カモマイルの悪魔 | ナノ


密着しそうなほど近くにいる跡部からは、濃密で、しかしくどくはない、花のようなよい香りがした。顔を近づけられても何も思わなかったのに、鼻腔をくすぐる芳香に今更ながら潤はどきっとした。急に恥ずかしくなって顔を背ける。さっきから予想外のことが起こりすぎて、感情が露わにならないようにするのが精一杯だ。
跡部はゆっくり幸村の方を見て、体を起こした。熱が離れていく。その先にいた幸村は冷たい顔をして、そのくせ語気には抑えた激しい怒りを含んでいた。再び幸村が口を開いたかと思うやいなや、二人は火花を散らした。
潤は驚いて目を見開いた。知り合いだって言ってたけど、こんなに遠慮のない関係なの?幸村と跡部財閥の御曹司が?どういう関係なのかと疑問に思う。少なくともただの知り合いというレベルではないように思える。

「ずいぶん手が早いな、さすがボンボンはやることが違うね」
「はん、口に気をつけたらどうだ?あーん」

突然言い争いが始まったことに潤は困惑した。そもそも幸村がなぜこんなに怒っているかが分からない。合コンに行って千石さんと会ったときと違って、今回は跡部財閥のパーティーが会場で、しかも自分が会っていたのはこの跡部景吾だ。身元はこれ以上ないくらいはっきりしているし、実力者だし、仲良くしておく分には白岩家にとって損どころか利益になるはずだ。……ただの気まぐれだと思うが、もし跡部に気に入られていたのだとすればなおさら問題はない。潤が足を痛めたことを不注意だと怒っているならば、跡部ではなく潤に怒るだろう。

「白岩カンパニーの重要な取引先の、未来の社長様だぜ。一社員がずいぶん偉そうに言うじゃねえか」

まずい、跡部先輩を怒らせたか。潤は焦ったが、次の瞬間、幸村は笑顔になった。潤は幸村の背中に閻魔大王が見えた気がした。

「これは、大変失礼いたしました。お嬢様の貞操の危機かと思うとなりふり構っていられませんでしたので。仮に安全だったとしても若い男女が二人っきりで個室にいればよからぬ噂が立ってしまうかもしれません。それは我々白岩カンパニーの者と致しましてもとても喜べることではございません。それに、跡部様がわたくしのようなたかが一社員の口の悪さを気になさるほどお心の小さなお方だとは思いませんでしたので。――お嬢様から離れてくださいますか、このクソおぼっちゃま」
「……最後、本音隠れてねえぞ」

幸村は笑顔のまま跡部の文句を鼻であしらった。
固唾をのんで二人のやりとりを見ていた潤は、その間に樺地がひっそり戻ってきたことに気がついた。彼は二人のやりとりを邪魔しないように静かに潤の前にくると、跪いて、手にしていた救急箱らしき箱を開いた。どうも手当をしてくれるつもりらしい。

「あの、お手間おかけするほどのことではありませんので」

小声で言うと、樺地は手をとめてじっと潤を見つめた。小さくて透明な黒い瞳。そのまっすぐで純粋な目に、潤は心が落ち着いていくのを感じた。この人には虚勢をはらずに素直になっていい気がした。

「手当て、してくださるんですか?」
「ウス」
「ありがとうございます」
「ウス」

樺地はやさしく潤の足に触れると慣れた手つきで足を消毒し、ガーゼを当てて、肌に近い色をした高そうな絆創膏で患部を覆った。潤はただの靴擦れに丁寧な手当をしてもらったことにたいする感激と申し訳なさで一杯になった。
笑顔の幸村と舌戦を繰り広げていた跡部は、額に浮かべていた青筋をひっこめて口の端を上げ、上から目線の笑みを浮かべた。

「ふん、まあいい。それにしてもずいぶん必死だな、あーん?」
「当たり前だろ、社長のお嬢様だからな」
「それだけか?お前こそ手を付けてるんじゃねえのか」
「跡部と一緒にしないでくれるかい。お嬢様を遊びの対象にしないでくれ」
「本気だと言ったら?」

手当を終えた樺地が跡部の後ろに控える。潤は変な気分になった。いつもは自分が幸村と向かい合っている、今は私と幸村の間に割り込むようにして、跡部先輩が立ちふさがっている。幸村と直接対峙しなくても済むことにほっとする一方、幸村との間に誰かがいるというのも落ち着かない。
幸村は跡部とは正反対に、声に不快感をあらわにした。

「本気なら出会ってすぐに口説いたり個室に連れ込んだりしないだろ」
「手当のためだ」
「どうだかね」
「はっ、お前こそどうなんだ」
「なんだと」
「そういう割にはずいぶん酷いじゃねえか。大切なお嬢様が足を痛めていることにも気がつかねえくせに」

幸村は口をつぐんで沈黙した。跡部はそんな幸村に頓着せずくるりと振り返る。樺地とは正反対のアイスブルーの鋭い瞳が潤を見下ろした。

「樺地、潤を車まで送っていけ」
「あの、跡部先輩」
「心配するな。幸村と白岩社長はこっちで家まで送っていく」
「その、ですから」
「パーティーなんざ無理してまで出るもんじゃねえ。俺様に甘えろ」
「うわっ」

樺地に抱え上げられて、ぐんと視点が高くなり、跡部の背中に隠れていた幸村もしっかり見える。潤は困って幸村を見ると、幸村は仏頂面をしていて、しかし一つ潤に向かって頷いて見せた。そうしろ、ということか。

