カモマイルの悪魔 | ナノ


幸村に手を取られて潤が黒塗りの車から降りると、ハイヒールが大理石の床に当たってコツリと音を立てた。降りた場所は跡部邸の玄関前に位置するロータリーで、道沿いに磨き抜かれた高級車がずらりと並び、次々と礼装に身を包んだ男女が下車していた。潤は密かに胸をなで下ろした。お父さんが会社の高級車を借りてきたのは正解だった。うちの自家用車だったら普通すぎて悪目立ちするところだった。

「では行こうか幸村くん、潤」

お父さんに促されて歩を進めると、デパートのような巨大な玄関が目に映った。薄暗闇の中、明治時代のガス灯を連想させる趣ある照明が玄関の柱や扉に刻み込まれた紋様を煌々と照らしていた。分厚い両開きの扉の横にはタキシードに白手袋のドアマンが愛想よく控えている。扉は人が近づくたびに開かれて、その隙間から紅い絨毯が奥へ続いているのが見える。
これが噂の跡部ッキンガム宮殿か、と潤は感嘆した。都内の、しかも東京西部の高級住宅街にこんな巨大で豪華な一軒家があるだなんて信じられない。地価だけでも想像できないほど高額に違いないのに、このヨーロッパのお城のような重厚な建物だ。建築費も維持費もとんでもない値段に違いない。いくら白岩家が裕福になったといえど、跡部財閥の足下にも及ばないのだということを改めて痛感する。桁違いだ。
どうぞお楽しみ下さいませ、とにこやかに笑うドアマンの横を抜けて中へ入ると、既に到着した人々の足音や笑い声、グラスに飲み物を注ぐ音が奥から聞こえてきた。さまざまな色があちらこちらをいったりきたりする。鮮やかな朱鷺色や翡翠色のドレス、首もとで燦然と輝く透明なダイヤのネックレス、銀のカフスボタン、赤いチーフ、光沢のあるブラックタイ。ほんの数年前までは雲の上の話だと思っていた世界に今自分がいる不思議。
その場の空気に飲まれてぼうっと歩いていたら、潤は床の絨毯に足を取られて躓いた。うわっと声を上げかけたところで幸村に腰を支えられる。危ないところだった。ころぶのも恥ずかしいし可愛くない叫び声を上げるのもまずい。幸村は潤の腰を抱えたまま低い声でつぶやいた。

「お嬢様らしくして下さいと常々申していますおりますよね?」
「悪かったわね、気をつければいいんでしょ」
「ええ、もちろん」

確かに私が悪かったけれど、そこまで言われなきゃならないことか。潤は幸村の足をヒールで踏んづけてやりたい気持ちをこらえてなんとか笑顔をひねり出した。どうせここで微笑みの一つでも浮かべなかったら、更にお嬢様らしく愛想よくしろだの何だのと嫌みったらしく説教されるに違いない。
潤は少し先を歩く父親を見るが、彼はこちらのやりとりに気がついている様子はない。潤はほっとしていると同時に少々残念にも思った。お父さんに心配はかけたくない、でもこの幸村との異常な関係に気がついて欲しいという気もする。もしお父さんが知ったら少しはマシになる気がする。でも、そんなことでお父さんの負担になりたくもないとも思う。

跡部家の使用人に案内され先は、大きなホールになっていた。前方にはステージが設けられ、有名人の名前が書かれた大型の花輪がずらりと並んでいる。ステージ下には白いクロスのかかった丸テーブルが配置され、その上にはシャンパンやワインの入った飲み物が並び、人々はその横で輪になって談笑している。ところどころには四角い大テーブルが置かれ、サラダやらパスタやらが山と盛られた大きな銀のプレートが整然と並んでいる。

「……聞きました?……系列の……次の社長が……」
「確か……景吾様で……」
「……えーえ、今日この場で……3年後を……」

どうやら跡部先輩が、跡部財閥の持つ会社のうちのどれかの社長になるらしい。中学生のときに母校へやってきた跡部先輩のことを何度か見かけていたが、とにかく派手で、自信家で、ハンサムで、よく分からないポーズを決めていたことを覚えている。入学したとたん「俺様がキングだ」発言をしたとか生徒会を乗っ取って副生徒会長職を廃したとか様々な伝説、もとい噂が氷帝生に伝わっているけれど、真偽は不明だ。いくらなんでも本当にそんなことをしたとは信じられない。
潤は静かに深呼吸した。豪華なお屋敷やこれから始まるパーティーに心が躍る反面、憂鬱でもある。始めて来た跡部財閥のパーティー。跡部財閥が持つ会社のうちの一つが節目の年を迎えるとかで、経済界の要人や政治家、芸能人、その家族や何やら大勢を招いて盛大に祝うのだとか。人が集まるところではどうも気疲れしてしまう。

「では、私は跡部さんに挨拶に行ってこよう」
「お父さん、跡部会長と面識あったの?」

跡部さんとは景吾先輩のことではなく、先輩の父親、つまり、今回のパーティーの主催者のことだ。てっきり大会社の社長だから自分たちが呼ばれたのだと思いこんでいた潤は父親のセリフに本気で驚いた。彼は目尻を和ませて満足そうに笑うと、あごを撫でた。

「ああ、昔取引をしたことがあってね。噂通り、大変物腰が穏やかな人格者だよ」
「それは、その、跡部景吾とはずいぶん性格が違うようですね」
「幸村、跡部先輩と知り合いだったの!?」

