カモマイルの悪魔 | ナノ


はっと目を覚まして時計を見ると、時刻は午前9時を過ぎたところだった。あわてて身を起こすと右足の踵がずきりと傷む。潤はその痛みでようやく思考が覚醒して、今日の午前中の授業は休講であることを思い出した。安堵のため息を吐くと、さっきまで見ていた悪夢の重さが胸にのしかかってきた。真剣に見つめ合う若い男女、美しい顔に鬼を宿して私に襲いかかってくる女、蔑むような目でこちらを見る男。子供のころから繰り返し見てきたというのに、一向に慣れることができない夢だった。
扉をノックする音が響いた。

「お嬢様、お目覚めですか?」

潤は聞こえてきた声に沈んでいた気分が浮上するのが分かった。そうだった、すっかり忘れていた。泉さんは今日からうちで働くのだ。午前中に来るとは聞いていたが、まさかこんな早い時間に既に到着しているとは思わなかった。

「どうぞ」
「失礼いたします。おはようございます」
「おはよう、泉さん。いらっしゃい」

彼女は今日も上品で、しかし溌剌としたくったくのない笑顔をしていた。潤はその笑顔を見てちょっと泣きそうになった。家の中で女性の、自然で裏のない笑顔を見たのは久しぶりかもしれない。悪夢の後に幸村の作り笑いは見たくなかったから、なおさら安心感がこみ上げてきた。

「今日からよろしくお願いします、お嬢様」
「名前呼びにしてもらっちゃ、だめ?」
「わかりました、潤さま」
「ありがと」

潤はベッドから身を起こして床に素足をつけた。さっそくメイドの仕事を始めようとベッドに近づいてきた綾希は、潤の踵に目ざとく気がついたようだった。

「どうなさったのです、そのお足」
「ああ、大丈夫、ただの靴擦れよ。包帯が大げさに見えるでしょ?跡部財閥の人が丁寧に手当してくれたの」
「跡部財閥!?跡部って、あの!?」
「うん」

驚いてシーツの端を握っている綾希を見て、潤は微笑ましく思った。普通の人にとっては、跡部財閥なんて雲の上の話だ。使用人を雇う余裕のある家でも、跡部家と接触するような立場の人は限られている。相当な資産家か、やり手の実業家か、あるいは政治家か芸能人か。少なくとも一人二人メイドを雇っているからといって財閥とつながりがあるわけではないのだ。だから、綾希が驚くのも無理はなかった。

「潤さま、跡部財閥と懇意にされているのですか?」
「いいえ。昨日は跡部家のパーティーに出席してきたの。跡部会長の息子さんとも少しだけお話してね」
「えっ、あの、青い目でハンサムな?御曹司の跡部景吾?」
「知ってるの?」
「有名な方ですから、雑誌の表紙に載っているのも見たことがございます。どんな方でした?」

ベッドメイクをしながらも綾希の興味津々といった様子につられて、潤は昨日の夜のことを回想した。緊張していたせいもあって詳しいことはあまり覚えていない。ただとてもキラキラしていたのは覚えている。いや、キラキラというかギラギラというか、えーと。

「派手?」
「は」
「いやその、第一印象が『派手だなあ』と……。下品は派手さではないんだけどね」
「あら」

がさっと紙の音がした。潤が振り向くと、ちょうど彼女は枕カバーを外したところで、枕の下に入れてあった獏の紙に驚いたのか目を丸くしてそれを凝視していた。

「ああ、それね、お守りみたいなものなの」
「お守り?」

子供っぽいと思われるだろうか、と少々不安になりつつ説明する。しかし綾希は至極まじめにその話を聞くと、納得したように頷いた。

「了解しました。幸村さんが言っていたのはこのことだったんですね」
「……幸村、なんて?」
「お嬢様がおばあさまからもらった魔除けを大切にしていらっしゃる、と」
「そう」

幸村のせいもあるんだけどね。そう言いたくなったが、ぐっと堪えて飲み込む。泉さんは知らなくてもいい話だ。
悪夢の一端はおじいちゃんの浮気もあるのだけれど、その悪夢から守ろうとしてくれたのはその妻、つまりおばあちゃんだった。おばあちゃんは浮気者で仕事にも不真面目なおじいちゃんから家庭を必死に守ろうと一生懸命だった、らしい。現におばあちゃんがしっかりしていなかったら今の会社はお父さんが継ぐ前につぶれていたはずだ。そう考えるとおじいちゃんは悪魔のようだったが、不思議と潤は恨む気にはなれなかった。たぶん、家にいたときに可愛がってもらった記憶があるからだ。その感情が、余計にやりきれないもののように思える。おじいちゃんがただの悪人なら恨めばいいが、自分にとっては優しいおじいちゃんだったのだ。それでも、浮気をして、遊んで。男って分からない。幸村だってそう。あれだけ優しかったのに、それなのに。
おばあちゃんのおまじないは、あんまり効いていない。でも、それを大切にすることでおばあちゃんに守られているような、昔の素直な自分のままでいられるような気になるのだ。

