カモマイルの悪魔 | ナノ


背後で重々しい音を立てて玄関の扉が閉まった。室内には煌々とオレンジの光が灯り、ガラスや金属で出来た廊下の飾りがきらきらと輝いている。初老の家令・河西が、丁寧になでつけられたロマンスグレーの頭を下げて潤を出迎えた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま。春なのにまだ寒いね」
「ええ。コートをクリーニングに出すのはもう少し先にします。お夕飯、いかがなさいますか」
「食べる。お風呂の前に」
「かしこまりました」

河西はにっこり微笑むと足早に去っていった。潤はスリッパに履き替えて廊下の奥へ足を進める。食事の前にまずは着替えなければ。ゆっくりと二階へ続く階段に向かう途中で、潤はそばの部屋から男女の声がすることに気がついた。男の声は低く小さく、聞き取ることができない。女もまた囁くように、くすくすと笑っている。
――嫌な予感がする。いや、予感というよりも確信だ。
部屋のドアは開いていた。勤め始めて1ヶ月になるメイドが壁にもたれかかってくすぐったそうに微笑んでいた。頬に、男性の手が置かれている。潤は一瞬顔をしかめた。幸村。顔はよく見えないが口角の上がった口元が見えた。潤の足音が聞こえたのか、彼はすぐに彼女から手を離して振り返った。笑みを浮かべてこちらへ向かってくる。

「おかえりなさいませ」
「ただいま、幸村」

幸村の笑顔が嫌いだった。あの日からずっと。





「愛してますよ、お嬢様」「ありがとう」





微笑みながら幸村は耳元で囁く。潤もまた綺麗に微笑み返す。お嬢様らしく上品に礼を述べて。
それはうわべだけの愛の囁きだった。幸村は毎日、人には聞こえないような小さな声で薄っぺらい愛を落としてゆく。本当は何とも思っていないくせに、ただ「自分が尊敬する社長の娘」というだけで大切に大切に接してくる。「人がいるところでは」。


こうやって囁かれるようになってどれくらい経つだろう。幸村の言葉の軽薄さに、潤は最初から気がついていた。潤が気がついているということに幸村もまた、気がついている。二人とも気がついているというのに、本物に似せた偽物の好意のやりとりを儀礼のように続けている。ただの荒唐無稽な戯れ言。まるで悪夢だ。
潤は苛立つのを感じた。馬鹿にされている。この吐き気がするような告白は何度言われても慣れはしない。それでも幸村を怒鳴りつけないのは、単なる意地とプライドだ。幸村は笑っていない目を細めて、まるで恋人にでも微笑むかのような笑顔を作ってみせた。




女に向けられた男性の笑顔が嫌いだった。ずっと。もう何年も前の話で細かいことはろくに覚えていないけれど、そういう笑顔に生理的な嫌悪感を抱くようになったのは『あの事件の日』からだ。
そして幸村の笑顔は特に、嫌だった。彼は間近で女を見つめながら低く愛を囁く。女はうっとりとした表情で目を潤ませる。彼の顔に浮かぶのは表面的で薄情で嘘に覆われた、綺麗なだけの笑みだというのに。まるで女心を手玉に取るような、その笑顔。





それでも幸村精市は有能な執事だった。だから文句なんてない。





お父さんの会社はますます大きくなっていく。お母さんは会社を支えるため裏方で奔走し、お姉ちゃんは生まれたての赤ちゃんを一生懸命育てている。自分は大学に通いゼミの課題に明け暮れて、親友と笑いながらお昼を食べて、そして豪邸になった家へ帰る。


繁栄していく家。忙しくても気に掛けてくれる家族。気の置けない友達。恵まれた、環境。





だから文句なんてない。
文句なんて、あっていいはずがなかった。





潤は幸村の横を通り過ぎて階段に足を掛けた。早くしなければ夕飯が冷めてしまう。
目の端に、悔しそうに切なそうに顔をゆがめたメイドの顔が映った。



***



「前から気になってたんだけどさ、あんたどうなってんの?全然お嬢様じゃないじゃん、性格とか行動とか」

池に向かって小石をぶん投げた潤を見て、友人の高原美波が呆れたように言った。ぽちゃん、と音がして水面に波紋が広がる。
振り返ると彼女は丁度おにぎりにかぶりついたところだった。彫りの深い顔立ちに艶のあるハニーブラウンの髪。ラップにくるまれたおにぎりなんて生活臭あふれるものを食べているのにサマになっている。もうちょっとアイメイクが薄ければお嬢様っぽい。少なくとも、自分よりはずっと。
潤は半眼になって手に付いた土を払った。いつか言われると思った。

