カモマイルの悪魔 | ナノ


しばらくののち、老紳士に話し掛けられた榊先生は潤に向かって「ではな。行って良し!」といつもの二本指ポーズを決めた。潤は先生と老紳士に頭を下げてから、談笑する人の間をぬってできるだけ颯爽と歩きホールの隅っこに向かった。

――もう少し年をとれば、本音と建前を乗ずに切り替えられるようになるだろう。
潤は歩きながら沈思した。どうしてもまだ自分には上手くできないことの一つだ。建前が崩れて本音が露出してしまうことも多々あるし、建前ではつくろっていてもさらっと流せないことも多い。幸村の愛の言葉、とか。本気にはしていなくとも、いや本気にしていないからこそ、建前では笑っていてもスルーできずに嫌な気分だけが溜まっている。これも、そのうち、気にならなくなるんだろうか。今はまだ、本音の自分と建前のお嬢様を使い分けることでも精一杯で、難しくて、建前を大事にすればするほど本音の自分が蝕まれて消えてしまいそうになる。

潤は精一杯の微笑みを作った。まっすぐ伸ばした足が床の絨毯に着地するたびに踵に痛みが走る。靴擦れだろうか。ここが大学なら遠慮なく靴を脱ぐところだが、そんなわけにもいかないから平気そうに振る舞うしかない。はき慣れないハイヒールをいきなり履いてくるべきじゃなかった、と改めて後悔する。痛む足を必死で動かして到着したホールの隅っこは柱と大きな観葉植物の影になっていた。黙って立っていても目立つことはないだろう。潤は背を壁に向けてホール全体を見渡した。座れそうなところ、なし。このままパーティーが終わるまで立っているしかなさそうだ。
なすこともなく周りの人たちを見る。タキシードやイブニングドレスで正装している人からブラックスーツやワンピースなど軽めの服装の人もいる。年齢はさすがに中高年の紳士淑女が多いようだったが、小さな子供や自分と同じくらいの年齢の人もちらほらいる。数百人はいるに違いない。よくもこんなに集めたものだ、さすが跡部財閥。そんなことを考えてあたりを観察しつつ、潤は無意識のうちに幸村を探していた。見つかるはずがないと心のどこかで思っていたのに、実際はあっさり見つかった。身なりの良い男性の肩越しに幸村の横顔が見えた。幸村は和風美人な女性と何か話をしていた。その女性は左手に丸いお盆を持っていて、その上には赤ワインの入ったグラスをたくさん乗せている。身に着けているシャツからしても給仕の女性なのだろう。給仕からワインを受け取るだけにしては長い時間話しているように見えた。
潤はまたか、と思った。綺麗な女性と、笑う幸村。そんな幸村に気がついてしまう自分にもうんざりする。幸村のことだ、いくら女好きでも白岩家に悪影響を与えるようなことはしないだろう。取引先のお嬢様をたぶらかして捨てるとか。でも……、そういう問題じゃない。
ぐっと手を握りしめて潤は目を反らした。私は幸村のすることに干渉しないんだから、せめて幸村も私のことをほっといてくれたらいいのに。足の痛みが増してきたような気さえする。ストッキングごとハイヒールを脱ぎ捨てたい。お手洗いに行って足の状態を見たほうがいいだろうか。絆創膏、持ってたかな。持ってたとしても貼ったら靴からはみ出して見えちゃうだろうか。

「おい」
「はい」

考え事をしていると潤は誰かに話しかけられた。反射的ににっこり微笑んで声の方を見る。声の主を認識した瞬間、潤は笑顔がひきつりそうになった。

跡部景吾。
間違いない。数年前に氷帝で見た、彼だ。

彼はシャンパンゴールドと茶が基調になった派手なタキシードを着、左手を顔に当てて立っていた。指の隙間から見える彼の淡青の瞳は潤の姿を正面から捉えている。
ここ、邪魔だっただろうか。いやいやそんなはずはない、だって端っこだし。じゃあ無礼なことをした?そんなはずはない。さすがにそんなことは身に覚えがない。仏頂面でパーティーの雰囲気を壊しているというわけでもないし、まさか幸村が失礼なことを、いや、それも考えにくい。
潤が冷や汗を流しながら笑顔の下で考え込んでいると、跡部は顔に当てていた左手をこちらに差し伸べ、予想もしていなかった台詞を吐いた。

「来い」
「はい?」
「足を痛めているな、あーん?」

潤は胃をぎゅっと捕まれたような気分になった。なんでばれたんだろう。勘?それともずっと壁際にいて動いていなかったせいか。失敗した。

「いいえ?問題ございません、お気遣い感謝いたします」

壁から離れて跡部の前を普通に歩いて見せる。歩くたびにずきずきと痛みが走るが我慢して、微笑みを浮かべたまま跡部に丁寧に頭を下げて見せた。
ところが彼はつかつかと近づいてくるやいなや、潤の腕をぐっとつかんで自分の方に引き寄せた。体のバランスが崩れた瞬間、また足が痛む。