「潤さま。幸村さん、ただの執事にしてはずいぶん潤さまに詳しいように思いました。あの、もしかして恋――」

潤はぎょっとして綾希を見た。もしかして、もしかして幸村のことが好きで、私と幸村がどういう関係なのか探ってる?潤は振り返ったが、てきぱきとベッドメイクをしている綾希の表情を伺うことはできなかった。

「えっ、いやいや、まさか。子供のころからうちに住んでるから詳しいだけ」
「ああっ、すみません、踏み込んだ話を」

表情はわからないものの、綾希が慌てているのが分かって、潤は苦笑した。素直だ。彼女が幸村のことを慕っているのか、それともただの興味があるだけなのかはまだ分からないけれど、少なくとも今までのメイドよりもストレートに話が出来そうだ。うまくいけば、今までのメイドと同じように彼女が幸村に恋をしたとしても、今までよりももうちょっとは上手くいくに違いない。
遠くで玄関のチャイムが鳴る。

「あら、お客さんかな。朝から珍しい」
「宅配のようです。もしかしたら私の荷物が届いたのかもしれません」
「そっか。うちの家の中は見て回った?」
「いいえ」
「よかったら案内するよ」
「よろしいのですか」

彼女は顔を上げてぱっと微笑んだ。潤も微笑み返す。彼女について、不安がないわけじゃない。仕事はちゃんとやってくれそうだけれど、それよりも、幸村と彼女がどうなるかは分からないのだ。でも、もし何かが起きたとしても、こうやって彼女が普通に笑ってくれるのならばなんとかなる気がする。
足音が近づいてきて、河西の声がした。

「お嬢様、お届け物です」
「私に?」
「ええ」
「何だろ。ともかく入って」

潤は部屋に入ってきた河西を見て仰天した。そばにいた綾希もシーツを落としたのが分かった。
河西は、両腕いっぱいの真っ赤なバラを抱えて困ったような顔をしていた。

「えーと……、なにそれ?」
「バラです」
「うん、そうだよね。そうなんだけど、ほんとに私あて?誰から?」
「跡部景吾さまからのようです」
「はあ!?」
「は!?」

潤と綾希は同じタイミングで声を上げた。思わず顔を見合わせる。噂をすればなんとやら、か。いやいや、そんなことはどうでもいいんだ、なんでバラ?というか、なんで私に?

「いかがいたしましょう」
「……。えーと、とりあえずどこかの花瓶に生けておいてくれる?」
「それが、大きな花瓶がここにはなくて」

潤は沈黙した。そうか、普通お金持ちの家なら大きな花束や花枝を飾る大壺くらいあるのかもしれない。だがここは白岩家、中身は庶民とさして変わらない。

「えーとえーと、じゃあ掃除用のバケツか何かに……」
「ば、バケツ……承知いたしました」

ごめんなさい、跡部さん。
そう思いつつ、潤はとりあえずバラの花束について考えるのはやめることにした。昨日の今日で頭が破裂しそうだ。生粋のお坊ちゃまの考えることなんて、全く理解できなかった。


***


潤が学校に行くのを門扉で見届けてから、綾希はバケツに入ったバラの花束に近づいた。床におかれたバケツをのぞき込むように、しゃがみ込んで、そっとバラに触れた。まだ開ききらない蕾を囲む薄い花びらの縁を右の指先でなぞり、その感触を確かめるように左手で指先を包み込んだ。再びバラに手を伸ばすと、トゲに触れぬように慎重に茎を押し分ける。そして思った通り、バラの花束に埋もれるようにして小さなメッセージカードが入っていたのを見つける。カードを裏返して、Keigo Atobeというサインを確認する。周りに誰もいないか確認してから、綾希はそれをエプロンのポケットに入れた。
彼女はそのまま何事もないかのように、河西に言いつけられた仕事に取りかかった。きびきびとした足取りで掃除用具を取り出し、普段使われていないという部屋へ向かう。仕事をこなしながら、綾希は物思いに耽った。

今朝会った幸村。幸村の優しげな微笑みを思い出して、ちょっと赤くなる。ああいう角のない笑みを見たのは久しぶりな気がしていた。そして、お嬢様。彼女は、『当初予想していた以上に難しそう』だ、と綾希は眉間にしわを寄せた。
どこから何をすればいいのか、ときどき迷いが生じる。時には仕事よりも『私情』を優先してもいいだろうか?
それなら、まずはお嬢様より幸村さんだ。彼の本心がどこにあるのかはいまいち分からない。けれど、なんとかなるかもしれない。さりげなく聞いたところによると、特定の女もいないらしい。お嬢様は彼を慕っているどころか苦手に思っている。
――それなら。私でも大丈夫かもしれない。そういうことにはイマイチ自信がないが、これでも二十数年は生きてきたのだ。幸い、彼も自分を気に入ってくれているようだし、このチャンスを逃したくはない。
そこまで考えてから、綾希は頭を振って仕事に集中することにした。


(20130828)

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