「悪かったな。仕方ないでしょー、急にお金持ちになっちゃたんだから」
「急に?そういえば白岩カンパニーがマスコミとかネットとかで騒がれ始めたのって最近ね」
「お父さんの事業が上手く行き始めたのが9年くらい前なんだけど、ここまで急成長したのはここ数年でだし」
「なるほどね。どーりで中等部のときも高等部のときも潤の名前を聞かなかったはずだわ。同じ氷帝だったのにさ」

大学の友達である高原美波とは中学から同じ学校に通っている。でも氷帝学園はマンモス学校、1学年の人数があまりにも多かったためにお互いを知ることなく大学まで来てしまった。「氷帝の伝説」である跡部のように派手な行動を取っていたり極端なお金持ちであれば目立つのだが、そのころの白岩家はそこまで大きくなかった。

「じゃあさ、お金持ちの習慣とかないの?」
「お金持ちの習慣?」
「ほら、たとえば『お父様お母様、ご機嫌麗しゅう』みたいな挨拶とか」
「ただいまーって言う」
「じゃあ毎日一流コックの超豪華ディナーとか」
「昨日は肉じゃがだったわ」
「運転手付きの長ーい高級車でお出迎えとか」
「車の迎えはたまにあるけど普通の乗用車」
「薔薇の花弁が浮いたフローラルな広いお風呂とか!」
「市販の入浴剤なら入れるかな」
「ハンサムな御曹司に求婚される日々とか!!」
「乙女ゲームじゃあるまいし」

美波は目をカッと見開いてにじり寄ってきた。興味津々でストレートな質問を飛ばす事に近づいてくる。潤は顔を引きつらせながらのけぞった。な、何を言われるんだ。素直なところが美波のいいところでもあるし、変に遠慮されるよりはずっといいけれど。

「そんな!だって今は榊グループのパーティに呼ばれるぐらいの大会社の社長の家なのに!?」
「そう言われても……うち、急にお金持ちになってマスコミにも取り上げられたりするようになっちゃったから、とりあえず『外見』だけ整えたのよ」
「外見?」
「うん。お父さんとお母さんの服を良い物にしたりとか、大きい家建てて庭を綺麗にしたりとか」
「おおっお金持ちっぽくなってきた!」
「だけど時間がなくて細かいとこはそのまんまなんだよ。晩ご飯もバイトの人に作ってもらってるし」
「だから肉じゃがなのね」

美波はがっくりとうなだれて「お金持ちに夢見てたのに壊れた」などとぶつぶつ文句を言っている。潤は苦笑した。気持ちは分かる。当の自分だって未だに今をときめく会社社長の娘だなんて思えない。子供のころは裸足で木登りなんかして、氷帝に入学してからはさすがにそんなことはなかったけど、スーパーでお菓子を買うような普通の子供時代を過ごしたのだ。最近ようやくその気になればお嬢様っぽく振る舞えるようにはなったけれど、中身は簡単には変わらない。

「じゃあだだっ広い豪邸に父さん母さんと三人で暮らしてるんだ」
「あ。お金持ちっぽいこと、あった」
「なになに!?」
「使用人が住み込みで働いてる。3人」
「マジで!メイドさんとか執事とか?超お金持ちっぽい!イケメン?イケメン執事なの!?」
「……まあ、そうかな」
「なにが『乙女ゲームじゃあるまいし』よ!めっちゃ乙女ゲームじゃん、ロマンスじゃん」

拳を握って力説する美波に、潤は沈黙した。確かにそうかもしれない。そこだけ見れば。幸村は物事をす速く的確に処理することができて物腰も柔らか、運動神経も良くテニスは強かったそうだし、何よりあの甘いマスクと美声だ。でも、中身が洒落にならない。
うっとりと目を宙にさまよわせ始めた美波に、潤は額をおさえた。

「ないない。まったく、ない」
「そんな馬鹿な!イケメン執事とか超憧れなんですけど」
「じゃあ今度遊びにおいでよ。土日ならたぶん居るし」
「え。執事なのに平日はいないの?」
「夜なら居るよ。今は執事っていうかお父さんの会社の社員なんだよね、幸村は。若手のホープなんだとさ。それで会社で働いてないときに執事やってるの」
「幸村さんて言うの?会社で大活躍して帰ってきてからは執事だなんて、素敵すぎる」
「その人のせいでなかなかメイドがうちに居着いてくれないんだけどね」
「どういうこと?」

携帯が振動した。画面を見れば家令の河西からのメールだった。潤は内容を確認すると、予想通りの展開にため息をついた。
今またメイドが自主退職した、という連絡だった。うちに来てまだ1ヶ月だというのに。


(20121111,1116修正)

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