「ありがとうございます、跡部先輩、樺地さん」

跡部はお礼の言葉を軽くあしらうと、幸村に聞こえないくらいの小さな声で潤に耳打ちした。

「今日のところはここまでにしといてやる。俺様のことをよく覚えておくんだな」

覚えるもなにも、忘れられませんよ、跡部さんみたいな人のことなんて。
そう言いたかったけれど、潤が返事をする前に樺地が歩き出してしまった。樺地は潤を抱えたまま、ソファの横にあるもう一つの細めの扉を器用に押して、潤を部屋の外へ連れ出した。部屋から出る際に首だけ回して振り返ったけれど、幸村の顔は見えなかった。見えたのは、ニヤリと笑った跡部だけだった。

歩みとともにゆらゆら揺れて、従業員用の通路なのだろうか、客のいない廊下を進んでいく。

――お前に会うためだ。俺は本気だ。俺様に甘えろ。

何でもない言葉なのに、跡部さんの台詞がいやに耳に残ってじんわりと体を温めた。あの人と自分がどうこうなるとは思わない。でもその優しさが素直に嬉しかった。顔をあげると、まっすぐ前を向いて歩く樺地の顔が見える。彼は潤の視線に気がついたのか、少しだけ潤の方を見て、また再び前を向く。
優しい目をしているな、樺地さん。潤は目をつぶった。本心がどうであるかは分からないけれど、それでも嬉しいものだ。優しくされるということは。もしかしたら優しさに飢えているのかもしれない、千石さんといい、跡部先輩といい。ここのところはお父さんも仕事で忙しく、遠方に嫁いだお姉ちゃんはもちろん、お姉ちゃんの子育てを手伝いに行っているお母さんにも会えない。もう成人しているというのに、広い家の中に家族がいないというのは、なんとも寂しく感じる。家の中で家族同然といえば、ある意味幸村もそう、だが、幸村はあの調子だ。幸村は私に分かりやすい愛の言葉を語るけれど、彼はその口で私が完璧なお嬢様になるように拘束して、そして、他の女性を口説くのだ。いつものように、薄情な笑みを浮かべながら。もうとっくに慣れたつもりだったけれど、精神がゆっくりと蝕まれているような感覚さえする。
潤は自重気味に笑った。愛の言葉など消えてしまえばいい。


***


「戻るぞ、幸村。親父に紹介するぜ」

上機嫌な跡部とは正反対に、幸村は不機嫌だった。小部屋を出てホールに向かう跡部に黙ってついていく。跡部はそんな幸村の様子を気にせず話し掛けた。

「幸村、さっきの話は本当か?あーん」
「何の話だ」

二人はホールに入った。まだ宴はたけなわで、人々のざわめきや宝飾品、音楽、食べ物や花があちらこちらでパーティーに彩りを添えていた。跡部は幸村を先導するように人の間を縫って歩き、自分の父親の元まで向かう。

「本当に潤とは何もねえのか」

幸村は不機嫌を通り越して不愉快そうに跡部を睨んだ。一方の跡部は純粋に疑問に思っているのか、いぶかしげな表情をしていた。

「当たり前だろ」
「そうかよ。それならそれでいい」
「跡部。何か企んでいないか」

小さな声で、しかし見逃しようもなく語気が鋭くなった幸村の言葉に、跡部は口をつぐんだ。しばらく二人は黙って歩き続ける。しばらくののち、跡部は返事を返した。

「さあな」

幸村はそれ以上何も言わなかった。跡部もまた、何も言わなかった。


***


綾希は最後の荷物を詰め終えると、ぱたんとトランクの蓋を閉めた。終わった。今日はもう寝て、後の細々したもの、お布団やバスグッズは明日の朝に荷造りしよう。そう決めてから台所に向かい、コップに水をくんで飲み干す。コップは洗い場において、お団子にしていた髪を下ろして。綾希は薄っぺらな壁に囲まれた狭い部屋を見渡した。わずかな段ボールが脇に積み重なっている。感慨深いものがあった。
いよいよ今日が、このウィークリーマンションで暮らす最後の日となった。明日からは白岩家で住み込みのメイド仕事だ。前の主の家を出てから数ヶ月も経っていないが、その間、ビジネスホテルやウィークリーマンションを転々としていた。自分の軌跡を知られたくなかった。

ばれるわけにはいかないのだ。上手くいくだろうか。これからの『仕事』は。

綾希は、数日前に面接で見た潤の顔を思い浮かべた。成人したばかりにしては落ち着いた女の子。さすが、あの白岩カンパニーのお嬢様だという感想を抱いた。人当たりもよさそうで、しかし優柔不断とは反対で芯が強そうな、しっかりした女の子。綾希は彼女に対して好感を抱いた。白岩家に勤めるのならば、あまり家にいない白岩社長よりも潤お嬢様の世話をすることになるのだろう。彼女相手ならメイドの仕事もしやすそうだった。ただ、『あのお嬢様を騙すことになる』のは心苦しいことだった。やむを得ないことではあるけれど。

「あ……」

無意識のうちに胸元に手を伸ばしていた自分に気がついて、綾希は苦笑した。そうだった、ネックレスはもうないんだ。『自分』がばれる元凶になりうるものは全て置いてきた。これからのためには、必要のないものだった。むしろ、持ってきてはならない。もう不要なのだから。

布団をめくって中に体を横たえる。白岩家で働くことが楽しみでもある。でも同時に、心して、慎重に、念入りに動かなければならない。目的を達成するまでは。その目的は、知られてはならない。
白岩家のことを様々考えるうちに、だんだん眠くなってくる。眠りに落ちる直前に綾希の脳裏に浮かんだのは、あの若い執事の顔だった。


(20130811)
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ウィークリーマンションというのは週単位で借りられるマンションのことです。緊急で住む場所がない時に使ったりなんだり。マンスリーマンションとかもあるよ。

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