今度は幸村から跡部先輩の名前が出てきて潤はぎょっとした。幸村と跡部先輩は確か同い年だったはずだが、今をときめく御曹司の跡部先輩と、優秀といえどただの若手社員にすぎない幸村が知り合いだとは思わなかった。思うより世間は狭かったということか。

「……まあ、そうですね。有名人ですし」
「はは、景吾くんはまだ若いからね。私もうかうかしていたら彼にやられてしまうかもしれないな」
「私も挨拶した方がいい?」
「いや、紹介は後にしよう。お前はとりあえずは自由にしていなさい。お世話になった方々への挨拶は忘れずに」
「うん」
「幸村、君も自由にしていいからね。今日は一社員として来ているのだから、娘の面倒をずっと見ている必要はない」
「はい。せっかくのチャンスですからいい人脈を作りたいです」
「ああ、そうしなさい」

お父さんは、ずいぶん上機嫌だった。私は特にすることもないし、失礼にならない程度に挨拶をして、目立たない程度に壁の花になっていよう。鼻歌でも歌っていそうな父親の背中を見送って一歩歩きだそうとしたとき、幸村は潤の耳に口を寄せてきた。

「お嬢様」
「何?」
「愛していますよ」

こちらの心さえ凍らせそうな冷たい笑顔を浮かべて、幸村は囁く。お父さんには決してばれないようなタイミングで、でも他の人がいるところで。人がいなければいいという問題でもないが、なぜわざわざこんな時に言うのかと怒りがこみ上げる。潤は全神経を集中して満面の笑みを浮かべてみせた。

「ありがとう」

潤は笑みを顔にはりつけたまま、怒りをこらえて顔をそらした。
おかげで憂鬱な気分など吹き飛んだ。最低。


***


両親が懇意にしている社長さんや奥様方と一通りの挨拶や世間話をしたのち、潤は手持ちぶさたになった。特に知り合いが多いわけでも、大物の気を引けるほど話題が豊富なわけでもない。失態を犯してはならないからお酒を満足に楽しむこともできないし、バイキングに走るわけにもいかない。潤は空になったシャンパングラスを片手に部屋の隅を見た。ほかほかと湯気を立てているトマトのパスタ、コックさんが分厚く切り分けている肉汁たっぷりのローストビーフ、クリームと果物のたっぷり乗ったケーキ。潤は遠慮せずにどんどん料理を自分の皿に入れているおじさま達が羨ましくなった。お嬢様らしくするならがっつくわけにはいかなくて、今日ばかりはお嬢様である自分がうらめしい。ああ茹でた伊勢エビがおいしそうな顔でこちらを見ている気もする。小腹は空いてくるし、はき慣れないハイヒールで足は痛くなってくるし。ああ、ついてない。
今度から大学にいくときにはスニーカーじゃなくてハイヒールを履いていこうか、ハイヒールにも慣れなきゃなあ、と潤がぼんやり考えていると、背後から聞き慣れた声がした。

「飲み物はいかがかな」
「榊先生!」

りんごジュースの注がれたグラスを差し出してきたのは、榊太郎だった。榊先生には中学生のときも高校生のときも授業でお世話になっている。高校を卒業してから1年ちょっとだがずいぶん懐かしく思えて潤は嬉しくなった。そうか、榊先生もいるんだ。榊グループと跡部財閥は提携することもよくあるそうだから、榊先生がいるのは当然のことだった。

「まだ酒には慣れていないだろう、ジュースでも飲んだらどうだ。それとも食べ物の方が良かったかな」
「からかわないでください!……お気遣いありがとうございます、いただきます」

榊は少し笑うと、額に指を当ててポーズを取った。ジュースを受け取った潤は密かに榊太郎と跡部景吾は似ているんじゃないかと思った。二人とも派手だし、財閥の人だし、超実力主義だし、何かポーズ決めてるし。しかもそれがよく似合うのがまた不思議だ。

「すっかりお嬢さんになったな、白岩。お前が中学に入ったばかりのころは――」
「うわあ、やめてください言わなくていいです!恥ずかしいです!」
「そうか?」
「そうですよ!というか榊先生なんでそんなことまで覚えているのですか」
「教師とはそういうものだ」

潤は必死に小声で抗議するが、当の榊太郎はどこの吹く風といった顔をしている。まったく、なんて人だ!子供のころの話なんて黒歴史でしかない。極めて普通の子だったと思うが、あのころはいきなり氷帝のリッチな学園生活に放り込まれて、庶民丸出しで驚きの連続だった。同じく庶民な子と騒いでいた記憶が蘇る。今振り返っても驚くような生活だったが、それでも豪華だ何だと大騒ぎする幼い自分を暴露されるのは恥ずかしかった。今なら、少なくとも驚きを隠してすました顔ができるくらいにはなっている。

「素直な顔が見えたな」
「えっ?」
「自分を大切にしなさい」

潤は思わず真顔になって榊先生を見つめた。彼は相変わらずポーズを決めたまま涼しい顔をしている。どういう意味か捉えかねて返事に詰まっていると、彼は言葉を続けた。

「本音を消す必要はない。もう少し年をとれば、お前も本音と建前を上手に切り替えられるようになるだろう」
「そう、でしょうか」
「ああ」

いつの間にか繕っていた笑顔が消えていることに気がついて、潤は慌てて気を引き締めた。少なくとも学校ではこんなにお嬢様ぶる必要がなかったから、つい先生を前にすると素の自分が出てしまったのかもしれない。
潤が大きく深呼吸をしてから笑顔を作ると、榊太郎は満足そうに笑った。


(20130730)

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先生らしい(?)榊太郎。

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