「強がってんじゃねえよ」
「いいえ、本当に」
「いいから来い、白岩潤」

潤は笑顔のままで内心パニックになった。なんで分かっているのか、それになんて強引なんだ、どこのお嬢さんにもこんなことするのか、いやそもそもそどうして私の名前を知っているのか、知り合いでもない上に跡部先輩はお父さんのことは知っていても私の顔は知らないはずだ。
抵抗もできぬうちに腰を抱き寄せられて、跡部にホールの外へ連れ出される。跡部はそのままホール横の扉を開けて、手探りで中の電気を付けた。そこは7畳ほどの小さな部屋で、金縁の重厚な枠に入った1.5メートルはありそうな油絵が奥に飾られ、その下には艶やかな茶色の木と赤い布貼りのソファが鎮座している。潤はソファに押し込められて、ほとんど尻餅をつくように座り込んだ。クッション性が高すぎてぼふりと沈み込む。こんな小さな部屋だというのに、天井からは小振りのシャンデリアが下がっていた。跡部の肩越しには大柄な若い男が控えていた。
足を触られて、体が強ばる。見れば跡部が潤の足からハイヒールを外しているところだった。潤はますます焦った。なんで跡部先輩はこんなことをしているのか、展開がさっぱり分からない。

「あの、本当に大丈夫です。いっ」

突然、跡部は踵の、赤くなっていた患部を指で押した。刺さるような痛みが走って思わず顔をゆがめる。目に涙が浮かぶ。なんてことをするんだ、この男は。顔に熟したトマトでもぶつけてやりたい。潤が跡部を睨むと彼はククッと笑った。

「痛いんじゃねえか」
「大丈夫です」
「はっ。樺地、手当のための一式を持ってこい」
「ウス」

樺地と呼ばれた男、確か跡部が氷帝に来たときも付き従っていたはずだが、彼はその体躯に似合わぬ素早い動きで部屋から出て行ってしまった。

「跡部先輩」
「さすがに俺のことは知っているようだな」
「氷帝学園の伝説ですから。あの、私、氷帝の後輩で」
「知っている」

跡部は今度は右手で潤のあごをすくった。幸い顔はあまり近くない。このくらいなら平気だ。あの幸村のせいで至近距離のイケメンフェイスにも耳元での口説き文句にも心を動かされなくなってしまった。
それにしても、なんでこの人は私のことが分かったのだろう。名前といい、後輩であることといい、足が痛かったことといい。潤が疑問に思っていることに気がついたのか、跡部は潤を舐めるように眺めて口の端をつり上げた。

「俺はお前のことはなんでも知ってんだよ」
「なぜです、跡部先輩」
「さあな。……おい、跡部先輩というのはやめろ」
「え」
「跡部、だったら親父と混同されるからな。景吾さんでいい」
「それは嫌です」

きっぱりと言い切ってしまってから、潤は慌てて笑顔を取り繕った。まずい、また段々と素が出てきている。それにしても、と潤はため息をつきたくなった。千石さんといい、幸村といい、跡部先輩といい。みなタイプは違うが、どうしてこんなにも軽い男ばかりなのか。さっきの樺地さんは誠実そうに見えたけれど。
跡部は潤のあごをはなすと、首をそらして愉快そうに笑った。鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌に見える。

「ハッハッハッハ、なかなかハッキリ言うじゃねえか!気の強い女は俺様好みだぜ」
「その、婚約者みたいに聞こえてしまいますので」
「はん、俺様は構わねえ」

潤は言葉に詰まった。どう返事をしたらいいのか。いつものように「ありがとうございます」と返すのも今回はマズい気がする。そもそも相手が何を思っているかがさっぱり読めなかった。本気でないということはわかるが、何を思ってここまで優しくしてくれているのかが分からない。気に入った女性というのであればまだ分かるがそんなことはありえないし、だからといって全ての女性に優しくしているとも思えない。なぜ私のことが分かったのか、という問いもはぐらかされてしまった。

「跡部先輩、私は大丈夫ですからお戻り下さい」
「あーん?黙って俺様に優しくされておけ」
「でも、今日は跡部会長主催のパーティーですから、跡部先輩も会場にいなければ」

潤が必死で言いつのると、跡部はふうっと息を吐いて潤の瞳をまっすぐに見つめてきた。

「お前、俺様がなぜ今日ここにいるか知ってるか?」
「それはもちろん、パーティーで一緒にお祝いをして」
「違う」

きっぱりと言い切られた言葉は、予想だにしていなかったものだった。

「お前に会うためだ」
「えっ?」

潤は首を少しのけぞらせて、目を見開いた。とっさにかぶりをふって、半笑いを浮かべてしまう。

「冗談が過ぎますよ」

しかし潤の目に映った跡部景吾の顔は、真剣そのものだった。

「俺は本気だ」

跡部は潤の膝の横に手をついて、耳元に口を寄せてきた。耳に跡部の熱い吐息がかかる。
潤は緊張と混乱のあまり体がこわばらせた。愉快そうな顔をする跡部先輩。真剣な跡部先輩。なぜ。お父さんの関係?仕事をしたことがあると言っていたし。一応、私がお父さんの会社に関わる可能性が高いから?どうしよう、どうしよう。どうしたらいいんだろう。

その時、静かに部屋の扉が開いた。

「――うちのお嬢様に何をしている、跡部」

冷静な口調だったが、幸村は潤が始めて千石に会った日に見たような険しい顔をしていた。眦を決した切れ長な目には剣呑で冷徹な光を燃やし、眉をつり上げて。
跡部は口の端をつり上げると、ゆっくりと身を起こし潤から体を離して幸村の方へ振り返った。


(20130805)

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スケスケだぜ!
一応弁解しておきますが、逆ハーではありません。念のため。

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