カモマイルの悪魔 | ナノ


幸村は腕に力を込めて、音を立てぬよう玄関の重い扉をゆっくりと開いた。家の中は薄暗く、玄関や台所の小さな照明だけがぼんやりと辺りを照らしている。彼は扉の隙間から中へ体を滑り込ませると耳を澄ませた。少し窓を開けているのか弱い風の音が聞こえる。それ以外の物音はない。潤だけではなく、河西や綾希も既に寝ているようだ。
彼は物音を立てぬように二階の自室に向かう。電気を付けることもなくがらんと広がる暗闇を迷うことなく進んでいく。幸村は仕事の都合上、深夜に帰宅することも多い。不用意に電気を付ければ一階に居室を構えるメイドや河西を起こしてしまうかもしれないし、物音を立てれば二階で寝ているお嬢様の睡眠の妨げにもなりうる。――それに、幸村は、自分が何をしているのか、他の誰にも悟られたくなかった。
足音さえ立てずに自室にたどり着いた彼は手にしていた鞄を椅子の上に置いた。スーツのジャケットをハンガーに掛け丁寧にブラシを当てる。それが済むと幸村は青いネクタイの結び目に指をかけて、乱暴にそれを襟から引き抜いた。襟のボタンを外してシャツを裾を出す。ベルトを外しネクタイを適当にまるめた彼はふと、動きを止めた。

白岩社長は今日は取引先の接待で不在だ。今はまだ深夜1時半、当分は家に帰ってこないだろう。もしかしたら今日は帰ってこないかもしれない。
しかしこの時間帯。

何事かを思案していた彼は鞄から鍵束を取り出すと、音がしないようにそれをハンカチで包んで懐に入れた。そして手ぶらで静かに自室から廊下へ出る。幸村は暗闇に目を凝らし全身の神経をとがらせて辺りの様子をうかがう。長い廊下を滑るように歩く。彼はある部屋の前で足を止めると耳を澄ませた。

部屋の中からは微かに物音が聞こえた。衣擦れの音、荒い息。しばらくすると泣き声と小さな悲鳴が聞こえた。

彼は剣呑な目付きになった。同時に階下からガチャリとドアを開ける音がした。続いてトントントン、と階段を上ってくる小さな足音。幸村は音を立てぬようにその部屋から離れて柱の影に身を隠した。気配を殺して様子を伺う。足音とともにゆらゆらと橙色の小さな明かりが近づいてくる。
階段を上がってきたのは綾希だった。手に持っている小さなランプに照らされて浮かび上がった彼女の顔には、気遣わしげな表情が浮かんでいた。彼女は幸村に気がついた様子はなく、さきほどの部屋の前で立ち止まった。それから小さくノックをする。

「お嬢様?」

返事はない。部屋からは相変わらずしゃくりあげるような声が小さく聞こえる。綾希はしばらくためらってから、静かに扉を開けて潤の部屋へ入っていった。
幸村は目を閉じて更に耳を澄ませた。開いた扉から漏れ出てくる気配。うなされていたお嬢様が起きている様子はない。続いて椅子に腰掛けるような音。綾希だろう。

幸村は扉に目を向けたまま懐から鍵束を取り出した。さっと身をひるがえして、潤の部屋の二つ隣の部屋の扉に鍵を差し込む。かちゃり、と音がして開いた扉を幸村はためらいもなく押して中へ忍び込む。静かに扉を閉めて中から鍵を掛ける。暗闇の中、彼は奥の窓へ向かい分厚いカーテンを閉めた。その場にしゃがんで窓の下に置いてあった小さな絨毯を手際よく丸め、脇へ抱えて立ち上がり、扉へ引き返して、扉と床の間にある隙間に詰めるようにして丸めた絨毯を置く。――こうすれば部屋の光は外へ漏れない。

そこまでしてからようやく、彼は部屋の電気を付けた。
何が置いてあるか分からなかった部屋の全貌が明らかになる。部屋の二方には高い棚がそびえ立ち、そこにはビジネスや語学の本、几帳面に番号が振られた分厚いファイルが整然と並んでいる。もう一方、部屋の奥は青いビロードのカーテンで覆われた広い窓がある。部屋の中央には磨き抜かれた黒檀でてきた大きな机が置いてある。その上には高級なペンと昨日の新聞、経済誌が何冊か置かれている。

一見して使用人のものとは異なると分かる、高級感のある調度品。この家の主人の部屋。
幸村は机の上を軽く片付けると、ためらいなくファイルの中を見始めた。静かに、音を立てず、でも確実に。幸村はファイルに挟まれたあるメモを発見すると、険しい顔をして目を光らせた。


***


「入れ」
「ウス」

扉を開けた樺地は、跡部の様子がいつもと違うことに気がついた。真夜中だというのに部屋の電気は一つもついていない。カーテンが開け放たれた窓から差し込む月明かりだけが部屋を仄白く照らしていた。跡部は扉に背を向けて窓の方を向き、ソファにもたれかかっていた。彼は背もたれの上部に頭を乗せてやや上を向いており、その様子からはいつものような覇気は感じられなかった。サイドテーブルの上では空になったシャンパングラスが倒れていた。
部屋の隅にある古いレコードプレイヤーが小さく音楽を流している。樺地はこの曲をよく知っていた。ベートーヴェンのピアノソナタ8番、悲愴。
樺地が部屋に入ってきても跡部は何も言わなかった。樺地もまた何も言わず、ただ寄り添うようにして跡部の後ろに立つ。そのまましばらく時間は過ぎて、ピアノソナタがちょうど第二楽章を迎えたところで跡部は口を開いた。

