしてわかったの?」

なんとなく、綾希には見透かされていたような気がしていた。彼女は冷静だし、幸村のことは気に入っているみたいだけれど盲目的に恋をしているわけではない。それに何より、潤自身が綾希の前では素になってしまうことが多い。綾希の人柄の良さについ、隠していた本心をさらけ出してしまう。

「ほぼ勘ですが、幸村さんと食事をする潤さまはあまり楽しそうに見えなくて。ごめんなさい」
「ううん、いいよ。本当のことだし」

困った顔で謝る綾希に潤は苦笑して頭を振ってみせた。
初めて綾希が夕飯の給仕をしてくれた日、幸村との不和を彼女に見せまいと、同じテーブルにつく幸村と笑顔でちょっとした会話をしてみせたのだ。しかし鋭い彼女の前では逆効果だったかもしれない。

「あの、なぜなのかお聞きしても?」

なぜ、か。考えてみれば理由は曖昧だ。嫌いなところはいっぱいある。わざわざ愛してると軽薄な言葉を吐くところ。メイドたちで遊ぶこと。幸村のあの作り笑い。本当は大事だなんて思ってないくせに、態度や口では貴方が大切だと言って。嘘つきだから嫌いだ。笑顔が嫌いだ。人の気も知らないで。
口をつぐんで考え込んだ潤が沈んだ顔をするのに気がついたのか、綾希は慌てたように訂正した。

「申し訳ありません、無理に聞き出すつもりはありませんでした」
「あっ、ううん、いいの。気分を害したわけじゃなくて、どう答えたらいいものか分からなくて」

すまなそうな顔をした綾希に、潤は逆に申し訳なくなった。この家で一番の古株使用人かつ実力者な幸村と主の娘が不仲とは、いくら有能な綾希でもやりにくいに違いない。

「それに、苦手だけど執事としては評価してるから。優秀でしょ?泉さんにとっては仕事しやすいんじゃない?」
「ええ、本当に。このお家の仕事もとても丁寧に教えてくださって」

潤はにっこり笑いながら内心苦笑した。それはいつもの光景だ。新入りのメイドに仕事を教えるのは河西の役割だが、手が空けば幸村も教える。それも手取り足取り丁寧に。幸村はそうやってメイドと仲良くなるのだ。

「よく夜遅くまでお仕事をされているみたいですし」
「大きな会社でも熱心に働くと、どうしても残業が多くなるみたいね」
「それもそうなのですが、使用人としての仕事も、です。幸村さん、残業が終わって真夜中に帰宅されてからも何やら使用人の仕事をされていることがあるみたいで」

潤は目を見開いた。それは初耳だ。知らなかった。潤は幸村が帰ってくる前に寝てしまうことも多い。幸村が早く帰ってきた日は、一緒に夕飯を取った後で使用人の仕事をしていることは知っていたが、残業があった日にも、だったのか。

「知らなかった。よく体力が持つね」
「ええ。そこも一つ、疑問なのですが」
「何?」
「幸村さん、どうしてそこまでして働くんでしょう?」

頭をかしげる綾希の前で、潤は絶句した。
なぜ、そこまで働くのか。幸村が自分の家で働いていることが当たり前になりすぎていて考えたこともなかった。

「潤さまは何もご存じないのですね」
「……うん。そういえば、なんでなんだろう」

幸村がむかし潤の家庭教師をしていたのは大学生のアルバイトとして、だった。当時の幸村が私の世話を焼いたり家の用事をも受け持っていたのは、離れに住む家賃の代わりだった。そして彼は執事になって、大学卒業と同時にお父さんの会社に入社した。考えてみればおかしな話だ。新入社員が会社の仕事を覚えるだけでも大変なのに、執事までしている。会社には寮があるからうちの家にこだわる理由はない。お父さんが幸村に執事の仕事を強要しているとも思えない。執事が欲しいなら、それこそ幸村ではなくて他の人を雇えば良かっただけのことだからだ。

なぜ、幸村は、うちで執事をしているのだろう?


***


綾希は布団にもぐり込んで寝ようと目を閉じた。しかし頭が冴えてしまって寝付けない。綾希は仕方なくぼんやり目を開けて暗い天井を見上げ、物思いに耽った。
前の勤め先と比べれば白岩家はかなり質素だ。潤は「お父さんの肩書きにふさわしくなるように見た目だけ整えたのよ」と笑っていたがあながち外れてはいない。普段使いの食器はありがちな焼き物ばかりだし、家具とて豪華なものに混じってまだまだ普通のものも多い。華美よりも堅実を好む白岩夫妻の趣味の影響もあるのだろう。白岩家に流れるそんな実直な空気を、綾希は気に入っていた。
使用人の数は想定以上に少なかったが、逆に考えればその方が人目につかなくてやりやすい。

幸村と潤の関係もまた想定外だった。しかしある意味、仲がいいよりもずっと都合がよかった。関係にヒビが入っている方が心の隙間には入り込みやすい。

綾希は目を瞑った。会社員で執事な幸村。身体的にも精神的にも負担が大きいであろうに、理由なくダブルワークをするとは思えない。
彼は、笑顔の下で何かを考えている。推測できるのはそこまでだったが、まあいい。そこから先は『仕事』を遂行すれば次第にわかってくるだろう。


(20130922)

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