「俺は、運命の喉首を掴んでやると決めた」

珍しく弱々しい声だった。樺地は相づちも打たずに、ただ瞬きをした。跡部は心の澱をはき出すように続けた。

「樺地。俺は正しいか?」

やはり樺地は返事をしない。月に雲がかかって一瞬部屋が暗くなる。跡部は自問自答するかのように、言う。

「諦めるつもりはねえ。ようやく見つけたんだ……だが本当にこのやり方でいいのか、不安で仕方がなくなる。ざまあねえな、パーティーを終えたとたんこれだ。こんなことは初めてだぜ。欲しいものを掴もうと本気になったとたん、自信がどこかへ吹き飛びやがる」

彼は自嘲気味に笑う。

「失敗するわけにはいかない。だが十分に準備をしている時間があるかどうかもわからねえ、正真正銘の一発勝負になるかもしれねえ」

彼は大きくため息を吐いた。

「ぶざまだな」

樺地はそんな跡部の後ろ姿を黙って見下ろした。跡部はソファから立ち上がって窓に近づいた。白く強い月光が跡部のシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた。

「樺地。成功すると思うか」
「ウス」
「……そうか」

それっきり彼はまた黙り込んだ。音楽はいつの間にか止まっていた。静寂がひたひたとその場に忍び寄る。
しばらくして、跡部は振り返った。逆光で表情は伺えなかったが、彼の様子にはまた力強さが戻ってきているように見えた。

「どのみち、もう後には引けねえからな。次の手はどうなっている」
「すでに……送りました」
「そうか」

樺地は跡部が口に笑みを浮かべたことを見て取った。しかしその傲慢な笑みは、どこか寂しそうにも見えた。


***


もごもごと口を動かしておにぎり咀嚼していた美波は、潤が話し終えると慌てたようにごくんと嚥下した。そしてお約束のように喉を詰まらせた。

「うぐっ」
「なんで慌ててるのさ、はい、お茶」

彼女は潤から渡されたお茶をぐいっと一気のみして、ほうっと息をつく。美波は喉を詰まらせたくせにすました顔で言い訳をした

「だって聞きたいこといっぱいあったし」
「慌てなくても私は逃げないよ」
「そーだけど。で、で!?」
「え?」

彼女が何を急いているのかが理解できなくて、潤は頭をかしげた。物わかりの悪い潤に美波はじれったそうに叫んだ。

「どーなったの、跡部さんと!デート?婚約?結婚!?」
「んなわけないでしょうが!あっちは財閥のお坊ちゃんだよ」
「アンタだって大会社社長のお嬢様じゃない」
「そうだけどさ、成り上がりの一般人と元・華族様じゃ大違いだよいろいろと……」
「関係ないって!で、何かあったんでしょ」
「なんもないよ。薔薇の花束が来たくらい」
「うぐっ」

彼女は再び喉を詰まらせた。今度は飲んでいたお茶が気管支に入ったらしくごほごほと蒸せている。潤は美波の背中をさすりながら心底残念な気分になった。こういうところがなければ本当にお嬢様らしいのに、美波は。
当の本人は涙目になったままきっと顔をあげて潤に詰め寄った。

「なんもあるじゃない!薔薇の花束なんて、なんてロマンチックな」
「だって跡部財閥のお坊ちゃんだよ?薔薇の花束くらい、きっとパーティーに来た女性客全員に送ってるって」
「う、なんかそれもありえそうなのが怖い……でもでも分からないじゃん!」
「ないない」

潤は肩をすくめて否定してみせた。そんなことがあるわけはない。潤は眉を潜めた。跡部さんが私に気があるなんてことはないと思うがしかし、確かに気になることもある。

――俺様がなぜここにいるか知ってるか?
――お前に会うためだ。

豪華なパーティーや薔薇の花束から受けたショックがあまりにも大きくて今まですっかり忘れていたが、確かにそう言われた。言葉通りに受け取れば跡部が潤を恋い慕っているようにも聞こえるが、潤にはそうは思えなかった。息が掛かるほどの間近で見たあのアイスブルーに、自分に対する激しい恋情が宿っているようにはとても思えない。力強くて情熱的な目だとは思う、だがそれが恋だとはどうしても潤には思えなかった。
だからこそ、理解できない。潤は社長令嬢ということを除けばただの女子大生だ。特殊な能力など一つもない。ということは、潤自身に興味があったというよりも、おそらく白岩社長の娘に興味があったということだ。しかし、潤は白岩カンパニーにおいては何の権力も持っていない。

跡部さんはなぜ、私に会いたかったのだろう?

気がつけば潤は美波に顔をのぞき込まれていた。

「大丈夫?」
「ごめん、なんでもない。ああ、そうだ、美波」
「何?」
「この前の合コンのお礼。っていうよりも偶然なんだけど」

潤はポケットからカードを取り出して美波に突き出した。

「なになに、ホームパーティー?」
「うん。今度はビジネスマンや政治家が来るものじゃなくって、もっと若者が多くて気軽なものなんだってさ。友達もどうぞって書いてあるし、一緒に来ない?」
「えーっと……って、これも跡部財閥のパーティーなの!?」
「うん。薔薇の花束に招待状がはさまってた」
「行く!!」

目を輝かせて勢いよく頷いた友人に潤は軽い安堵を覚えた。
よかった。彼女がいれば生粋のお嬢様・お坊ちゃまに囲まれても息が出来そうだ。


(20130910)

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